時間旅行

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時間旅行

 心配事があっても、ちゃんと腹は減る。おれは部屋に帰る前にキッチンに寄ろうと決めた。ドアの外からキッチンに続いたリビングの電気がついているのが見えて、フィンだろうな、ちょっと叱られるんだろう、それかイスルと話すように念を押されるんだろう、とおれは軽く考える。こんな時間まで待たせておくなんて申し訳なかったけど。  ドアを開けると一番にイスルの明るい髪が目に入って、おれは凍りついたような、それでいて熱くて溶けそうな気持ちに襲われる。もっと言わなきゃいけないことがあるのに、「ヒョン、なんでいるの?」という言葉がおれの口からこぼれ落ちる。  イスルは眠そうな目でおれを見つめて、何も言わずにちょっと笑った。おれが間抜けなことを言ったから。 「あ、ごめん…」  バカなこと聞いてごめん、練習でうまくやれなくてごめん、わがまま言ってごめん、いきなりいなくなってごめん。説明しなきゃとわかってるのに、言葉が出なかった。 「ごめん、おれ…」  イスルは怒ってないとフィンが言ったのは、本当のことだったのかもしれない。イスルはソファをぽんと叩いて、「水飲めよ」と言葉に詰まるおれに水を差し出した。おれは座るしかない。そんなに酔ってないよ、なんてまたもや間抜けなことを口にするのは我慢する。 「ルイ、今日は厳しくしすぎたよ。悪かった」 「そんなことない、おれが悪かったのに」  おれはやけにおいしい水に溺れそうになりながら、慌てて唇を拭って答える。 「いや、いつもとは違ってたよ。気づいただろ?」 「でも、あんなこと言うべきじゃなかった…いつもみたいにしてって。本当はあんな風に思ってないし、ただ怖くて」 「何が?」  おれの泳ぐ目を、イスルが捕らえる。答えを教えて、と懇願されているような気がする。しらふじゃなくてよかった、と思う。きっと酔ってるからちゃんと言えるだけだ。 「おれなんか入れなきゃよかったって思われるのが」 「俺がそんなこと…」  おれに口を挟む隙も与えずに、イスルが続ける。 「お前をメンバーに入れたくて無理言ったのは俺だし、ミンジェは俺がお前と仲が良いのも知ってたから。…だからお前に甘くしてるとか、間違ってもそんな風に思われたくなかったんだ。俺がリーダーだし、お前は俺が選んだメンバーだから、みんなに認めてもらわなきゃいけないって思ってた」  おれはイスルが重圧を感じてるかもしれないなんて、想像もしなかったのに。いつものチームでやるのとは違うんだ、ということがやっと飲み込めて、同時に視界がかすんできた。練習生の頃の幼いルイが久しぶりに姿を現し、おれはどこにでも消えてしまいたくなる。 「ルー」  イスルの声はぼんやりとして、今にも眠りに落ちそうな人の声だった。イスルの手のひらがおれの肩をぽんぽんと叩いて、服越しにでも体温が伝わってくる気がした。 「大丈夫だよ、大丈夫」  大丈夫というのは、おれが最初に覚えた韓国語の言葉のひとつだった。イスルの言葉を聞いて、おれの身体も心も、全部が何年も前に手を引かれて戻っていくようだった。短い時間旅行を終えて現在に戻ってきて、おれは考える。そうだ、あの時は精一杯だったことも、今ではちゃんとできるようになったんだ。だからイスルをもうがっかりさせなくても済むはずだ、と。 「うん、大丈夫」  おれはそう答えてうなずいた。今言えるのはそれだけだった。どんな意味でそう言ったのか、イスルは理解できないだろうけど、涙声じゃ話せない。  それから本番までの期間のことは、後から思い出そうとしても難しいかもしれない。一回一回の練習は、長いのにあっという間だった。キッチンで泣いた翌日は一人で練習して、うまくできなかったところをイスルに聞いて、それから何回かスヒョンとも練習した。  キッチンでの夜以来初めての全員での練習が終わって、イスルがご飯食べに行こう、とおれに言ってから、「頑張ったんだな」と何気なく付け足したことは忘れないと思う。おれはそうだよ、頑張ったんだと言うわけにもいかず、そんなことないと言うのもなんだか違う気がして、ただ「今日は豚カツがいいな」と言った。    5月の本番は、我ながらすごくうまくいったと言ってもいい出来だった。頭の中は不安でも、踊ることの楽しさを思い出した身体は恐れを知らないみたいだったから。収録が終わってからメンバーたちとたくさん労いあって、イスルとの控室でモニタリングをする。  イスルが踊るのをモニターで見ているうちに、また初めて出会った頃に戻ったような感じがしてくる。練習生になって初めの数ヶ月はイスルのダンスに憧れたし、先輩として接していたからイスルから学ぼうとしていた。一緒にデビューすることになってからは、一時期わざとイスルのダンスを意識的に見ないようにしていたことがあった。このままじゃ、おれのスタイルを見失ってイスルを追いかけるばかりになると思ったから。  今ではイスルのパフォーマンス動画を見ることもよくあるけど、エクリプスの一員という枠から出たイスルを見るのはすごく久しぶりだという気がした。比喩でもなんでもなくて、イスルの姿をカメラが捉えるたびに、モニターからどうしても目が離せなくなる。何年も前の出会った日みたいに、イスルが踊るのを初めて見た時みたいに、自分の胸が焦がれるのがわかる。 「まだ見てたんだ?」  いつの間にかイスルが隣にいて、たぶん10分以上ずっとモニターを見つめていたおれに話しかける。釘付けになっていたおれがびっくりして声を上げたから、イスルは笑い出しておれの肩に触れる。ステージに上がる前につける香水が鼻をくすぐった。  それだけのことで心臓がちょっと跳ねて、おれは焦り始める。  初めてイスルに会った時だって、自分の気持ちが純粋な憧れとは違っていることはわかっていた。ただ、おれに一つ特技があるとすれば、恋に落ちないようにすることだった。おれが臆病だからかもしれない。恋人がいる相手や男が好きかもわからない相手に出会ったら、ほとんど無意識のうちに歯止めをかける。そうやって、初めに感じた少しのときめくような気持ちも、段々と忘れていく。  今だっておれはそうだった。だから誰のことも好きになんてならない。桃也(とうや)とのことがあってから、余計にそうなったんだと思う。
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