三国

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三国

                五  魏が大敗したという報せが蜀にも届いたのは間違いなく、曹叡はふたたび諸葛亮が軍を動かすのではないかと予想した。  その予想は当たり、十二月に入って曹真から諸葛亮が散関を出て、陳倉を数万の兵で囲んでいるという報告が来た。  力攻めだけでなく、雲梯や衝車といった大型攻城兵器をも用いているという。陳倉城を守備する郝昭の兵は千あまりしかいない。  「驃騎大将軍(司馬懿)か征西車騎将軍(張郃)を救援に送りますか?」  秦朗が曹叡に問うと、  「い、いや。それにはおよぶまい。お、おそらく諸葛亮は新たに編成した軍の演習を兼ねて陳倉を攻めておるのだろう」  「演習……ですか」  「う、うむ。あ、新しい兵器を使用しているところを見ると、そ、その可能性は高い。  大将軍と郝昭に任せていればしのぎきれるだろう」  「諸葛亮が、演習を必要とする理由は何なのでしょう」  「う、うむ。春に街亭で敗れた諸葛亮は馬謖と趙雲を排除した完全な独裁体制で、へ、兵を自ら訓練したのであろう。  あ、あらたな主力の将軍たちに軍を統率させ、し、新兵器の実験も兼ねている。むしろ恐るべき敵よ」  郝昭は曹叡の期待に応え、奮闘した。寡兵をもって蜀軍の大軍を退け続けた。  坑道作戦を見抜き、攻城兵器を焼き、八面六臂の活躍を見せた。  諸葛亮からの二度の降伏勧告にも、毅然として応じない気魄を見せている。  そこに曹真が救援に駆けつけたので、ついに蜀軍は撤兵した。  曹真が諸葛亮は攻めるなら陳倉だという予想をもち、郝昭に城の補修を命じていたことが勝敗を分けた。魏軍は撤退する蜀軍を深追いしてしまい、将軍の王双を戦死させてしまったことだけが蛇足であった。          ※  戦に敗れたばかりの諸葛亮ではあったが、その戦略戦術は実戦において経験を積み、成長してきていた。  いわば馬良や馬謖から教わった机上での戦略から脱し、ようやく地についた戦略を実行できるようになったといえよう。  蜀軍が敗戦から間を置かず、漢中から出て、武都と陰平に攻め寄せたという報せが魏に届いたとき、魏の群臣は「信じられぬ……」という声を口にした。  陳倉の包囲戦で軍資を費やし、撤退したばかりの蜀軍がすぐに攻めてくるとは予想しなかったからである。  曹叡も少々驚きの色をみせたものの、  「し、諸葛亮が用いたのは范雎の戦略であろうかな?」  と秦朗に訊いた。秦朗はうなずいて、  「おそらくそのように思われます。武都と陰平を攻略して三点による面を作り、じわじわと領土を増やしていく策かと……」  と答えた。少年期から二人で兵書を読み比べていた二人に、贅言はない。曹叡は首をかしげて、  「ぶ、武都と陰平は守るに難く、攻めるに易い僻地だ。な、なぜ、諸葛亮はそのような場所を攻めたのか。な、何か他の意図があるとは考えられないか?」  と困惑したようにいった。  「おそらく、ですが……諸葛亮も負けたままでしたら蜀国内の威厳に関わると考えたのではないでしょうか。  ほんとうに漢の復興をめざすのであれば、かならず長安から洛陽に軍を進める戦術をとるはずです。ひとまず己の地位と権威を確立しなおしたうえで、魏に決戦を挑んでくるのかと思われます」  曹叡は頭をふって、  「し、諸葛亮ともあろうものが、僻地を占領して己の功を誇るとは。とはいえ、武都と陰平を見殺しにはできぬ。か、郭淮を救援にむかわせよう」  と命じた。  蜀軍の先鋒は陳式で、まもなく武都と陰平を平定し終えていた。 郭淮が陳式の軍と対峙した頃には、なんと諸葛亮の軍が武都郡の北端に陳式の救援として到着しており、寡兵で武都と陰平を奪還するのは不可能だと判断した郭淮は撤退した。  街亭の戦いで、馬謖の先鋒と連動できなかった頃の諸葛亮ではもはやない。  郭淮からの報せを受け取った曹叡は、  「ぶ、武都と陰平は統治も守備も不安定な土地なので、こ、このまま蜀軍に保持させてもよいと思うがどうか」  と秦朗に訊いた。秦朗もそれに賛成である。  「統治の負担が減ったことをむしろ利用すべきかと存じます。いずれ蜀を討伐するときに武都と陰平から兵を入れることができるので、そのための布石としてもいいでしょう」  この局地戦の勝利で諸葛亮は丞相に復帰した。