四章 ヴンシュ

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四章 ヴンシュ

 私を覆う空は、皮肉なほどに青かった。 重い扉を押し開け、強風を受ける。理科室から持ち出したペンチでフェンスに穴を開けた瞬間の開放感にはどこか後ろめたさがあった。 「……」  見えている景色の全てが偽物のように映る。 頭を下げる会社員、買い物帰りの主婦、広告に映る女優の顔も全て。相手が求める基準を満たすことができなければ、自分が存在している価値など無いものとされてしまう。 たとえ基準を満たしたとしても、価値がつく保証はない。理想の型から溢れた者から除外され、構成されたこの世界。 「私はどうなる?」  『優等生』響きだけは美しい、きっと昔から求められてきた称号。私についた数字に対する賞賛と、利用するための甘い言葉。 学生という有効期限が過ぎれば何の価値も残らない免罪符に縋って、数年後の自分はきっと空のまま。誰一人『私』を求めている人は存在しない。 『高嶺さんなら大丈夫だよね』  示された道を踏み間違えずに辿っていく行為を繰り返す度にどれだけの惨めさが私を襲うか、彼はきっと知らない。本当の私の醜さも幼稚さも全て。 「今なら、貴方の気持ちが痛い程わかる気がする」  貴方が飛び立ったあの日、私は人がいなくなるということすら知らなかった。貴方に初めて教えられた知りたくなかった真実。怪我をしたことはあったけれど、流れる大量の血液が赤黒いことは知らなかった。 そして今、人は簡単にいなくなれると初めて知った。 「でも貴方が生きていた世界より、今は少し生きやすくなった人も増えたのかもね」  昨今、この世界には『多様性』という便利な言葉が生まれ、人々の価値観に侵略していった。 誰がどんな格好をしても、どんな意識の中で生きても、それを尊重して生きやすさを創るという妄想じみた言葉の塊。ただその中にも型があって、本当に息のしやすい世界はどこにあるのか探すのに必死だった。一度型に当てはまってしまった人間がそこから外れることがどれだけ大変か痛感した。 「貴方がいなくなってからの私は……」  何も知らないまま時間だけが過ぎていった。示されるまま、促されるまま進んだ道の先に待っていたのは退屈で、息が詰まる閉塞的な場所だった。 そんなことも知らずに、貴方はこう書き遺したね。 『お空で幸せに暮らすね』  そんな子供騙しな台詞を遺して、今何を思って私を見ているのだろう。 「お兄ちゃん……ごめんね」  大好きな兄のことを恨むようになったのはいつからだろう。 本当は子供騙しなんかじゃない、この苦痛は兄のせいではない。意思を隠し、抗うことすら諦めた私のせい、上手な逃げ方すら身につけないまま大きくなった私の結果。 息をし続けたところで、何ひとつ見出せないまま数十年後に息を引き取るだけ。偽物にすらなりきれないまま、自分が誰かもわからないまま屍のように生きる瞬間の繰り返し。 「変えるには、終わらせるしかない」  この世界で唯一、他者が咎めることのできない逃げ方を私は知っている。 その結末を人は良くも悪くも三日で忘れる。恐ろしいほど効率的で、今の私には都合がいい。 フェンスの外側、ここから一歩でも先へ行けば私は生まれ変わることができる。 『えっ……?』  誰もいないはずの屋上、背後からの声を辿った先には 「早瀬君……?」  私の人生の最期を見届けるのは、何の思い入れもない一クラスメイトのようだ。 私の様子に驚きを隠せない彼の顔を見ていると、妙な余裕が生まれてきた。思い入れがなかったおかげで決断を邪魔する感情が湧いてこなかった。彼の質問に機械的に答え、頷く。彼がどんな言葉を放ったとしても私の未来が変わる可能性なんてないのに、震えた声で必死に正解を探す様子に少し申し訳なさを感じた、私もまだ人間だから。 「これ落ちたよ……」  彼の手から静かな音をたて落ちたスマートフォンには『無音』の、私の創った曲が映っていた。異常なほどに冷め切った鼓動が、感じたことのない動悸として動き出す。 「早瀬君はこの曲をよく聴くの?」  もし、この世界で本当の私を受け取り好んでくれた人がいたのなら、それだけで私の人生は報われた気がする。 「どうして曲ってわかるんですか……?」  盲点だった。私の曲には題名も映像もない、一目見て『音楽』と捉えられる特徴はない。 「何となく聴くなら音楽かなって思ったから、その人の名前なんていうの?あの世で聴きたいから教えてくれるかな」  取ってつけたような言い訳は、生きている間に身につけた術だ。 「『無音』っていうアーティストです」  その存在が誰かの中で生きていると確認できてよかった、思い入れもないクラスメイトだったけれど、最期に忘れられない感動をくれてありがとう。そんな彼に私にできる最大の礼がしたい。 「この『無音』って人、私なんだ」  隠し通すつもりだった、誰にも言わないつもりだった『無音』の正体。 これを明かすということは『本当の私』を知られてしまうことだから。醜く弱い姿を晒すことと同じだから。 お世辞は要らない、ここで私という存在を認められてしまったら未練が残ってしまう。「つまらない曲」だと「こんな暗い曲誰が好むのか」と地の底まで蔑んでほしい。 「僕、高嶺さんの創る曲が本当に大好きなんです」  私は彼といると、最期の決断すら下せなくなる気がする。 『私』が『高嶺 咲夜』を演じ続けることはしたくない。歳を重ねていく度に自分の気持ちに目を向けなくなった。最後に残された『私』それが『無音』だった。 誰にも言えない、言ってはいけない存在。 『僕は、その曲に救われました』  そんなことあるわけがない、あっていいはずがない。 誰かを救ったという感覚で、私自身の存在を肯定したいという汚い欲望が底にある曲。そんな曲が人の心を動かせるはずがない。 でもその言葉が本当なら、私は少し救われた気がする。本当の私を認められた気がする。 「……」  彼の唇が動く。何を言ったのか聞き取れなかったけれど、晴れやかな表情から少しだけ希望が見えた。 『僕と最期の曲を創る旅に出ませんか?』  これだ。きっとこの選択が私に残された最後の『私』を生きる道。 正解か不正解かはわからない、それでも私はこの直感を信じたい。 「早瀬君に預けたい」  私ではみつけられなかった未来を示してくれた貴方になら、預けてみたいと思えた。 私の願いを添えて、不確かな未来を紡ぐ相手に出逢ってしまった。        
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