五丈原

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五丈原

                七 魏の青龍二年(二三四)になった。 三年の間、魏と蜀の間に戦闘は起こらなかった。諸葛亮はひたすら兵を鍛え、糧食を豊かにし、魏との乾坤一擲の戦に備えているようであった。 曹叡は、というと汝南太守の田豫に呉が遼東の公孫淵へ遣わせた使者を討たせたり、適材適所の軍事を行っていた。 ところが秦朗から見れば、 (平時の陛下はそれに倦むご気性がある) と感じるときがある。 たとえば、二年前の太和六年(二三二)には曹叡の皇女である淑を病気で亡くした。享年は二歳とあり、幼児の生存率が低かった当時としてはめずらしくないことだったのかもしれない。 それでも曹叡の悲しみは深く、諡号して「平原懿公主」と諡した。 秦朗は幼馴染でもある曹叡の苦悩を察して口を出さなかったが、群臣は違った。 陳羣は、 「幼児で皇族が亡くなった場合、葬儀の例はきまったものがありません。 国をあげて大葬儀を行うのは、蜀や呉に皇帝が亡くなったと要らぬ憶測を立てさせるもとになります。おやめになった方がご賢明です」 と諫めたのだが、曹叡は耳を貸さず盛大な葬儀を強行した。 また人事や軍事に恣意がほとんどない曹叡の唯一の欠点は、大宮殿など巨大建築物の建造を好むことだと次第に明らかになってきた。 「き、許昌宮を大きく改修し、け、景福殿と承光殿もあらたに建造するのだ」 曹叡は娘を亡くした悲しみを癒すように、うれしげに秦朗にそれを告げた。 (ここが我慢だ……) 秦朗は諫言したい自分をぐっとこらえた。 諫言は忠臣の陳羣らに任せればいい。秦朗は佞臣なのだ。ひたすら曹叡のことばに追従しておかねばならない。 (劉曄はかつて陛下のことを『秦の始皇帝、漢の武帝』となぞらえていたが、そこまで真似をしなくても……) 始皇帝も武帝も大宮殿の建築が大好物で、帝国滅亡の遠因をつくったからだ。 農民は耕作する日時を工事で招集されるため奪われるので、怨嗟の声が満ちた。 陳羣の再びの諫言で工事の縮小を決めた曹叡であったが、あらためて無為に皇帝につかえることが苦痛であると秦朗は感じた。 「さ、山陽公が亡くなった」 秦朗が意外なことを曹叡からきいたのは、三月のことであった。 「く、くわしい葬儀の内容は文帝(曹丕)が遺してくださっていた。ち、朕はそれに従うのみだが」 曹叡は感慨深そうに、 「も、もう董卓を実際に見たものはいなくなったということだな」 群雄割拠の時代は遠く去ったといいたかったのであろう。 「五十四歳であったそうですね」 「そ、そう……御史中丞(徐庶)によると、諸葛亮と同い年らしい」 「諸葛亮も病に倒れてくれれば、と思います」 秦朗のことばに曹叡は一考して、 「そうあればよいと思うが、天命は人が操れぬ」 といった。 諸葛亮が満を持して出師したのは二月であった。総勢十万。兵に帰農させて充分に蓄えた兵糧を木牛・流馬で輸送しつつ万全の出兵であった。 (出てきたか、諸葛亮……) 秦朗は前回手の内をお互い尽くしたこともあり、今度の戦が決戦になる予感がしている。 もちろん魏も座して蜀軍が攻めるのを待っていたわけではない。冀州の農民を天水郡の上邽に移住させ、開墾をさせておいた。京兆軍、天水郡、南安郡で武器の製造をおこなっていた。 大国の魏だからこそできる戦争準備であり、長期戦が予想される蜀との戦いを万端の状態で行うことができる。 「こ、こたびの諸葛亮には迷いがないな」 曹叡は胸騒ぎをおぼえた。かつて西方の魏の諸郡を寝返らせたり、一切の策を講じず、渭水の南岸に営塁を築き、魏を迎え撃つ姿勢を崩そうとしない。 「諸葛亮の自信の表れと見ます」 総督に任じられた司馬懿も、厳しい表情である。 「つきましては……」 と司馬懿は辞を低くして、 「護軍として驍騎将軍(秦朗)に付きしたがっていただけませんでしょうか」 と曹叡に乞うた。秦朗も一歩前に出て、 「私からもお願いしようと思っておりました。どうかご許可を」 と毅然とした態度でいった。 「う、うむ。あ、阿蘇が側にいないのは不安だが、ぎ、御史中丞(徐庶)が何かと相談にのってくれるであろう。許す」 曹叡は、いつもの兵力に加え、秦朗を征蜀護軍に任じ兵を四万つけよう、といった。 「せっかくのご厚意ですが、蜀軍が十万とはいえ、私には半分の二万が妥当かと存じます。