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電撃戦
二
皇帝に即位した曹叡が行ったのは、まず大赦であった。
それから魏の群臣で誰を抜擢するか、諮問を行いたい、と秦朗にいった。
「で、できれば最小限の人数で、臣民の現状を知りたいのだが」
「それなら侍中の劉曄どのが最適だと考えます」
曹叡は、やや不安そうな表情で、
「劉曄の人となりは先帝や阿蘇から聞いている。阿蘇も側にいてともに諮問してくれぬか?」
といった。劉曄は人相判断で有名な許子将が「君主を補佐する才能がある」と認めただけあって、曹操も何か疑問があると封書で劉曄に質問し、その往復が一日に七~八回にもわたったという。
曹操を手本にしたい曹叡にとっては、最適な人物というわけだ。
「いいえ。ここはおひとりでご諮問されるべきと存じます。今は百官の目もありますので……」
秦朗はやんわりと断った。純粋な情報を自分を介せず、劉曄から曹叡に伝わることが肝要だと感じたからだ。
「な、なるほど。早速劉曄を召すであろう」
曹叡は道理に明るい。すぐ秦朗のことばの真意を察し、劉曄と一対一で諮問を行った。
早朝、劉曄は謁見のため、宮門をくぐった。
「謁見は劉侍中ひとりだけだと」
「たしかに劉曄どのは賢臣だ。新しい帝は人を見る目をもっている」
そのように群臣は話し合っていたが、夜中になっても劉曄が宮室から出てこない。
「中で何か行われているのではないか?」
「うむ……それにしても長すぎる」
秦朗も近臣に混じっていたが、
(それだけ多くのことを知りたいと思っておられるのだ)
と考えていた。
やがて夜も更けた時刻に、劉曄が宮室から出てきた。表情はやや疲れが見られるものの、明るい所作で、皆を安心させた。
「どうでした、新帝は?」
近臣が先を争って劉曄に質問攻めをした。
劉曄は椅子に座って冷めたお茶を一服飲み干すと、
「秦の始皇帝、漢の武帝のともがらでしょう。才質はややおよびませんが」
と答えた。
「おお……」
「ということは……」
秦の始皇帝も漢の武帝も希代の名皇帝であった。曹叡の資質は彼らに少しおよばないとしても、
(賢いお方ということだ)
と群臣は理解した。劉曄への諮問を終えた曹叡から、まもなく秦朗に私的な招聘がかかった。
「あ、阿蘇の助言のとおり劉曄と一日話し合うことができ、じ、じつに実りのある時間であった」
曹叡の疲れ切った仕草も、充実のあらわれと見て、秦朗は安堵とともに喜びを感じた。
「私こそ、陛下のお役に立ててうれしゅうございます」
「ひ、ひいては、だが」
曹叡は水を碗から飲み干して、秦朗に向き合った。
「あ、阿蘇にもそれなりの階位を与えたい。臨むものはあるか?」
「めっそうもございません」
秦朗はかぶりを振って、
「私は何の功績も立てておりません。その私に階位が与えられるのであれば、文武百官への示しがつきません」
と曹叡の申し出を拒んだ。
「そ、そうではない」
曹叡は即座にそれを否定して、驚くべき提案をした。
「あ、阿蘇には朕の『佞臣』になってもらいたい」
「佞臣……でございますか」
秦朗は虚を突かれたような気持になった。そして、曹叡との遠き日の約束を思い出した。
「理解いたしました。陛下の影、のお約束でございますね」
佞臣とは権力者に媚びへつらう臣下のことをいう。もちろん群臣には蔑視されるであろうが、いつも曹叡の側にいることができ、汚れ仕事もすることができる。
「あ、阿蘇に報いる方法を、朕なりに考えてきた。あ、阿蘇には片時も離れずにいてほしいし、富貴もともにしたい。
そ、それで以前阿蘇がいったことばを思い出した」
曹叡は法律書を熟読してきたので、王朝の不正を糾したい心がある。
先帝の曹丕は恣意性の強い性格だったので、王朝にとって害をなす人物を偏愛してきた過去がある。さらには曹操の盟友だった鮑信の子である鮑勛が清廉で、耳の痛い諫言をするのを嫌い殺害したように、良臣を退けることもまま行ってきた。