街亭での敗北で自らを罰するとして右将軍に降格を申し出て、劉禅に了承されていたのである。  しかし、街亭での敗北と武都陰平の平定では戦略的意義の重さが違い過ぎる。実際右将軍に降格後も丞相の任務を果たしていたので、儀式的な建前にすぎない。  それだけ蜀における諸葛亮の独裁専制は盤石なものになっただけである。  まもなくして、曹休を騙し大勝した孫権が帝位に就くという、おどろくべく報せが曹叡のもとに届いた。  「そ、孫権が帝位になあ……」  書状を手にした曹叡は、それを秦朗に手渡した。  「漢から正式な手続きを経て禅譲を受けたのは、魏のみです。蜀と同様僭称とすべきでしょう」  妥当な対応である。  「し、蜀では同盟者が帝位を称したのには、悩みどころであろうな」  「はい。反対するものも多いでしょう。ですが、諸葛亮は現実主義者です。これを認めて、魏を倒すための協力者を失うようなまねはしますまい」  秦朗の意見に曹叡も同意した。  「しかし、天下に三帝か……」  ここに後世まで知られる「三国志」の時代が初めて幕を明けた。          ※  太和三年(二二九)、曹叡は宗廟を建設した。  すなわち高皇帝(曹騰・曹操の祖父)、太皇帝(曹嵩・曹操の父)、武皇帝(曹操)、文皇帝(曹丕)の位牌を十二月に安置した、  呉は孫権が帝位に就いたのを節目に建業に遷都した。  蜀の諸葛亮は呉帝孫権を認め、いよいよ魏に対する攻勢と防御を高めるため、漢中郡の沔陽に漢城、成固に楽城という二つの城を築いた。  この蜀軍の動きを敏感に察知したのは、曹真である。  曹真は先年亡くなった曹休に代わり大司馬に任じられ、剣を帯びたまま、靴もはいたままで上殿することが認められた。それだけでなく、入朝した後小走りしなくてもいい特権も与えられたので、まさに功臣随一の待遇といえた。  その恩に報いんと、曹真は曹叡に拝謁した際、蜀討伐を提案した。  「蜀は連年わが国の国境に出陣しては、戦費を浪費しています。ここでわが方からの蜀討伐をおゆるしください。数道から多方面に軍をすすめれば、必ず勝てます」  曹叡は即断を避けた。  秦朗とは魏と蜀の国力差を比較して、固く守備に徹すれば、いずれ蜀の国力が立ち枯れてゆく、そこが討伐軍の出師の機会だと話し合っていたからだ。  しばしば曹真からの催促があり、  「近臣……名をあげれば阿蘇などが守勢に徹することを進言しても、それはお聞き逃しくださるよう。  冬になるまでに出陣の命をお下しくだされませ。機会を逸してはなりません」  と秦朗を名指しして非難した。亡くなった曹休が秦朗を恨んで死んだことに、同族の曹真としては同情したのであろう。  「私が前に出て、大司馬をお止めしてもよろしいですが」  秦朗の申し出に、曹叡は首をふった。  「こ、これ以上阿蘇に荷を負わせるわけにはゆかぬ。大司馬にも面子があろうしな」  「それでは……大将軍(司馬懿・驃騎大将軍から昇格)と征西車騎将軍(張郃)と同時に蜀に侵攻していただく手はどうでしょう。  この二人は軽率な将ではありませんので、少なくとも大敗はしないと考えます」  曹叡はわずかに顔を上げて、  「し、蜀は険阻の地であるゆえ、相互の連携はむずかしかろうと思うが……こ、この二人が同時に大司馬の副軍になるならば、戦果が上がるやもしれぬな……や、やらせてみるか」  とやや安堵の表情を秦朗に向けた。  「では、大司馬の軍は子午道から漢中を最短でめざすようにお命じになられますか」  秦朗が確認を取ると、曹叡はうなずいた。  「か、かつて蜀の魏延が、最初の諸葛亮との戦のとき、し、子午道を通って長安を急襲する策を提案したが退けられたらしい。  た、大軍を通過させるのには不安がないではないが……」  「大将軍の軍を、荊州から進発させますが、魏興郡の西城から山道を通らせると」  秦朗はこの蜀征伐に乗り気ではない曹叡をはげますように、確認を続ける。  「そ、そう……あ、あと斜谷道からは征西車騎将軍と、ぶ、武威郡からの四軍でいこうと思う」  作戦からすればかなりの確率で蜀軍は苦戦する。ただ繰り返すが、山岳地帯で険しい山道を大軍が進むので連動は期待できない。なので、曹真・司馬懿・張郃という魏の最高の司令官三名を任命した。  