長期戦になれば、兵糧の浪費も多くなります。大将軍はいかがですか」 秦朗の提案に、 「私も驍騎将軍の案に賛成です。諸葛亮はこれまで兵糧不足に悩まされ兵を退いておりますゆえ、野戦での決着を模索してくるはずです。わが方は、それにできるだけ乗らない方向で敵の綻びを待ちます」 と司馬懿も賛成した。 「気をもたせるような報せで、不確かなものがあります」 徐庶が書簡を曹叡に手渡した。曹叡は熟読して、秦朗と司馬懿にもそれを読ませた。 「し、諸葛亮が病に罹っておるという噂か」 「明らかに肉が落ち、痩せが目立つというのは臓腑を病んでいるのかもしれませんね」 秦朗が司馬懿に話しかけると、 「身を削ってまで策を弄する諸葛亮とも思えません。これは案外真実やもしれませぬな」 と同意を示した。 「だ、だが、これが本当なのだとすると、し、蜀軍は手負いの虎だ。い、いずれにせよ心して敵に当たってほしい」 軍勢を進発させると、戦塵、鎧の重さ、馬のいななく声、すべてが初めての秦朗にとっては新鮮な驚きばかりである。 蜀軍は郿に近いところに駐屯している。郿を攻めずに魏軍の到着を待っているところを見ると、やはり野戦での決着を構想しているようである。 諸将は、 「蜀軍が渭水を渡河するところを撃滅すればいかがでしょう」 と提案したが、これには司馬懿も秦朗も呆れた。蜀軍の兵糧基地は渭水の南にあるので、渡河するはずはないのである。 「決戦を望んでいる蜀軍は、渭水を渡ることはないかと思われます。われらはすばやく渭水を渡河して、営塁を築くのが手堅い策だと思われます」 秦朗は時間の浪費を無駄にしたくないので、司馬懿の心中を献策した。 諸将は、 (なるほど、大将軍が好みそうな策だ) と秦朗の忖度を心中で軽んじた。 「護軍(秦朗)のいうとおりである。渡河して堅牢な営塁を築くぞ」 司馬懿がお決まりの穴熊戦法を決めたので、 (阿蘇も大将軍も、対諸葛亮恐怖症に罹っている) と諸将は嗤い合った。 その日は営塁を急造でつくり、翌日以降の蜀軍の動きを待った。 「諸葛亮が勇者であれば、武功県まで進み、東進するであろう。が、兵を後退させて西に進み五丈原に布陣するのであれば、わが軍は負けることがない」 と翌日、司馬懿は後世有名になったことばをいった。 内偵が、 「蜀軍は西に進路を変え、五丈原に布陣したもようです」 と告げた。 「やはり渭水の南が主戦場になるのでは」 秦朗が予想を述べると、司馬懿は、 「おそらくは。諸葛亮が勇者であれば、われらが渭南に軍を進めると同時に、蜀軍を渭北に移動させ長安を急襲するだろう。それがないことを見ると五丈原で決戦するつもりであろう」 と答えた。魏の主力は五丈原まで進んで、郭淮を渭北に置き、蜀軍を北と東から包囲する陣をしいた。 (しかしながら、これは諸刃の剣か……) 秦朗はひそかに思った。渭水を隔てて戦力を割いているので、連携しづらいところを敵に衝かれればどうか。 そこは今や百戦錬磨となりつつある蜀軍で、早速渭北の郭淮と魏の主力へ同時に軍をよせてきた。 (やはり許してはくれぬか……) 秦朗は初めて動きを目にする蜀軍に対して戦慄した。司馬懿も同様だったようで、 「さあ。来たぞ!押し返せ」 と若干の動揺を隠しつつ兵を鼓舞した。 戦場は積石という場所である。 蜀軍の先鋒には「魏」の旗が翻っており、猛将・魏延であることは明確だった。 両軍の先鋒は激しくぶつかりあったが、やがて司馬懿の檄と気魄が効いたのか、魏延はいつものがむしゃらに前に出る勢いがなく、やがて退いていった。 渭北の郭淮も営塁を築く前に蜀軍に強襲されたのだが、果敢にこれを撃退し引かなかった。 先鋒が退いたため、諸葛亮は本陣を武功水の西岸にある五丈原にしいた。 魏の諸将は続々と司馬懿と秦朗のいる本営に戻ってきた。 司馬懿は諸将をねぎらったあと、秦朗と司馬師・司馬昭の兄弟を前にして、 「蜀軍は連携の不備によって引いたと見るが、どうか」 と本心を吐露した。秦朗は、 「御史中丞(徐庶)の話によれば、諸葛亮と魏延は不仲であるといいます。諸葛亮の戦略意図を理解していなかった魏延が手を抜いたのかと」 と感想を述べた。司馬懿もうなずいて、 「私もそう感じていました。魏延はおそらく武功県を東進して長安を襲う策を進言していたのでしょう。それが軍を西に退いて戦えといわれ、戦意を失ったのかと」 と同意した。 