これまで媚び諂って権力を握ってきた臣は、劉曄への諮問で明らかになっている。これを曹叡の目で確かめ、事実であれば次々と検断し、罷免するつもりでいる。
「ち、朕は潔癖すぎるのかもしれぬ。だが、朕と阿蘇の王朝には、阿諛するだけの無能の臣はいらぬ。
か、隠れた清廉で有能な臣をもれなく登用したい。そ、そこで阿蘇に働いてもらう」
「御意でございます。毒をもって毒を制す、でございますね」
佞臣の奸言で、佞臣を駆逐する。
このような痛快な改革があるだろうか。
「あ、阿蘇には悪者になってもらい、朕も心を痛めることが多くなるだろう。
だが、劉備と関候と同じで、朕が皇帝になったということは、ふ、二人の心の中では阿蘇も皇帝になったのだ。ふ、伏して頼むぞ」
たちまち秦朗の目に涙が溢れた。
「もったいないお言葉でございます。この綸言で過去の私はすべて報われました。
これからは陛下のお心に沿うよう、佞臣としての道を邁進いたします」
曹叡は立ち上がり、目を赤くして秦朗の手を取った。
「ち、朕は阿蘇のような友をもつことができて幸せだ。ま、まわりが佞臣といおうと、朕にとって阿蘇は大忠臣ぞ」
※
(曹叡さまの治世は、魏の最盛期になるかもしれない)
秦朗は自宅に戻って、長い一日を思い出していた。
(それにしても今の陛下にくらべ……)
亡くなって文帝と諡された曹丕の治世で、見るべきものは少なかった、と思わざるをえない。
たしかに山陽公(もと後漢の献帝)と曹丕で後漢から魏への禅譲を行ったことは歴史に刻まれるであろうが、黄巾の乱で事実上滅亡していた後漢と魏の二重体制を、あるべき姿に整理しただけといえないこともない。
関羽の復讐のため呉を攻めた蜀の皇帝劉備に同調し、蜀と魏二手から呉を攻略していれば、今頃魏と蜀の二国になっており、いずれは国力差から天下統一も現実のものとなっていただろう。
(しかし文帝は孫権を信じてしまった)
曹丕は孫権を攻めず、呉の将軍陸遜が劉備を破るのを指をくわえて見ていただけだった。
孫権が王太子の孫登を人質に出さず、なんと劉備死後の蜀と同盟を結んだことに、怒髪天を衝く勢いで三度も呉を攻めた。
結果はすべて魏の惨敗だった。
(文帝は武帝ほど戦がうまくない)
群臣の間に広がったその噂を、曹丕が耳にしなかったわけはない。曹丕は慙愧にまみれた。
(思えば、呉に連敗したことが文帝のご寿命を縮めたのかもしれない)
秦朗はそう考えた。すべては孫権への初期対応のまずさから曹丕政権は失速したのだ。
(孫権への対応がキモだな……)
もちろん聡明な曹叡がそのことに気づいていないわけではないだろう。
ともかく曹丕の治世は五年余りしかなく、その評価が定まらぬうちに曹丕は世を去ってしまった。
※
果たして曹叡即位の年の八月、孫権は魏の江夏郡を攻めた。しかも本人が兵を率いて陸路を攻めているという。
魏の守将は文聘で、かつては呉の大軍を寡兵でもって返り討ちにしたこともある。名将といっていい。
「やはり、孫権が動きましたね」
軍議に向かう道すがら秦朗が曹叡に話しかけると、
「そ、孫権の目的は明白だ。文帝が亡くなったので、ち、朕の力量を試そうとしておるのだ」
と落ち着いた様子で答えた。
(孫権ごときに、陛下がしてやられるはずはない)
秦朗は、一瞬でもうろたえた己を恥じた。
軍議では、一刻も早く文聘を救うために大将級の将軍を援軍に差し向けることを促す提言が相次いだ。
「し、諸君、落ち着きたまえ」
曹叡はうんざりした表情を隠そうともせず、
「そ、孫権の目的は江夏にあらず、朕だ。さ、さらにいえば軽いゆさぶりをかける程度で、新しい王朝が動揺するかをはかっている」
と発言した。諸将らは声を失った。
「そ、孫権の戦下手は天下に知られている。水戦が得意の呉軍であるにもかかわらず、ふ、船を降りて陸路を攻めているのがその証左だ。
へ、兵法にいう、攻めるをもって守る兵の数倍の兵を用いよと。そ、孫権はその初歩も守っていない」
つまり孫権は、文聘の前に遠からず何の戦果もあげられず、陣を払うことになる、といった。
