遼東

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遼東

                八    曹叡が巨大建築物を多く建造するのは、なんのためだろうか。  秦朗はしばしば考えることがある。  (やはり母君の喪失感によるものなのか)  曹叡の母である甄皇后は、かつて袁煕の妻であったが、曹丕に見初められて妻になったと先に述べた。曹叡はそのとき甄皇后が妊娠していた袁煕の子なのである。  「ち、朕の母は何の罪もなく死を賜った」  と秦朗の前だけで曹叡は何度も涙を流したことがある。  母が健在で養っている秦朗が孝行者だとして、羨んだことも二度や三度ではない。  巨大建築物を造営することで、母を亡くした喪失感をうめているとすれば、秦の始皇帝と酷似しているので説明はつく。  そんなとき、御史中丞の徐庶からいやな知らせが秦朗のもとにとどいた。  甄皇后が亡くなって殯葬が行われたときに、「遺体の顔を被髪で覆い、口は糠で塞がれていた」と曹叡に密告した者がいるという。  秦朗はあわてて曹叡のいる宮室に向かった。  果たして曹叡は蒼白の表情をうつむかせて、怒りに身を震わせている。  「は、母上は哀れすぎる……ぶ、文帝の寵愛が冷めたからといって廃されるほど皇后位は軽くはないし、ご、ご遺体を穢してよいものでもない」  「陛下、落ち着かれてください。いったい何者がこのような仕打ちを……」  秦朗に曹叡は泣き腫らした目を向けた。  「密告したものによると、郭太后だという」  「まさか……」  秦朗は絶句した。郭太后は曹丕のもと皇后で、甄皇后が死を賜ったあと、曹叡を傅育してくれた人だからだ。  (そのような悪逆のお人とも思われぬが……)  秦朗は不審に思った。元来曹丕は女性の内面を重視する性向があったようで、美貌では曹叡の母である甄皇后がはるかに勝っていたにもかかわらず、聡明で自身も頭の良い曹丕はその補佐としての賢女たる郭太后を愛するようになったのであろう。  「た、太后には許昌にお移りいただこうと思う」  視線を落としたままつぶやく曹叡に、秦朗はさらに不吉なものを感じた。  洛陽の永安宮にいる郭太后を呼び寄せるというのだ。  「陛下、太后をお呼びして、甄皇后の死の真相をお聞きされるのですか」  秦朗の青ざめた表情に、曹叡はようやく目をあげて、  「あ、阿蘇よ。ち、朕は母上の最期が知りたいだけだ。た、太后を害そうとは思わぬ」  「はい、もちろんでございます……」  「ら、洛陽は宮殿の増築で何かと落ち着かぬであろう。た、太后に許昌でごゆるりと過ごしていただくのだ」  秦朗も皇帝である曹叡にそこまでいわせた以上、その場を引き下がらずにはいられなかった。  郭太后が許昌に到着すると、これまでめったに会いに来ない曹叡が頻繁に機嫌伺いをしにやってくるようになった。  最初は「ご気分はいかがでございますか」等時候の挨拶だけで帰っていた曹叡が、次第におそるべきことをいいはじめるようになった。  「よ、夜に妙な夢を見るのです」  「ほう。それはどのような夢ですか?」  「は、母が髪を振り乱し、口には何か詰められているようで『苦しい、苦しい』とわ、私に訴えるのです」  それを聞いた郭太后は、  「あっ……」  と小さく叫んでその場でよろめいた。  それが曹叡にとっては、母の死の真相を知るものの姿だと映った。  「は、母が亡くなったとき、私は十七に過ぎず母も鄴にいたため、亡くなられたときの状況をしりません。  ど、どうかご存じのことをお教えください」  「し、知りません!むかしのことなど」  「ど、どうか、包み隠さず!」  語気を荒げた曹叡はかつて郭太后が傅育していたころからみたことがなかったので、狼狽する己を抑えることができなかった。  「わ、わかりました。お、思い出すことなどあれば、またお聞かせください」  曹叡はようやく落ち着きを取り戻し、退室していった。  (あれは、女同士の戦いだったのだ)  郭太后は椅子に倒れ込むように腰掛けると、当時のことを思い出していた。  寵愛を失った側室ほどみじめなものはいない。賢明な郭太后がそのことに気づかないはずはなかった。  