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運命
韓国に帰ってきて宿舎に着いたのは、夜遅くだった。今夜だけは、イスルとこの家に2人きり。イスルは部屋にいるかもしれないし、出かけてるかもしれないし、寝てるかもしれないし…。妙にドキドキして、おれはとりあえずシャワーを浴びに行くことにする。
シャワーを浴びながら、急に思う。たぶんイスルと今夜そんなことにはならない。悩んで悩んで、最低限の準備はしようと決める。なんの意味もなかったらどうしよう、いや、それでいいじゃん。シャワーの中で考えて、おれはなんだか泣きたいような気持ちになる。
リビングのドアを開けると、イスルはソファに座って、テレビで何かの映画を観ていた。イスルが振り返り、おれを見つける。
「あ、ルイ、おかえり」
「ただいま」
イスルはすぐに前に向き直る。シャワーを浴びた後のセットしてない髪が目に入った。
「楽しかった?」
イスルは画面を見つめたままで聞いてくる。おれはキッチンに水をくみに行くことにして、歩きながら「うん、でも暑かった」と答えた。これからどうしようかと考えながらおれが戻っていくと、イスルがまた振り返る。
「座って」
おれは言われるがままに歩いて行ってソファに座った。
「それ面白い?」
「つまんない」
そう答えてから、イスルがこっちを向く。話しかけるんじゃなかった。映画の音だけが部屋の中に響いて、おれの心臓の音は大丈夫かな、と無駄な心配をする。身体が重なり合う変な体勢でベッドに転がって2人映画を見ても、今まではこんな気持ちにならなかったのに。
見るのやめたら、という言葉がおれの脳内に浮かび、あぶくのように弾けて消えていく。イスルはおれを見たまま、「今、何考えてる?」とおれの心を読んだように聞く。
おれのせいじゃない。
「やめたら?って…つまんないんだったら」
「だな」
イスルは素っ気なく言ってリモコンを手に取り、映画を停止する。おれがバカだったせいで、部屋はまた静かになる。
「ルー、もっとこっち来て」
イスルが言った。ソファの上でもぞもぞと距離を寄せたおれは、イスルのシャンプーの匂いに気づく。
「この前のこと、話さなきゃと思ってたんだけど」
知らんぷりをするわけにも話したくないと言うわけにもいかず、おれはただ頷く。
「ずっと考えてたんだけど、俺が言いたいのは2つだけだと思う」
ソファの背の上で、何気なくイスルの指先がおれの手に触れる。
「まず、キスしたことにはなんの意味もなかったってこと。それと、俺たちの関係がずっと今まで通りならいいと思う」
考えなくてもイスルの言いたいことは理解できるようだった。好きだからキスしたわけじゃない。俺のこと好きになったりしないよな。
好きになるわけないじゃん、とおれは思う。イスルのことはもう十分大好きで、数日間会えなかったら寂しくて、離れるなんて想像もしたくなくて。おれとイスルの間には友情があって欲望があって、恋はその境界線でも混合物でもなく、また違う別の何かみたいだった。だから大丈夫、好きじゃないと自分が思える限り、イスルのことを好きになったりはしない。
「大丈夫だよ、わかってる」
物分かりがいいおれは、少しだけ癪だと思いながらもそう答える。ソファの肘掛けにもたれていたイスルが体を起こし、顔が近づく。イスルの瞳の色がじんわりと熱を帯びていることに、おれはやっと気がついた。
「今日は2人だけでよかった」
誰かに聞かれることを心配してるみたいに小さな声で、イスルが言った。
「映画、本当に観ないの?」
本当は、そんなことはどうだってよかった。イスルは肩をすくめる。
「暇つぶししてただけだから」
それから熱くてこっちが溶けそうな瞳がおれを捕まえる。
「早く帰ってこないかなって思ってた」
ヒョンは寂しがりだよね。テミンの言葉を思い出す。おれは思わずソファの上で身を乗り出す。おれとイスルは、得体の知れない引力が働いてるみたいに近づく。
唇が触れる寸前、イスルがもう一度口を開く。会いたかったよ。
一度目のキスとはまるで違っていた。イスルがおれの身体を抱き寄せ、おれはイスルの上に倒れ込みそうになる。目眩みたいに頭がくらくらして、なんとか息を継ごうとした。
会いたかったって、たったの3日間じゃん。そうからかおうと思ったのに、言葉にできない。知らないうちに力が入って固く閉じていたおれの唇を割って、イスルの舌が中に入ってくる。
だんだん力が抜けて自分の体重もまともに支えられなくなってくる。少し離れて、イスルはおれを見上げる。その手の指先だけ、おれのシャツの中、腰の素肌の上に置かれている。
「大丈夫?」
「何が?」
おれはぼうっとして聞く。ちょっとだけ潤んだイスルの瞳がおれをじっと見た。先走る心と身体を、おれはどうすることもできなかった。
「別の部屋行こ」
おれは言い、イスルが拒むことを想像し、でもすぐに「いいよ」という返事を聞いた。