「それで、あの粘りのない退却ですか……」 と司馬師は納得がいったようであった。 「諸葛亮と魏延の間隙は、弱点の少ない蜀軍であっても大きな粗です。彼らの仲をさらに裂くことができればよいのですが」 謀略を担当している司馬昭がいった。 「昭よ、できるか?」 司馬懿の問いに、 「長期戦になれば、流言や矢文をできるだけ打ち込んでみます。使者の往還があれば打てる手もあるかもしれませんし……」 と司馬昭は手の内を明かした。 「できるだけのことをお願いします」 秦朗もいった。兵の殺し合いのみで決着をつけるより、謀略で相手を崩す方が効率は良い。 「わかりました。では魏延と犬猿の仲の楊儀にも策を施してみます」 楊儀は諸葛亮に見込まれ取り立てられた文官であるが、綏軍将軍にも任じられている。 しかし独尊の傾向が強く、魏延がそのような性向で反目しあっているのであれば、近親憎悪かもしれない。 「魏延は漢中の太守で征西将軍ですので、領地は南鄭です。そこで独立し反乱を起こせばやっかいなので、諸葛亮も魏延を腫物にさわる思いで駆使しているのでしょう」 秦朗の説明を聞いて、司馬懿は、 (よく見ている……) と感心した。徐庶の情報や内偵をうまく消化し、戦場に反映している。 「護軍(秦朗)、あなたに合うのが遅すぎたようです」 司馬懿は、素直に感謝を述べた。         ※ 季節は夏になった。 どうやら呉は蜀と連携して兵を出す約束をしていたようで、陸遜と諸葛謹(諸葛亮の兄)に命令して、夏口に営塁を築き駐屯させた。 さらに孫韶と張承に江水を渡らせ、広陵郡を攻めた。軍は進み、郡府のある淮陰に迫った。 曹叡のもとに呉軍動くの報が届いた。 「陸遜、孫韶、孫権の三軍でわが軍を攪乱するつもりでしょう」 徐庶はさすがに情報の分析が的確で、曹叡もそれにうなずいた。         ※ かつて、満寵に関してはこのようなやりとりがあった。 「お、王淩からこのような訴状が届いておるのだが」 前回呉の策略を看破した満寵が、酒浸りであり中央に召した方がよい、という内容だ。 王淩は先の失敗を満寵に助けられたのを根にもち、自らが呉軍を討伐するという。 秦朗は訴状に目を通し、 「なるほど。それでは征東将軍(満寵)を召し、このようになさいませ」 と助言した。 満寵は洛陽に到着し、曹叡に謁見した。年老いた、との王淩の書簡ほどやつれてはいない。 「せ、征東将軍、遠いところをご苦労であった。ま、まずは酒といこうではないか」 (食事の前に酒……か) 満寵は曹叡に試されている自分を認識した。 曹叡と近臣と酒を酌み交わしながら、呉との戦や東南の風習などを話し始めた。 曹叡は一旦酒席を退席したが、酒が好きな満寵の話はとまらない。 宮中で出されている酒は美味であるから、たちまち杯を重ねた。 (もう一石は呑んでいるのではないか) 酒をあまり嗜まない秦朗は、末席から仰天する思いであった。 やがて曹叡が戻ってくると、満寵はさっと立ち上がり、乱れぬ礼拝をした。曹叡は呵々大笑して、 「は、はは。せ、征東将軍のことで酒に関する悪い噂を聞いたので、試させてもらった。 こ、この分では疎漏ないと確信したぞ。 せ、征東将軍の威のおかげで、孫権は兵をろくに動かせず、醜悪な策謀はたちまち見抜かれるであろう」 と満寵を褒め、感動させた。 (ははあ、王淩が陛下に讒言したな) 満寵はすぐに気づいたが、自分を信頼してくれる曹叡には頭が上がらない。 「中央に還るのは、長年の希望でもあったが、陛下のご信頼に背くことはできぬ」 と任地に還った満寵は一人ごちた。 さて、満寵は孫権との戦にあたって要所を心得ているので、 「陸遜を追い払ってみせるぞ」 と朗らかにいった。楊宜口に諸将を引き連れて陸遜の陣に迫ると、陸遜は驚いて夜半に兵を撤兵させた。 「呉の狐め。逃げ足の速さだけは認めてやろう」 そういって満寵は本格的に呉への防備を検討しはじめた。 「合肥の南に新城を築きたいと思います。 呉が合肥を攻めるとき、船を使ってそのまま兵を寄せることができるのに、わが軍はまずその敵兵を破ってから包囲を解かねばなりません。 ですから城内の兵を合肥城から西に三十里のところに新城を築き、そこに移動させるのです。そうなれば呉軍を陸上に引き込むことができ、そこからの帰路をわが軍が襲撃できて一石二鳥となるでしょう」 後に合肥新城と呼ばれる城のことである。 曹叡は高官たちと討議した結果、これを許し、呉への防備はさらに万全となった。 