幸い、王太子時代の曹丕の正室だった甄皇后は鄴におり、洛陽の曹丕と郭太后とは離れて暮らしていた。体調不良によるとされていたが、曹丕との仲が冷え込んでいるため距離をとっているのだと郭太后は知っていた。  郭太后は自分で曹丕に甄皇后の悪評を讒言するほど、愚かではない。  曹丕の近臣で影響力のある者に、侍女から甄皇后の悪事をあることないこと吹き込んでいた。曹丕もたしかな風聞と思えたようで、よりいっそう甄皇后を疎んずるようになった。  洛陽からいっこうに迎えの使者がこないのを憂いた甄皇后は抑鬱状態になり、曹丕にたいする罵詈雑言をわめきちらすようになった。  激怒した曹丕はついに甄皇后を自殺させ、殯葬のとき遺体に先述したような残酷な処置を施した。  勝った!と喜ぶような浅はかなまねを郭太后は取らなかった。  「そこまでなさらずとも……」  と涙を拭う仕草さえした。曹丕も郭太后を正室に選ぶことに安心を覚えたであろう。  (あの子はどこからこんな古いことを……)  あらためて郭太后は曹叡を恐ろしいと感じた。なぜなら翌日から毎日、曹叡は郭太后の部屋を訪れるようになり、  「は、母の最期を思い出してくださいましたか」  としつこく訊くようになったからである。  今度は郭太后の方が吐き気をもよおし、抑鬱状態に陥った。  「しつこいですよ!何も知らないものは、思い出せるはずがないではないか」  それでも曹叡はさぐるような目を向け、  「は、母の最期をお話したときの、た、太后のお顔は尋常なものではありませんでした。  お、おそらく次にお目にかかるときには、な、何か思い出してくださっているでしょう」  このようなやりとりが続くうち、郭太后が錯乱状態に陥るようになった。  いわば、むかし自分が甄皇后を陥れたときと同じ罠に落とされたのである。  「先帝がおまえの母を殺した。それなのにおまえは何も知らない私を殺そうとしている!どうかしているわ」  ついに郭太后は粘着した曹叡の訪問に耐えかねて暴言を吐くようになった。  「……した」  曹叡の消え入りそうな声に、「ひっ」と郭太后はのけぞるようにその場に倒れた。  「……あ、あなたが、わ、私の母を殺した」  曹叡の宣言に郭太后は錯乱状態となり、  「知らない、知らない!」  と手足をじたばたさせた。そこに徐庶が静かに入室してきて、  「例のものを……」  と薬と湯を差しだしてきた。  「う、うむ」  曹叡は承諾を与えると、さっと部屋から出て行った。  「太后さま、お加減がずいぶんお悪うございます。お気持ちを鎮める薬をお飲みください」  徐庶の差し出した薬に郭太后はすべてを察したのか、  「い、いやじゃ!わたしは何も知らぬ!」  と騒いだが誰も近侍は来ず、やがて太后の部屋は静寂に包まれた。  郭太后が遺体になったのち、曹叡が戻ってきた。  「ぎ、御史中丞、い、いらぬ仕事をさせた」  「いえ……」  徐庶は目を下げたまま冷静に答えた。  「お、男の先帝は母にあのようなことはさせぬ。は、母の美貌を憎んだ女しか、あのようなひどい仕打ちはせぬ」  ひどく表情を失った甄皇后に瓜二つの美貌を、冷たくなった郭太后に向けた曹叡は、抑揚なくいいはなった。  「殯葬をするときは、あのように命じておけばよろしいですか?」  徐庶が曹叡に問うた。つまり甄皇后がされたのと同じ状態で殯葬をしていいか、という確認である。  「そ、それでかまわぬ」  曹叡は無表情のままそれを許可した。  郭太后は、遺体の顔を披髪で覆われ、口に糠を詰められた状態にされ葬られた。  郭太后の死を聞きつけて弔問にやってきた秦朗に、  「あ、阿蘇、ち、朕にも己を律せぬときはある。さ、察してくれ」  と曹叡は哀しげに頼んだ。  「もちろんでございます。恩には恩、仇には仇……陛下はそれがおできになると存じておりますゆえ」  「あ、阿蘇と御史中丞のご母堂には、いつまでもお健やかであることを願っておる」  復讐をとげた曹叡は、いつもの曹叡にもどっていた。  殯葬を終え、郭太后の遺体を収めた棺が首陽の西陵にむかって出発するとき、  「慈愛に満ちた太后は、閨房をよく教化され、先帝に尽くされた。思いがけず中年で病に罹られ亡くなったが、私は悲しみでくじけそうになっている。  