うまくいけば蜀の王朝を滅亡させることができる規模の大きな作戦である。  司馬懿は曹叡からの命令を拝受して、さっそく出陣の準備に取りかかっていたが、胸の高揚は感じることができなかった。  「ご気分がすぐれませぬか」  息子の司馬師が気遣うと、  「うむ。大司馬は蜀軍が戦費を無駄に費やし、枯渇しているといっているが果たしてそうなのか……」  と物憂げに顔を向けた。司馬懿は特異体質らしく、首を一八〇度回転させることができる。  「たしかに、蜀軍の動きは洗練されてきています。諸葛亮が内政をおろそかにするともおもえませんし」  「それよ。すべては大司馬の主観からこの作戦は出ている。戦場は千変万化の生き物だ。われらの軍だけでも、無事帰還できる準備を怠らぬようにせねば」  司馬懿の心配は杞憂に終わらなかった。  作戦そのものには齟齬を生じさせるものはなかったが、天候が魏に味方しなかった。  長雨である。  これが三十日余りも降ったので、四道から侵入した魏軍は完全に足が止まった。  漢水が溢れ、道に水が流れ出し、崖に架けてある桟道も崩落した。  「父上の嫌な予感が当たりましたね」  司馬師が司馬懿の幕舎に来ると、  「呉が動き出せば、わが軍は引き返さねばならぬ。そうなると大司馬の軍を足元が悪い敵地においてゆかねばならなくなる」  と無表情でいった。  「それはそれで、悪いことではないかと」  司馬師は声をひそめた。  「声が大きい。誰が聞き耳を立てているかわからんぞ」  司馬懿は皮肉な笑みをもらした。  主力の曹真は気が気ではなかった。  「早く止め……」 天に向かって毎日祈った。元来優しすぎるがゆえに患っていた気鬱の病が、悪いことに再発してもいた。  雨にさらされる兵たちを思うと、心中に鉛が流れ込んだようであった。やがて曹真は食欲を失い、床に臥すことが多くなった。  一方の曹叡であるが、  「き、許昌に行幸しようと思う」  と遠征軍が西に進軍してから、決断した。  「呉の動きの牽制ですね」  秦朗はその意図をすぐ察した。  「そ、その通りだ。ご、呉が動いたなら、できるだけ大将軍の兵を呼び戻したくはない。  だ、大司馬の策を成就させてやるには、ち、朕自身が余剰兵力となって、呉に対峙せねば……あ、阿蘇もついて来てくれるな」  「もちろんでございます」  秦朗はまた戦場における曹叡の呼吸に、感心させられた。  百官も許昌に移ったが、ある日、大尉の華歆が上表を行った。  「蜀への遠征は、今どうしても行うべきではありません。蜀呉の二賊を討ち滅ぼすには座して待つだけで充分です。  私は宰相の座にあるというだけで、あえて苦言を呈さねばならないですが、それは私の命が病によって尽きようとしているからで、陛下には伏してご再考をお願いいたします」  華歆は本当に病気だったようで、翌年亡くなるのだが、曹叡はこの老臣の諫言を心して聞いた。  「た、大尉のお気持ちは十分に察しているつもりだ。ぶ、武帝・文帝がなせなかったことを朕がたやすくなせるとも思っていない。  た、ただ、蜀に探りを入れなければたやすく瓦解することはないと思い、この度の遠征を行った。と、時が利することがなければ軍を返すことはいとわないであろう」  と伝えた。  (やはり大司馬の作戦には無理があったのでは……)  百官は、曹叡の「戦果があがらなければ撤退する」という胸の内を知り、その思いを強くした。  一方、曹真の病はさらに重くなっていた。  食欲が衰え身体の免疫が低下しているところを、雨に打たれ兵を督励したことが、それに拍車をかけた。  大雨は止まず、道路を水浸しにしてふさぎ、魏軍全体が雨でずぶ濡れになり続けたので、疫病が蔓延し、士気は低下した。  ついに曹叡から、  「兵を撤退させて、帰還するように」  との詔勅が下った。  曹真は病み衰えた身体をひきずるようにして立ち上がり、天を仰いだ。  (天は、正義に味方せぬのか……)  司馬懿と張郃たちの軍も、戦わずして撤退した。  撤退するにあたり、曹真は自らの病を隠し通した。  「われの病が軍に知れると撤退の士気が衰えるだけでなく、蜀軍にもそれが漏れる……撤兵は秘密裏にすみやかに行うぞ」  意地であった。蜀を覆滅させる策を強引に推し進めた自分自身の病で、大雨が理由とはいえ兵を退くことが曹真にとっては無念で仕方なかった。  