孫権は様子を見るため新城に兵を寄せてきた。満寵は孫権が自分を侮っているのを冷静に自覚している。ゆえに旧合肥城から六千の兵を、伏兵として様子見の孫権軍に襲いかからせた。 孫権軍は思わぬ敵兵の出現に慌て、数百の死傷者を出して船に戻った。 それ以来今に至るまで孫権は合肥を何度攻めても成果を上げていない。          ※ 「孫権は今度も合肥新城を意地になってせめてくるぞ」 酒を呑みながら満寵は余裕の笑みをみせた。 果たして曹叡のもとに、満寵から急報がもたらされた。 「呉軍が合肥新城に襲来。その数十万」 それだけでなく、驚くべき奇策まで書簡にしるされていた。 「そ、孫権に合肥新城を明け渡し、寿春にまで誘い込み会戦をしたいというのだ」 曹叡は、ため息をついた。徐庶が書簡を預かって熟読した後、 「孫権を満寵と陛下の親征軍で挟撃する意図のようですね」 と明快に分析した。 「い、今は西方に諸葛亮と対峙しておるときでもある。ち、朕自身は遊軍として決定的な危機に参戦したい」 「御意にござります。孫権は征東将軍に勝つことはできません。多方面作戦を仕掛けられている今は、防御に徹するのが最善かと存じます」 合肥新城の守将は張潁である。 武人の見本のような人物で、手堅い戦い方をし、基本を踏襲する。敵に翻弄されることもない。 その張潁に向かって満寵は、 「やはり策は退けられたが、突飛な奇策であったことは否めない」 と苦笑した。張潁もうなずいて、 「陛下は西に諸葛亮という大敵も抱えておられますれば、賢明なご判断ともいえましょう」 と慰めた。満寵は、それならと次々に策を思いつく。 「赤壁でわれは孫権に苦汁を飲まされたといったな。その仕返しをする」 呉軍の攻城兵器を焼く、というのである。 少数精鋭数十人を徴募し、自らもその指揮に加わった。 まるで大型動物の骨格のような攻城兵器へ夜半に近づき、麻の油を染み込ませた松の枝を、次々に投げ込んだ。 「風よ、あおれ、あおれ!」 満寵の大声に呼応したかのごとく、大きな風が孫権陣営に向かって吹き、大型の雲梯等を次々と焼いた。 炎が夜空を焦がす中、満寵ら特殊部隊は少々合戦をしたのみで、戦果を確認するとすぐ城に引き上げた。 翌日張潁から内偵の報せが届けられた。 「孫権の甥の孫泰が戦死したようです」 孫権軍への夜襲ではあったので、皇族が混じっていることを忘れていたわけではなかったが、思わぬ手柄であった。 「孫泰をわれは知らぬが、親族を殺された孫権は怒り心頭であろう。これから呉軍の猛攻がはじまるぞ」 満寵は孫権を怒りに火をつけることこそが主眼であったので、事態の思わぬ展開をも楽しむ表情をみせた。 予想通り、呉軍ははげしく合肥新城を攻めはじめた。しかし張潁の堅守と攻城兵器の喪失で、城の防備は揺るぎない。 夕方になり、守備につかれた張潁は、酒を呑んで気分よくなっている満寵を見つけ、 「のどが渇きました。私にも将軍のお酒を分けてください」 と快活にいった。 「よいとも、よいとも」 「征東将軍はよいお酒を召し上がっておられますなあ」 「なに、われが洛陽で天子に賜った酒はさらに深みがありうまかったよ」 「はは、あやかりたいものですな」 翌日からも呉軍の合肥新城への猛攻は続いた。しかし満寵には張潁に知らせていない秘策がある。 皇帝曹叡の親征である。 合肥新城を敵に明け渡す策と同時に、それが却下されると見るや、次善の策を献じて許可されていたのだ。 それは、まずは呉軍に合肥新城を攻め疲れさせたあとで、曹叡自ら騎兵三千、歩兵五千を率い大軍に見せかけて糧道を断つ動きを見せることである。 (孫権には、陛下の親征を予知する能力はない。よって洛陽に軍を残したまま八千の兵で呉軍を撤退させることができる) 満寵に孫権は見くびられたものである。しかし悲しいかな孫権の軍事的実力とはその程度でしかなかった。 「あと一ヶ月で呉軍は退いてゆくよ」 酒を呑みながら敵軍を望み見た満寵のことばに、張潁は老将の予言を不思議そうにきいた。 親征の準備をしながら、曹叡には気がかりがあった。西方で諸葛亮と戦っている司馬懿と秦朗のことである。 司馬懿が諸葛亮に敗れてしまうと、洛陽に曹叡がいない。すぐには帰還できないので、 衛尉の辛毗に節を持たせ、大将軍軍師に任命した。  「よ、よいか、だ、大将軍(司馬懿)と護軍(秦朗)には、な、なにがあっても蜀軍と戦ってはならぬと伝えよ」  と五丈原の司馬懿の陣に向かわせた。