魂は永遠に逝き、朝夕お仕えしたかったがゆえ、私の悲しみはひとしおである」  といった。  もちろん復讐はこの時点で完結したといってよく、郭太后の一族は生存している者は昇進させ、亡くなった者は追贈させた。  このとき、憂いがないのは三国で魏のみといってよかった。  蜀では諸葛亮が死に、その後継者たちには益州一州を保つことが精一杯どころか、月日が強大な魏との国力差をつけてゆき、やがて枯死するのを待てばよいだけである。  呉の孫権も江水を越えて魏を攻めるのには懲りたであろうし、己の後継者すなわち皇太子が病弱であることから、国が衰退する不安は消えないであろう。  曹叡はその点に安心をし、宮殿や庭園の造営、さらには長年の懸念であった母の復讐を成し遂げたといえる。  ときに魏の青龍五年(二三七)となっていた。          ※  この年の三月に暦が改元され、景初元年とされた。五月には曹叡と秦朗は許昌から洛陽に戻った。  宮殿の大規模増築が一段落したからである。  洛陽宮の新しい宮室で、曹叡は上機嫌であった。  「こ、これまで賊(呉と蜀)は蠢動すらしなかった。わ、わが国の威風が中華に行き届いた結果である」  「仰せのとおりでございます」  秦朗も増築や郭皇后への復讐に不安を覚えていたが、それが済むとふだんの穏やかな曹叡に戻ってくれたのが嬉しかった。  「阿蘇は、相変わらず陛下にご諫言のひとつもせぬ」  「佞臣の鑑よな……」  と群臣から陰口がささやかれていたが、それは秦朗の望むところである。曹叡の罪が自分にすりかえられるのならば、願ったり叶ったりだからだ。  このとき宮中で話題になっていたのは、遼東に割拠している公孫淵のことである。  「そ、孫権はかつて連携を裏切られた公孫淵を憎み、こ、高句麗王に遼東を攻めさせようとしたが、か、彼は孫権の使者を斬って幽州に届けたのだ」  曹叡は苦笑いして、秦朗に書簡を見せた。  遼東は事実上、公孫淵の独立国である。  その支配は彼の父・公孫康、祖父・公孫度から続いており、曹叡は実のない大司馬の位を贈り、楽浪公とし、遼東太守にしたものの、公孫淵が魏の朝廷に朝見したことは一度もない。  「り、遼東をなんとかしたいのだが……」  曹叡は、初めて胸の内を秦朗に明かした。  「同意いたします。呉蜀の動きがない今、後顧の憂いを断つのも王朝のつとめかと」  うなずいた曹叡は、やや無言で考えたあと目を伏せたまま、  「ち、父の亡くなった地、という因縁もある……」  とつぶやいた。  漢の建安十二年(二〇七)年、曹操に敗れて遼東の公孫康のもとに曹叡の実の父である袁煕とその弟の袁尚が逃げ込んでいた。  だが二人は公孫康に騙され、兵に縛られて凍った地面に座らされた。  「蓆をくれ。寒くてかなわぬ」  訴える袁尚に、袁煕は、  「無駄なことよ。我らが首はまさにこれから万里の旅に出ようというのに、何を今さら蓆など要るものか」  とたしなめたという。この逸話は二人の首とともに曹操に送られ、後年曹叡の知るところとなった。  「母君のつぎは、父君のことを思い出されましたか……」  秦朗も、何度か袁煕の達観したような最期を曹叡からきいたことがある。  「は、はは。み、見たこともない父の最期など感傷に過ぎぬのだがな。  し、正直なところ、太后の一件があってから、り、遼東と父のことを想うようになった」  「過去との訣別でございますか」  それでよい、と秦朗は感じた。魏の最東端の独立勢力が不穏な態度をとっているかぎり、天下の静謐にはほど遠い。たとえば西隣の幽州の民など、公孫淵のため不安にさらされているだろう。  公孫淵の兄の公孫晃は魏への人質として洛陽に住まわされているが、粗略に扱われていない。公孫晃は一族の安寧を願って、  「遼東を陛下に討伐していただきたい。さすれば弟は降伏するはずであり、彼に恩赦を与えてくださいますよう」  と何度も上表を行っている。一族の見地からしても公孫淵のふるまいは不遜であるということだ。それを、心にとめていた曹叡でもある。  その折り、幽州刺史の毌丘倹からも上表があった。  