「だ、大司馬が病に罹っておるのか」  曹叡のもとに曹真の病が伝えられたのは、蜀討伐軍が撤退し終えた後であった。  「おそらく、大司馬はあのようなお人柄……ご自分をお責めになられたのでしょうな」  秦朗も同情を禁じ得なかった。  曹真は帝室に連なる名臣で、私心がなく、下賜されたものは残らず下のものたちにわけてやり、足りなければ自らの私財をわけるような人柄であった。  今回の遠征も、自らの名誉のためでなく、魏という国に益をもたらすと決断して上表した作戦であった。  曹叡が許昌から洛陽に戻ったのは、冬十月である。皮肉なことにこの冬にはまったく雨が降らなかった。  「蜀には地の呪術でもあるのか?」  「わが軍は大雨でまともに戦すらできなかったというではないか。不吉な地よ」  群臣たちもこの現象には、不気味さを感じざるを得なかった。  「し、諸葛亮の怨念かの?」  曹叡は苦笑して、秦朗にいった。  「たとえそうであろうとなかろうと、わが軍を蜀の山険に入れようと提案するものはいなくなりましょう。軍資は費やしましたが、兵の命は救うことができました。これを戒めといたしましょう」  秦朗としても、この撤退を後学として活かすよう曹叡を慰めるしかなかった。  さて曹真だが、洛陽に帰還すると病はさらに重くなり、医師から回復ののぞみが薄いと報告を受けた曹叡は、自ら曹真の邸宅に見舞いに行った。  「申し訳ございません……」  もはや朦朧とした意識の中で、曹真は何度も曹叡に謝った。  「い、今は余計なことは考えず、自身の快復のみに専念してくれ。そ、それが朕を喜ばせることである」  曹叡は曹真の手を握って、懇ろに声をかけた。  曹真は三月に亡くなった。  「そ、そうか……」  病床の曹真を見ている曹叡は、この日を予想できてはいたが、一門の曹休、曹真が続いて亡くなったことに寂しさをおぼえた。  雨は十月から三月まで降らなかったのに、曹真が亡くなった日から雨が降り出した。  曹真は「元候」と諡された。  「わ、わが一門の有能な将が次々と亡くなった。と、統率するのは若いものばかりである。心細いことよ」  曹叡は秦朗にだけは、その心情を吐露した。  「簒奪をおそれておられますか?」  今や魏軍の中核を担うのは司馬懿と張郃である。  「い、いや……」  曹叡はさほどこだわりない口調で、  「ち、朕は袁煕の子だ。あ、阿蘇も秦宜禄の子ではないか。  曹氏に有能なものがいなければ、有能な他氏が取って代わっても、それが人民のためになる。国号とてこだわるものではない」  と驚くべきことをいった。  「そこまでのお覚悟でしたか」  秦朗は曹叡の成長を見た思いがした。  「し、蜀の劉禅とは和睦してもよい」  さらに思いがけない曹叡のことばに、秦朗は愕然とした。  「ち、朕が正帝、劉禅が副帝……い、いや、その逆でも一向構わぬ。国号も魏でも漢(蜀は正式には漢を国号としている)でもよい。  そ、そうすれば呉はおのずと降るか、滅ぼせよう」  「……」  「た、戦いの末に互いが消耗するのは、誰のためにもならぬ。り、劉禅に直接話が通せる者はおらぬか」  「おそれながら、陛下」  秦朗は畏まって、曹叡の話をさえぎった。  「劉禅は暗君ではございませんものの、その周囲には諸葛亮が配置した家臣しかおりません」  諸葛亮は常に漢中に駐屯しているが、劉禅の側近には、蒋琬、費偉、董允といった諸葛亮の意向に従う文官でがっちり固めてある。  いいかえれば、劉禅は諸葛亮の思想を日々近臣によって刷り込まれ、洗脳状態にあるということだ。  「そ、そういうことか……」  曹叡はため息をついた。  「ぶ、文帝は偉かった。じ、自分の子でなくても、国のために朕を帝位につけてくれた」  「陛下のお志は、この阿蘇がかならず実現させてみせます」  秦朗の珍しい大言に、曹叡は驚いたようであった。  「できますれば陛下とともに、たとえ一人になってでも、どのようなかたちをとりましても、本日の陛下のおことばを蔑ろにはいたしません」  「あ、阿蘇……」  そこに宮殿からの使者が、謁見を求めてきた。  「孫権が合肥に侵攻を開始したもよう」  曹叡は立ち上がって、  「へ、碧眼児め。