蜀と呉の二正面作戦に対して打てる手を打った、ということである。  曹叡は七月に船に乗って合肥の戦場に向かった。徐庶もその親征に目立たぬように随行した。  三千の騎兵が輜重を襲おうとしている軍事行動に、孫権は首をかしげただろう。呉軍は緒戦に攻城兵器を焼かれた戦い以外ではさほどの被害を受けていない。  魏の三千の騎兵は威嚇行動だけで、わざと逃げたように見えた。ということは、呉軍をおびき出す意図があるのではないか。  その後魏軍の五千の歩兵が接近してきた。これを呉軍の偵察は、大軍が接近してきたと誤認した。  しかも曹叡自身は数百里離れた場所にいるにもかかわらず、曹叡の親征軍の到着と思い込んでしまったのである。  驚いて退却してゆく呉軍を城から眺めていた張潁は、  「これは魔術を見るようだ」  と満寵に感嘆してみせた。  「孫権は陛下が親征するとは露ほどにも想像していなかった。だから八千の兵を賑やかに到着させるだけで陛下の到着と見誤ったのさ。  攻城兵器を焼かれ、一族の孫泰を喪った時点で孫権の気魄は半ば消えていた。また合肥を攻めるのに軍資を費やしただけの空しい戦になったな」  満寵は自らの策が的中したことに、上機嫌であった。  曹叡と徐庶が合肥新城に到着したときには、孫権軍の姿はすでになかった。  (陛下を戦場に立たせないでよかった)  と群臣は喜んだ。  満寵や張潁たちを称揚した曹叡は、このまま長安に入り、司馬懿たちを救援する姿勢をみせた方がいいという近臣たちの意見に、  「そ、孫権が戦わずに撤退したという情報は、し、諸葛亮にとって何よりの精神的打撃となったであろう。ゆ、ゆえに大将軍(司馬懿)は諸葛亮に勝つ。ち、朕が西方に向かう必要はない」  と微笑んだ。  (よきご決断)  徐庶も曹叡の判断に心中で同意した。諸葛亮は呉との二正面作戦に期待していないと仮にいっていても、それが瓦解したときには心中穏やかではなくなるであろう。  せっかく南方に驥足した曹叡は、寿春で各将の勲功を調査させ、六軍をねぎらった。  曹叡の余裕の行動も、諸葛亮に対する示威行動であることはいうまでもない。  曹叡が許昌宮に帰還したのは八月下旬であった。  一方、呉軍の別動隊として沔口に駐屯していた陸遜と諸葛謹は、襄陽を攻めるよう命令を受けたままで、孫権の撤退を知らずにいた。  主力の孫権軍、そして淮陰県まで進んでいた孫韶が撤退した今、陸遜と諸葛謹の軍は孤軍である。  陸遜は非凡な将であるから、あわてて撤退して醜態をさらすことはなかった。まずは泰然と陣を構え続け、魏軍に、  「なにか策があるのかもしれない」  と思わせ戸惑わせることからはじめた。  そして兵を上陸させ、襄陽に向けて進軍するそぶりをみせた。様子をうかがっていた魏軍があわてて城内に戻り防御態勢をとったところを、軍を反転させ、諸葛謹に任せていた船に乗せて退却してしまった。  「り、陸遜も兵を退いたので、呉軍の心配はなくなったな」  報告の書状を読んだ曹叡は、ひとまず胸をなでおろした。  「ところが、陸遜は漢水を下って呉に還る途中、江夏の新市、安陸、石陽の諸県で人狩りをおこなったようです」  徐庶がもう一通の書状を曹叡に渡した。  城外に出ていた魏の人民は、呉兵に斬り殺され抵抗をやめた多数の人民を捕虜として呉 に連れ帰ったという。  「あ、悪業にして蛇足だな」  曹叡は、露骨に嫌な顔をして吐き捨てた。  「み、見事な撤退をみせたのであるから、おとなしく呉に還っても孫権から褒賞はもらえたろう。  そ、それを無辜の民を殺害し連れ帰るなど、り、陸遜はろくな死に方をせぬぞ」  徐庶もうなずいて、  「孔明は何度も魏の領土を侵犯しておりますが、民草に被害を加えたことがありません。  それだけでも、われらの本当に恐るべきは孔明であることが明白になりました」  と断言した。  陸遜は孫権の親族なので、「貴人に情なし」という冷酷な一面が露わになった。そして曹叡の予言したとおり、後年陸遜は孫権の皇太子後継問題に巻き込まれ失脚、配流先で無念の憤死をとげることになるのである。          ※  一方、司馬懿と諸葛亮の対決は膠着状態に陥っていた。  すでに季節は秋になっている。  膠着状態といっても、司馬懿は曹叡から「戦ってはならぬ」と厳命を受けているので、魏軍が作り出した長期戦といってよかった。  