「では、救援の将軍はご無用と……」
曹真が確認を取ろうとすると、
「う、うむ。とはいえ、し、緒戦の大事なことに変わりはない。治書治御史(荀禹)を派遣し、江夏を慰撫させることにしたい」
名将を遣る必要はない、ということだ。
荀禹は呉との国境周辺を慰撫し、江夏郡に到着した。都の洛陽から徴発していた兵は、歩兵と騎兵をあわせて千人である。
高所に上がって烽火を上げた荀禹は、
「この煙を見て文聘は安心し、孫権は落胆するはずだ」
とほほ笑んだ。
果たして孫権は迅速な魏軍の救援に舌打ちをし、軍を撤退させていった。
曹叡は千の兵で戦わずして、孫権を退けたのである。
また襄陽を江陵方面から攻めた諸葛謹と張霸には、撫軍大将軍の司馬懿と征東大将軍の曹休を派遣した。
司馬懿は曹丕に、
「朕が東を攻めれば、君は西を統括せよ。朕が西を攻めれば、君は東を統括せよ」
と絶大な信頼を得ていた。四十七歳で軍の統率において熟練を高めていた司馬懿は、尋常ではない速度で荊州を南下し、諸葛謹と張霸の軍を大破した。
潰走した呉軍を急追し、ついに副将の張霸を斬った。魏軍の得た首級は千余であるという。
「新皇帝は、賢い」
群臣が実感したのはそのときであったかもしれない。孫権をたった千人の兵で退け、諸葛謹を司馬懿という適切な人選でおおいに破ったからである。
(見たか)
秦朗は曹叡の鮮やかな軍の統率に、胸を張りたかった。これこそ、二人が幼い頃から兵書を読み、互いに兵の進退を話し合った結果だったからだ。
司馬懿と曹休が冬に凱旋すると、曹叡は十二月に叙勲を行った。その人事は、
大尉の鍾繇を太傅に
征東大将軍の曹休を大司馬に
中軍大将軍の曹真を大将軍に
司空の王朗を司徒に
鎮軍大将軍の陳羣を司空に
撫軍大将軍の司馬懿を驃騎大将軍に
であり、曹叡が秦朗と考えた王朝の顔である。
※
東方の呉を撃退したところで、秦朗が警戒し始めたのは西方にある蜀のうごきだった。
蜀は黄初二年(二二一)四月に漢中王だった劉備が皇帝に即位し、七月に呉を攻めた。国号は漢である(文中では蜀と表記する)。関羽の仇討ちのためだった。
当初は快進撃を続けた蜀軍だったが、夷陵という場所で、狭い河岸に延々と布陣し、負けまいとする陣形を呉の将軍陸遜に付け込まれ、大敗を喫した。
劉備は大敗にショックを受けたためか、病に罹患し、黄初四年(二二三)の四月、丞相の諸葛亮に後事を託して死んだ。
曹丕は劉備が夷陵の戦いで設営した陣を、
「劉備は戦争を知らぬ。七百里も陣営を築いて敵とわたりあえるものか」
と酷評し、やがて孫権に敗れたのでそれを自慢気に語っていたが、曹叡と秦朗はその兵法をそれほどまずい戦い方ではなかったと思っている。
陣営を連ねたのは補給路を確保するためであり、堅固な陣であったのだから陸遜も長期にわたって攻めあぐねたのであろう。
劉備が敗れたのは時間と油断であった、と秦朗は思っている。勝ちの形が見えない戦では、兵の士気が弛緩する。そこを陸遜は看破し火攻めというダイナミックな戦法で一気呵成に勝ったのだ。
(その蜀だが……)
新皇帝の劉禅が即位してからの動向が一向に聞こえてこない。
蜀に放っている内偵によると、諸葛亮が自ら南中を攻め、反乱を鎮圧したそうだが、魏を攻める動きは見せていないという。
「蜀?劉備や関羽、張飛に馬超も死んだではないか。心配は要らぬよ」
「主だった将軍で生き残っているのは趙雲くらいのものではないか。もしかしたら軍を解散したのではないか」
群臣の間でも蜀に対する脅威を心配する声はまったく聞かれない。秦朗はそれがむしろ不気味であった。
曹叡の執務室を訪れ、蜀軍の動きを相談しようと思っていたところ、曹叡は何か熱心に書状のようなものを読んでいる。
「じ、上庸の孟達が裏切った」
秦朗の顔を見るなり、曹叡は愁いをおびた表情でつぶやいた。
「まことですか」
孟達は元蜀の武将であったが、関羽が魏を攻めたとき合力せず、敗れて後蜀に逃亡しようとした関羽を助けようともしなかったので、劉備の報復を恐れて魏に降った。