だ、大将軍(司馬懿)が蜀から戻りきらぬのを見越して攻めて来おったか」  と怒りをにじませた。  合肥方面は、曹休が亡くなったばかりで、老将の満寵を都督に任命している。  「孫権は、自身は戦下手です。征東将軍(満寵)は戦に遺漏のある人ではありません。  必ずや壮候(曹休)の仇をうってくださるに違いありません」  「そ、そうだな」  孫権はあろうことか、曹休に勝ったときの「二匹目のどじょう」を狙ってきたのである。          ※  孫権が攻めた合肥は交通の要衝である。東西南北の道が交差しており、呉は何度ここを攻めても失敗を繰り返している。  太和四年(二三〇)に魏は合肥に新城を築き、防備を厚くしていた。  蜀征伐で戦力が手薄と見た孫権が、群臣に合肥攻略を図ったのは、適切な時期だったかどうか。  満寵は老将であるからして、ものごとの判断も鈍っておろう。聞けば酒に溺れて諸事なおざりにしているともいう。  魏軍は蜀を攻めたが雨で進退に窮しているとのことで、今が合肥を攻めとる好機だと孫権は決断した。  満寵は酒好きではあるが、戦の機微にかけては孫権を上回っている。情報を収集し、曹叡から兗州と豫州の兵を合肥に終結させてもらった。  新城を築いた合肥の守備は万全である。  「孫権は、また策をしかけてくるな」  満寵は周囲にそう予言した。  対峙し、にらみ合った魏呉両軍に隙があろうはずがない。やがて呉軍は撤兵をはじめた。  「が、合肥を攻めたのは様子見だったのか」  情報を受け取った曹叡は、兗州と豫洲の兵に撤兵を命ずる詔を出そうとした。  「お待ちください」  秦朗は声をあげた。  「おそらく偽装です。大軍を動かした孫権が策のないまま撤兵するとはありえません。  わが軍が撤兵したと同時に引き返して攻勢に出ると思われます」  「そ、そうか……むかし楚の荘王が鄭を攻めた策をまねておったか。で、ではあえて撤兵の詔を下し、満寵には軍を動かさないように指示するのはどうかな」  「おみごとです。これで孫権の裏をかけましょう」  遠隔地の戦略においても、曹叡と秦朗の齟齬はみられない。  果たして撤兵の詔と別の動くなという書簡を受け取った満寵は満面の笑みをたたえた。  「陛下は兵の進退をよく心得ておられる。これで合肥も安泰よ」  呉軍は、曹叡と秦朗が予想したとおり、魏軍の引き上げ際に反転して攻撃するつもりだったので、ただ空しく戦費を費やしたのみで撤退した。孫権が不機嫌になったのは、当然であった。  陸遜を太子の孫和に付けているため、良策を提言してくれる家臣がいない。そこで、孫権は再び、謀略に手を染めるのである。  翌年、呉の中郎将である孫布が、  「魏に降伏いたします。揚州までは道のりが遠いので、途中まで兵を出して怪しまれぬように迎えにきてください」  と、揚州刺史の王淩に使者を使わせた。  (馬鹿にしているのか)  王淩から報告を受けた満寵は、曹休を騙したように何度でも同じ手でしか、敵国を攻略しえない孫権に哀れみさえ感じた。  ところがである。  「敵将を迎えたいので、兵を与えてください」  と、王淩は信じてしまったのである。  満寵は驚いて、  「これは呉の策で、孫布は佯降をたくらんでいる。兵は送れない」  と返書を出した。  王淩は、満寵が自分に功績を取られることを妬み、兵をよこさないと激怒した。  「独断で、歩兵騎兵七百をもって孫布を迎えに行く」  まぎれもなく、王淩の失敗ではあったが、満寵が兵を与えなかったのは正解であった。  案の定、魏兵と遭遇した孫布は夜襲を敢行し、半数の兵を討ち取った。それでも、大げさな計略のわりには戦果はわずかで、満寵によって魏軍の損害は最小限に抑えられた。  「そ、孫権は哀れを通り越して惨めだな」  曹叡は満寵の上表を受け、秦朗にそう漏らした。  「呉の限界を見た思いでございます。それに比べ……」  またも蜀軍が西方で蠢動しているという報告が入っている。  「諸葛亮は、兵を自ら鍛え、手足のごとく運用できるようになっております。おそるべきは蜀軍でしょう」  「う、うむ。だ、大将軍(司馬懿)に西方を鎮撫してもらわねばならぬな」  曹真亡き後の、司馬懿と諸葛亮の歴史に残る攻防が始まろうとしていた。
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