「蜀軍からの使者が参りました」  司馬懿はふと目をあげた。秦朗を呼び、使者の到来を告げた。  使者を幕営で出迎えると、一通りの挨拶があり、蜀の使者が、  「諸葛丞相から大将軍への贈り物でございます」  と述べた。司馬懿は礼を述べ、その大きな箱を受け取り、開封した。  そこに入っていたのは豪華な巾幗、すなわち女の髪飾りであった。  「……」  司馬懿はことばを失った。諸葛亮の侮辱である。  「男なら出て戦え、ということですかな」  秦朗もこのようなあからさまな侮辱には、血が逆流する思いであったが、案外司馬懿は冷静である。  「……はい。そのようで」  司馬懿が激怒することを予想していた蜀の使者は、拍子抜けしたような返事をした。  「挑発されて癇癪をおこし、敵に飛びかかる方がご婦人のようにお見受けするが、いかがか」  司馬懿の穏やかな対応に、蜀の使者は目を白黒させている。  (さすがは大将軍……)  謹厳で有名な司馬家で育っただけあって、司馬懿に安い挑発は効果がない、と秦朗は舌を巻いた。  「ところで……」  司馬懿は巾幗の入った箱を丁寧に置き、蜀兵に質問をはじめた。  「諸葛丞相は息災であられますか。執務も大変な量だとお察しするが」  諸葛亮は使者を選定するにも、策をもちいなかった。つねに正直で敵にも誠意をもって接する人物を送っていた。  「丞相は夜明け前に起床し、深夜に床につかれます。鞭打ち二十以上の刑罰はご自身で裁定されるのですが、食事は数升も食べられません」  日本の一升は約一・八リットルであるが、三国時代の一升は約0・二リットルといわれている。それを勘案すれば、健康な成人の食事量から比べると明らかに少ない。  魏の諸将からはどよめきの声があがった。  秦朗も、  (これだけの激務をこなしながら、わずかの食事しか摂っていないとは……)  と戸惑いを隠せなかった。そして徐庶が内偵していた諸葛亮重病説の裏打ちが取れた、とも感じた。  「これは、これは……」  司馬懿も秦朗と同じ点に思い至ったらしく、秦朗を見てうなずきながら、  「蜀の諸将もご無念でしょうな。せっかく有利に戦をすすめているにもかかわらず、国に還らないといけないというのは……」  秦朗をはじめ、魏の諸将は司馬懿が何をいいだしたのか不審をおぼえた。それは蜀の使者も同様だったらしく、  「大将軍、それはどういう……」  と疑問を述べようとした。そのことばを最後までいわせないうちに、司馬懿は低い声でこういった。  「諸君、諸葛丞相はまもなく亡くなられるであろう」  魏の諸将のどよめきはさらに大きくなった。  (諸葛亮が死ぬ……?)  初めてその情報に触れた者ばかりなので、当然ではあったが、秦朗は、  (なるほど、これがさきほどの巾幗の仕返しか)  とふたたび感心した。戦は使者の往還でも充分に行えるということだ。  蜀の使者はそれでも容儀を崩さず、一礼して蜀の陣へ戻っていった。  それから蜀の陣営は動きを止めたように静かになった。  「やはり御史中丞(徐庶)の情報はたしかだったようですね」  秦朗は司馬懿に問いかけた。  「あの使者の表情が、すべてを物語っておりました。蜀の陣営内でも諸葛亮死後の段取りをはじめているはずです」  「もしそうなら追いますか?」  撤退する蜀軍を、である。  「もちろん。山深い険阻の地である漢中を落とす絶好の機会です」  司馬懿は己の勇気を鼓舞するように応じた。  そのあと南方から曹叡に大将軍軍師に任命された衛尉の辛毗が到着した。  「大将軍、陛下は何があっても蜀軍の攻撃には出撃せず、防御を固めるようにとの仰せです」  辛毗はそのことばを発した後、魏の営内が静まり返ったので不審に思い、  「蜀軍に何かあったのですか」  と司馬懿に訊いた。辛毗は高齢だが硬骨漢で、自ら帯びた使命に諸将が従わないのかと勘違いしたのである。  「はい。じつは諸葛亮が病に罹っておるようで、先は長くないことが判明したのです」  「えっ……」  「私たちも蜀軍の攻撃には挑発されても一切それに乗らなかったのですが、事情が変わった、としか……」  護軍の秦朗も司馬懿の説明の補足を行った。  「そのように事態が急変しているとは知りませんでした。早速陛下に急使を出してお伺いを立てましょう」  そうこうしている夜、夜警の兵から、  「赤い茫の伸びた星が、諸葛亮の陣営に落ちました」  との報告があった。  