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ロンドンの夜
おれとイスルの関係は、誰にもばれることなくそのまま続いた。暇つぶしでもないし遊びというのも違うような気がして、なんと呼ぶべきかはわからないけど。これもデビュー3周年を迎えたからなのか、今回のツアーでは今までよりずっとホテルで一人部屋をとってもらえることが増えた。おれとイスルにとっては好都合だったというべきか、どちらかの部屋で2人で過ごすことが多くなった。
夜にご飯を食べに行くか、ルームサービスを頼むか。公演後に力尽きて寝るか、しばらく他のメンバーと飲むか。夜のルーティンは日によって違ったけど、翌日に公演がない夜は最終的にイスルといることが多かった。おれとイスルは前からホテルで同室になることが多かったし、2人だけで部屋で音楽を聴いたり話し込んだりすることもよくあった。今でもそうだ。ただ、今までになかったことがちょっと増えただけ。でも今までと同じく寝るのはほぼ別々で、一緒に寝ても朝になったらイスルの姿はなかった。
ロンドン公演の前夜、おれの部屋で。明日があるからできないとわかってたけど、キスしてるうちに調子に乗りすぎたかもしれない。だんだんと息が上がってきて、知らないうちに身体も動き出して、イスルにも確実にそのことがばれていた。
「今日はだめじゃん」
挑発的な声がおれの耳をくすぐる。おれが答えられずにいると、イスルはおれの腰をつかんでぐいっと引き寄せる。元々触れ合っていた身体がさらに密着した。イスルが顔を近づけてきて、またキスする。
イスル、と名前を呼ぶ声が、自分で意識もしないうちにおれの唇から漏れる。容赦なく侵入してきたイスルの舌がおれの口をふさいだ。
隙間もなくくっついてるせいで、イスルの身体の熱も余すところなく伝わってくる。なんだよ、あんなこと言ったってヒョンも、とおれは脳みその奥の奥で考える。
イスルがまた唇を離し、おれの唇を親指で拭う。さっきより息が荒くなって、開いた胸元の肌はほんのり赤く見えた。
「今日は我慢できる?ルー」
「…うん」
「そんなにしたかった?」
おれが欲しがってるのを見て興奮してるはずのイスルは、そんなことをちっとも感じさせない口つきで言う。すでに燃え上がったおれの心臓にさらに火がついて、憎まれ口を叩くことさえ忘れて噛み付くようにイスルにキスする。
それでも少しは言葉に出して聞かせて欲しい、という気持ちが膨らんできたから、おれはちょっとだけ勝負に出た。
「ヒョンはしたくないの?」
イスルの瞳の奥がゆらゆら揺れて、「明日になったらわかるよ」という答えをおれの耳が聞く。
一緒に寝てもくれないくせに、イスルが「寝よう」と言う。隣に横たわっても、朝になったらいないのはわかってる。それなのに今日部屋に呼んだのも自分の方だったことが、なんだか無性に悔しくなる。おれは布団にもぐって、イスルに背中を向けた。
パリからロンドンに到着した前の夜は大して外を見られなかったけど、会場入りする時に外の景色を見られただけで、おれは嬉しかった。6月のロンドンは最高だって言うけど、その通りだ。空が青くて、緑の公園に大人も子供も犬も寝転んでいる。にわか雨が降っても、きっとまたすぐに晴れる。リハーサルもスムーズに終わって、声もよく出た。機嫌よく控え室に帰って、リハ中にソフィーから来ていたメッセージに返信する。
〈17時くらいに着くかな、オッケー?〉
〈完璧!〉
ライブの後は、ソフィーとディランと会う予定だった。
「緊張してる?」
ソンファがおれの隣に座って聞いた。
「いや、全然。なんでだろうね」
「いいじゃん、ルイヒョンは緊張してない方がいいパフォーマンスができるような気がする」
おれは緊張したらミスするタイプ、ソンファは緊張感があった方がうまくいくタイプみたいだった。
「おれも今日はいい気がする」
全てはその言葉の通りだった。夏のロンドンの景色も、友達の姿も、ステージの上からは見えないのに。夜遅くになっても日が沈まない国に帰ってきたみたい。昔からの友達と再会して笑いあってるみたいだった。
「楽しかったあああ」
控え室のドアを勢いよく開け、おれはソファに倒れ込む。
「ルイ、このまま寝ちゃうんじゃないの?」
突っ伏したおれを見て、フィンが笑いながら言った。今夜は我を忘れる、という言葉の意味そのままを体験したような気がする。だけどこれで終わりじゃない。