イスルのベッドに座って、いつのまにかおれはイスルの脚の間に座って後ろから抱きしめられるような感じになっていた。おれの腹の上にただ置かれたイスルの手はそこから上にも下にも動かず、もっと触ってくれないかな、と期待する自分にいやでも気づかされる。
少ない経験の中でわかったのは、おれはキスをしながら目を開けるくせがあるみたいということだった。だんだん荒くなる息を整えようと無駄な努力をしながら、イスルの閉じたまぶた、長いまつ毛を見る。と、イスルが目を開けた。その瞳がやっぱり潤んでいるように見えて、おれの胸が疼く。イスルはおれの首にそっと手をかけ、今度はおれの首筋にキスする。素肌の上に湿った舌の感触。ほんとは跡をつけられてもいいくらいだったけど、そんなこと言えない。
イスルの指先がようやくパジャマのズボンの中に入ってきて、それだけで身体が跳ねる。焦らすようにパンツの入り口で止まった指。イスルはキスするのをやめておれを見る。
「触ってもいい?」
「うん」と答える力の抜けたおれの声は、まるで自分の声じゃないみたいに遠く聞こえた。
「日本にいる間、ちょっとは俺のこと考えた?」
イスルのひんやりした手が、すぐに濡れていく。
「ちょっとじゃなくて、」
ちゃんと喋れたのはそこまでだった。声が漏れそうになり、ほとんど無意識のうちに顔を背けて手の甲で口を覆う。だけどすぐに、イスルが空いてる方の手でおれの顔に触れる。
「ルー。こっち向いて」
イスルの指先がおれの唇をなぞり、口の中まで入ってくる。もう喋れるわけがない。
おれの目はまだイスルの顔に釘付けだった。何千回、いや何万回も見たはずの鼻筋、唇、初めて見る色の瞳に。そのうち、イスルの耳が赤くなっていることにふと気づく。かわいいな、と思った瞬間だった。
「いて、」
イスルが唸って、おれの口から指を引き抜く。いきそう、と警告もできずに、おれは思わずイスルの指を思いっきり噛んでしまった。
「あ、ごめん…」
「大丈夫」
イスルが素早く答える。それからかがみ込んで、おれの腹から全部、きれいにしてくれる。水分を舐めとるたびに上下に動く喉から目が離せずにいたら、おれの身体はあっという間にまた熱くなってくる。
「ヒョン」
イスルが目を上げる。
「もう大丈夫、だから…」
ほんとはこのままだとやばい、と思っただけ。イスルは上に戻ってきて、おれの身体も自分の手も、残りの分をティッシュで拭いた。
「これ洗濯しなきゃな」
イスルが言って、おれの汚れたズボンに触れる。
「だね…」
脱いでもいいのかな、と考えながら、おれは体の向きを変えてイスルと向かい合う。おれのせいでまだちょっと濡れたイスルの唇から視線を上げ、物欲しそうにおれをまっすぐ見つめる瞳を見返して、おれはまた溶けそうになる。
「ヒョンのこと考えたよ、いっぱい」
ちゃんと耳に届いたかな、と心配になるくらいの小声でおれは言う。イスルの瞳が笑う。おれの腰に腕を回して、ぐいっと抱き寄せる。おれたちの身体が隙間なくくっついた。
「名前、呼んでみて」
イスルが言う。おれは何も言わずに、イスルの唇にキスする。息継ぎの合間、だんだん脈が速くなるのを感じながら、声に出してみる。
「イスル、」
くすぐったいような不思議な感覚だった。ふざけてだったら呼び捨てにしたこともあったはずなのに。
「ルー」
イスルがおれを呼び返す。
「お前は俺とどこまでしたいの?」
え、そんなこと聞いちゃう…。 おれの唇が勝手に開いて、勝手に喋る。
「…全部」
どれくらい時間が経ったんだろう。忘れないように、何度も今夜のことを思い返そうとしていた。おれを見下ろしたイスルの瞳の温度、何度もおれに「大丈夫?」と聞く声、キスの味。
おれがずっとベッドでだらだらしていたら、イスルがおれの汚れた服を持って行って、新しいパジャマを持ってきてくれた。寝っ転がったままでもぞもぞと服を着るおれの髪をなでて、イスルが聞く。
「眠いの?」
眠くないと言ったら自分の部屋に戻らされるような気がして、おれは思わず嘘をつく。
「うん」
イスルがベッドに入ってくる。あったかい布団の中はまた狭くなって、寝てる間に汗をかくかも、と考える。それなのに。
「ここで寝ちゃだめ?」
「いいよ」
イスルが答える。
「邪魔だよね」
「でっかくなったもんな、お前」
出会った頃はおれより高かったイスルの身長を、おれはいつのまにか追い越してしまった。おれのより一回り小さいイスルの手を取って、指先におれの歯型がついてしまったのを確認する。
イスルの背がおれより高かった頃。ヒョンじゃなくて先輩だった頃。おれもこんな風に踊れるようになりたいと憧れた頃。初めて会った頃はこんなことになると思わなかった。おれは考える。だけど最初からこうなるはずだった、という感じがするのはなんでだろう。おれは運命なんて信じない。それなのに、おれとイスルがこうなるのは時間の問題だったような気がする。
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