夜中にその報告を聞かされた司馬懿は、  「ふうむ……」と考え込み、  「護軍、どう見る?」  と訊いた。秦朗は低い声で答えた。  「天体の異変は人の生き死に直結すると古来からいいます。もしかすると諸葛亮が……」  「死んだ、か……」  司馬懿もその推測に同意したようにうなずいた。  夜明け前に蜀軍は撤退を始めた。  仮眠を取っていた司馬懿と秦朗は飛び起きて、  「すわや、敵軍を追うぞ!」  と魏全軍に命令した。魏の諸将は天体の異変等を知らされていないので、あわてて軍を発進できるよう整えた。  蜀軍は夜中にあわてて撤退を始めたようなので、魏軍との距離はかなり離れている。  司馬懿と護軍の秦朗は、曹叡からの節をもっている辛毗のもとを訪ね、  「蜀軍は撤退を始めました。今から営塁を出ます」  と急を告げた。  「まことか。敵の策ではあるまいな」  衣服を整えながら寝ぼけ眼の辛毗が確認をとってくる。  「諸葛亮は糧食が尽きぬように屯田兵を置いているので、食料は尽きていないと思われます。ということはこの撤退の理由で考えられることは一つです」  秦朗も鎧をつけて歩きながら、辛毗にわかりやすく説明した。  「諸葛亮が、死んだのか」  辛毗も驚いて、司馬懿と秦朗の後を追った。  五丈原の蜀軍の本営は火をかけられた跡はなく、そのままになっていた。  がさがさと行政文書と思われる書類が風に舞い散っており、その一枚を手にした秦朗は、 (ああ、諸葛亮は本当に死んだのだな) との思いを新たにした。 「すまぬが、本営にある文書をすべて集めて私のもとにもってきてくれぬか」 司馬懿も同じことを感じたようで、左右の兵に命じてすべての文書を集めさせた。 集められた文書は山積みになり、それへ丁寧に目を通した司馬懿は、 「まこと諸葛亮は、天下の奇才であった」 と最上級の賛辞を送った。 決して美辞麗句ではなく、的確で細かいところまで指示を明らかにしている行政文書や、整然と兵法に則って造営された陣地は、敵である司馬懿からしても感嘆を禁じえなかったということだ。 辛毗は、 「あわてて撤退したからといって諸葛亮は死んだと断定できないではないか」 と司馬懿に忠告したが、 「諸葛亮の五臓六腑は、軍事機密と同じです。それを棄ててまで退くということは、彼が死んだということに他なりません」 と答えた。そして、 「蜀軍は総帥を失ったぞ。これから追撃して殲滅する」 と大声で諸将に命じた。 なおも疑心暗鬼な辛毗に、護軍の秦朗は、 「これは蜀の策でもなんでもありません。追撃のご許可を」 と辛毗に辞を低くして請願した。辛毗の許可は曹叡の許可と同じである。 「わかりました。ただし、無用の追撃までは容認できませぬぞ」 辛毗はうなずいた。 魏軍は益州に入っても追撃をやめない。蜀の撤退を指揮しているのは、姜維と楊儀である。姜維は諸葛亮に抜擢された若き才能で、軍事にその能力を発揮していた。 じつはこのとき、蜀軍内で紛争が勃発しており、撤退に反対した猛将の魏延が楊儀を倒して軍権を握ろうと、蜀本軍に先回りして桟道を焼き落としたりしていた。 つまり姜維と楊儀は、前と後ろを敵に挟まれていたということだ。 軍を指揮する姜維の判断は凄まじかった。追撃する魏軍を撃退したうえで、魏延を退治しようというのである。 蜀の撤退軍は停止し、兵馬を北すなわち魏軍に向けた。旗も整然とはためいており、諸葛亮の生前となんら変わることない容儀である。 「なんだと……」 蜀軍が思いがけず反撃の姿勢をとったことに司馬懿は驚愕した。 窮鼠猫を噛む状態の蜀軍の鋭鋒は気魄に満ちており、山岳地帯の山道における戦いにおいては元々蜀軍が得意としているところもある。 予想しなかった敵軍の反撃に司馬懿を含め魏軍の将兵は狼狽した。 「諸葛亮は死んだのではなかったのか」 「この戦い方ではあやしいぞ」 魏軍は疑心暗鬼に陥り、蜀軍の猛攻の前についに崩れた。 「兵を退け!」 司馬懿も軍にそう命令する他はなかった。 軍を撤退させ、ふたたび軍議を開いた司馬懿であったが、辛毗が、 「ここは益州の敵領土でもあり、蜀軍が追撃してくる心配はなくなった。 陛下の使者からもやはり無用の追撃は控えるように詔命があったので、ここで退いてもらいたい」 と毅然とした態度で主張した。 (ここで退くのか……) 司馬懿は暗然とした気分となった。