関係者席にいたソフィーとディランがスタッフさんに連れられて無事控え室にやってきて、おれたちは再会を喜びあった。いちおうメンバー全員に紹介するけど、英語が話せるフィンとイスルとはやっぱり会話が弾んでいる。「いっぱい話に聞いてる」とソフィーから2人への言葉を聞いて、どんな話したっけ、と思わず考えた。
ソフィーとディランと一緒にホテルに帰って、おれの部屋で飲み始める。おれが急いでシャワーを浴びて戻ると、2人は大学の話をしていた。
「2人とも大学生なんて変な感じだね」
「ルイがアイドルな方がよっぽど不思議だよ」とソフィー。
「でも今日初めて生で見て、すごかった。友達じゃないみたい。なんで歌もダンスもあんなにうまいの?」
「そんなことないって…」
友達にそんなことを言われると、つい照れる。
「いつの間に有名人になっちゃったんだろうってずっと考えてたよ。でも話したら昔のままで安心した」とディラン。
ソフィーは医学部で医者になる勉強中。ディランはファッション専攻で、有名ファッション誌のチームでインターン中。おれにとっては2人の方がよっぽどすごいけど、とにかく今も友達でいられるというだけであとはどうだっていい気もした。
ずっと連絡を取り合っていたとはいえ尽きることのない話をするうちに、恋愛の話になる。 おれはイスルのことを今夜話そうと思っていた。
「もうしばらくは恋愛とか、いいかも」
最近彼氏と別れたソフィーはうんざりした口ぶりで言った。ディランも同意する。
「俺も。忙しいし…ルーもそうなんじゃないの?」
「あ、…そのことなんだけど、おれ、イスルヒョンとちょっといろいろあって」
「え、ちょっとって何?」とディラン。
「…最近、関係を持っちゃって」
「好きなわけじゃないんだよね?」
ソフィーの質問は、おれにとって答えるのが難しいものだ。どんな意味で聞かれてるかもわかるし、どう答えるべきかもわかる。だけど、そうしようという気にならない。イスルのことは好きに決まってるけど、「そういう好き」じゃない。でもなんで、「好き」って言葉の意味をこうやって簡単に狭めなきゃならないんだろう。イスルヒョンのことは好きじゃない、という文はあまりにも間違って聞こえる。これがあの夏の夜、おれが桃也に好きだと言った理由のひとつでもある。わがままかもしれないし頑固かもしれない、けど嘘はつきたくない。
「…好きじゃないよ。もちろん好きだけど、それはまあ、」
メンバーとして?友達として?どれもどこかしっくり来なくて、おれの言葉は尻つぼみになった。
「あ、これ誰にも話してないから言わないで…って言う必要ないか」
「言うわけないじゃん!」
「安心していいよ」
2人が口々に言った。
噂をすればと言うべきか、ランダムで流していた音楽があの曲になる。泊まりの時にイスルが歌ってくれた曲。スマッシング・パンプキンズの"Luna"だ。あの時イスルはカットして歌っていた最後の部分の歌詞を、原曲を聴いて初めて知った。君に恋してる、君に恋してる、君に恋してる…ずっとその繰り返し。イスルが深く考えて選んだとは思えないけど、そのことに気づいたファンの一部がどれだけ喜んでいたか、動画が公開されてから数週間経つ今でも記憶に新しい。
「この曲のタイトルってルナだよね、お前の日本語名?」
ディランが言った。2人ともイスルがこの曲をおれのために歌ったことは知らなそうなので、わざわざ言わずにおく。
いい感じに出来上がって、おれたちはタクシーで街に繰り出す。カムデンの老舗ジャズバーに行くつもりで、いつもイベントのチケットがすぐ売り切れるみたいだから2ヶ月も前に取っておいた。有名人もたまにいるみたいだけど、ロンドンじゃそんなの珍しくないんだろうなと思う。「酔ってないふりしろよ」とディランにつつかれて、IDチェックとチケットチェック、手首にスタンプを押されて、無事中に入る。
正直言って、細かいことは覚えていない。だけど楽しかったことはわかる。どうしてわかるのかと聞かれたら…ただ、この夜のことを思い出そうとすると、眩しい光が視界いっぱいに広がったような感覚だけが残っていた。あとの記憶は断片的で、音楽が良かったなということとか、タクシーに乗って2人と別れる時、一生の別れみたいに抱き合っていたこと。おれは気がついたらひとりぼっちでホテルに向かっていた。
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