立派な容姿の持ち主で、先帝曹丕の寵臣でもあった。それが、なぜ。
「し、諸葛亮が出師して、か、漢中に大軍を進めていると報告があった」
「それは……」
秦朗は青ざめた。曹叡によると、蜀軍の動きに魏の群臣は油断しているので、孟達を諸葛亮と連動させてはまずいと考え、電撃的に孟達を打ち取る戦術を採りたいという。
(たしかに、孟達と諸葛亮が連動すれば荊州北部の半分がまたたく間に蜀の領土となる)
孟達はまだ謀反が魏に露見しているとは察知していないだろうと、曹叡はいう。秦朗は戦慄しつつも、提言を行った。
「討伐に向かわせるなら司馬将軍がよろしいでしょう。先年の呉の諸葛謹を討ったときの軍の速度は尋常ではありませんでした。孟達は準備を固める前に司馬将軍に首をあずけることになるでしょう」
「そ、そのことなのだが」
曹叡は書状を机上に静かに置いた。
「ひ、驃騎大将軍は宛に駐屯している。か、彼が朕に上表を行って、洛陽に来るだけで一ヶ月はかかる……」
「上表などは省略しましょう!」
秦朗は思わず声をあげた。曹叡は驚いた眼で秦朗を見返している。
「国家危急のときです。これでわが魏と蜀の戦端は開かれたのです。司馬将軍には直接上庸に軍を向けるよう急使を立ててください」
「わ、わかった。そうするであろう」
曹叡の表情も晴れ晴れとなり、急使に孟達を討つべくしるした書状をもたせて宛の司馬懿のもとに送った。
曹叡からの書状を受け取った司馬懿は、孟達謀反の知らせに驚きはしたものの、曹叡の決断には心中快哉した。
(そうこなくては)
司馬懿はその場で軍を出立できる用意を命じたものの、
(孟達にはさらに油断しておいてもらわねばならぬ)
と思い、孟達への書状をしたためた。
「多くの者は卿が謀反すると騒いでいるが、これは真実ではないと信じています。先帝の信頼篤かったあなたが魏を棄てることなどありえないからです」
大意はこのようなものであった。
果たして孟達は迷った。今なら謀反を取りやめることができるのではないかと。
その間にも司馬懿は昼夜兼行で上庸をめざし、ようやく孟達が挙兵を決めた八日後には、すでに上庸の城下には魏軍の兵があふれていた。
「神速としかいいようがない」
孟達は諸葛亮に救援を求めたが、時すでに遅しであった。
上庸包囲から十六日目に、内通者が出て城は陥落した。孟達は斬られ、兵は降伏した。
それにしても、曹叡と司馬懿の連携のすさまじさはどうであろう。討伐軍にはまったくの齟齬がなく、孟達の心理さえ操ってあっという間に始末してしまった。
孟達の首は洛陽にいる曹叡のもとに届いた。
「も、孟達は首尾よく討ち取ることができたが、し、諸葛亮は北伐をあきらめるかな」
曹叡の問いに、
「漢中には諸葛亮が訓練しつくした軍勢が無傷で残っています。いずれ大規模な軍事行動が行われるかと」
と秦朗は期待を排除した意見を述べた。
「で、であろうな……」
しかし、と曹叡は力強い目を秦朗に向けると、
「し、諸葛亮の弱点が少しわかったぞ」
といった。はて、それはと秦朗が訊くと、
「ひ、人を見る目のなさだ。も、孟達は先帝のお気に入りではあったが、し、主君を三度も裏切る男よ。
そ、そのような人物に魏との緒戦を任せようとしたところに、し、諸葛亮に付け入る隙がある」
と曹叡は答えた。たしかに、優柔不断な孟達を大事な魏との緒戦に利用しようとして数ヶ月を消費したところに、諸葛亮における戦略上の失敗があった。
しかし、である。
「こ、小手先の失敗にくじける諸葛亮ではあるまい。き、きっと次には漢中の本軍を大規模に動員し、長安に向けて攻め上るであろう」
翌年の太和二年(二二八)春、
「蜀軍が北上を開始」
の急報が洛陽に届いた。
(動いたか、諸葛亮……)
秦朗は視線を玉座にいる曹叡に向けた。曹叡は無表情に見えたが、やがて秦朗に視線を送ると、かすかに頷いた。
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