諸葛亮が死んだ今敵軍を追撃せず見逃せば、いつ険阻な蜀の地を攻略できるかわからない。 秦朗も悩んでいる司馬懿に、 「私も残念ですが、ここが退きどきかと思います。蜀軍は戦意を喪うどころか意気軒昂であり、意地でも諸葛亮の棺を成都につれて帰ろうと必死に見えます。それに……」 といい、周囲に聞こえない小さな声で、 「大きすぎる功績は身を滅ぼすもとです。 大将軍は充分陛下のご下命を遂行なさいました」 といった。 曹家以外の曹叡、秦朗、司馬懿で清新な王朝を運営する約束は、まだ完全に果たされていない。 「軍師と護軍のおすすめにしたがいます」 司馬懿は断腸の思いではあったが、いくらか晴れやかな声でいった。 魏軍が撤退を始めると、漢中の人々は口々に、 「死せる孔明(諸葛亮)、生ける仲達(司馬懿)を走らす」 と騒ぎ立てた。たしかにこの追撃では魏軍は多少の損害と狼狽をさらしただけだったからである。 それを聞きつけた内偵が司馬懿に伝えると、 司馬懿は護軍の秦朗に皮肉な笑みを向け、  「生きているものならばなんとかできもしようが、死んでいるものならばどうにもしようがありませぬ」  と嘆息した。  (この人はこういう諧謔ができる人なのだ)  秦朗は笑ってうなずいた。  あと、楊儀と争った魏延は一戦もできないまま兵が離散したため、逃亡後楊儀の配下だった馬岱に斬られたという。  魏延も曹叡の予言どおり、諸葛亮死後の蜀王朝には容れられなかった。その最期も張郃に酷似しており、時代が猛将を必要としない局面に移行していることを思わせた。  南征を終えて許昌に帰還した曹叡は、西方で諸葛亮の鋭鋒を防ぎきって凱旋した司馬懿と秦朗を大いに褒賞した。  「よ、よくぞ、いたした。し、蜀はその実質が諸葛亮の国であったから、こ、これから十年は西方が安泰であろう」  諸葛亮の率いた蜀軍は、奇策は弄さないもののその統率は緩みがなく、結束は岩盤のようであった。  司馬懿と秦朗、辛毗から復命を受けた曹叡は上機嫌であった。  「孔明は無念ではあったでしょうが、その生を燃焼し尽くしたと存じます」  と親友の徐庶は曹叡と秦朗、司馬懿の前でしみじみといった。  「私も諸葛亮との戦いで、兵を動かすとはどういうことか、ということを学んだような気がします。敵に強くしてもらった、といえば聞こえは悪いですが」  司馬懿も得意の諧謔で、曹叡たちの場を和やかにした。  「と、ところで、阿蘇」  曹叡は秦朗に向かっていった。  「か、陰に陽に大将軍を助けてくれたそうだな。れ、礼をいわせてくれ」  「おそれいります。守り勝つことは困難ですが、大将軍はそれを成し遂げられました。  私はおそばでそれを拝見していただけで、功は大将軍に捧げられるでしょう」  秦朗は司馬懿に改めて礼をいった。  司馬懿はこの礼は曹叡と秦朗から与えられた名誉だと感じ、大きく頭を下げた。  曹叡の安心は、西方を安んずることができたので南方の孫権のみに軍事の注意を払えばよいということで、今度のような二正面作戦への対応の煩雑さがなくなることが大きかった。  それに従って三公を、  大尉 司馬懿  司徒 董昭  司空 陳羣  と定めたものの、董昭と陳羣は老齢のためまもなく逝去してしまうため、この時点で心身ともに健康なのは五十七歳の司馬懿ただ一人ということになった。  「な、長い戦い戦いだったが、や、やっと一段落というところかな」  曹叡は秦朗に穏やかな笑顔を見せた。  「陛下と大将軍の粘り勝ち、ということでございます。  諸葛亮のように復讐や怨念で兵を動かすことの限界だったともいえましょう。結局は中華を静謐させるために動かしたわが軍を、天はご覧になっていたということです」  ところが、兵事においては叡智をきらめかせ、理性的な曹叡は巨大建築物の造営には並々ならぬ執心を見せるのであった。  首都の洛陽にある洛陽宮はまだ大改修の途中であるので、曹叡と秦朗はまだ許昌にとどまっている。さらに昭陽殿と太極殿の起工、総章観という高楼まで造営しているのだから、多くの出費と動員された農民の耕作時間が失われた。  (人の命を軽く扱うお人ではないとはいえ……)  秦朗は満足そうに造営の地図を広げて説明してみせる曹叡に、一抹の不安を感じるのであった。
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