「陛下ご即位以来、いまだ歴史に残る大業をおたてになっておらず、呉と蜀は天然の険阻に拠って活動していませんから、それにあてている兵で遼東を平定なさるべきです」  毌丘倹は曹叡の寵臣といっていいので、曹叡は遼東征伐を真剣に考えはじめた。  「ゆ、幽州の毌丘倹まで好機と上疏しているが、り、遼東は厳寒の地でもあり、時期を選びたい。  ぶ、武帝が父と袁尚を追ったときでさえ、遼西の険道で難儀したという」  秦朗にこういった曹叡であるが、迷いも見てとれる。  「そうでございますね。毌丘倹は自信があるようですが、一部隊で三代にわたって盤石の基盤を築いている公孫淵を一朝一夕に討てるか悩ましいところでもあります」  秦朗はつねに曹叡の側に仕え、忖度をおこなってきた佞臣を自称しているだけあって、曹叡が遼東征伐を行いたい旨心中を固めていることは承知している。  (毌丘倹では無理だろう)  とは思うものの、曹叡が意志を変えない性格であることは知るところである。  「か、毌丘倹にやらせてみるか」  曹叡は増築や母の復讐を終えたことで、やや気が大きくなっている。  ついに七月、幽州刺史の毌丘倹に玉璽が押印された璽書を下した。  「公孫淵を朝廷に召す」  という内容で、公孫淵はこれに従うはずはないので、その場合は毌丘倹に武力をもって従わせよ、という内意である。  さらに毌丘倹には度遼将軍と使持節、護烏丸校尉の官位を加えられ、幽州各郡の軍勢を統率できるようにした。  (見よ、陛下は遼東を征伐した暁には、北方の軍事を専断できる特権をお与えくださるであろう)  毌丘倹はおおいに発奮した。肩に力が入りすぎていた、といってもよい。  「出発ぞ!」  毌丘倹が率いている兵は公孫淵に「朝廷に来て謁見せよ」という命令を奉じる軍であるが、公孫淵がそれに応じる気配がない以上、交戦してでも従わせるための暴力装置でもある。幽州の各郡を朝廷の命を喧伝しつつ、無事通過した毌丘倹は遼東との国境に到着した。  曹叡の使者が、遼東の首都である襄平に遣わされ、公孫淵に璽書を渡した。  「……われは従わぬ」  公孫淵はことさら尊大な態度をとって使者を睨めつけた。  「われら三代王朝の臣下であったことはない。すなわち、われが遼東の王だからである。  なぜ、魏の洛陽で膝を屈せねばならぬのか」  すさまじい形相で使者を恫喝した公孫淵は、璽書を破り捨て、毌丘倹のもとへ曹叡の使者を追い返した。  魏に降伏して地位を保証してもらうより、祖父と父が征服したこの遼東という土地を手放したくない、ということである。  毌丘倹は使者のことばを聞くと、  「それでよい。兵を進める大義名分ができた」  とかえって武者震いした。  軍旅を発した魏軍を奇襲すべく、公孫淵は軍を使者の後を追わせた。もちろん毌丘倹はそのような戦術は想定内である。  「敵はすぐそこぞ!迎え撃つ」  毌丘倹が兵をとどめた遼東国境には遼水という川があり、魏軍はそれを背にして戦わねばならない。いわば漢の韓信が敷いた「背水の陣」の状況である。  「わが軍が遼東の田舎兵に負けるものか。  弩を連ねよ」  使者を猛追してきた遼東の騎兵が土煙をあげて突進してくるのを見計らって、  「よし、撃て」  と毌丘倹は一斉に弩を放たせた。弩は弓よりも射程距離が長く勢いがあるため、遼東軍の先鋒の騎兵はばたばたと倒れた。  ここが戦機と見た毌丘倹は、遼東軍の崩れた前線に騎兵と歩兵を突入させた。白兵戦である。  劣勢の公孫淵は自ら采を振るい、負けじと軍を前進させる。  ここで敗れたら魏軍の追撃を受け、首都の襄平まで退却せざるをえない。まさに緒戦にして戦の切所である。  公孫淵の粘りの戦いがはじまった。対して魏軍は遠征したところを奇襲されている事実があり、疲れが目立ってくる。  遼東軍の兵力は正史に記載がないので不明であるが、孫権軍一万に勝った記述から類推するに二万未満あたりと思われる。  数では五万近くある魏軍より少ないが、公孫淵の意地と気魄はすさまじかった。  秦朗が「一部隊で一朝一夕に敵を掃討できるとは考えにくい」と曹叡に懸念を表明したことが現実となった。  日没になり両軍は兵を退いた。  「公孫淵がここまでやるとは……」  悔しさに唇を噛んだ毌丘倹は、兵を船に乗せ、渡河させた。魏軍に余剰兵力がないとなれば、疲れ果てた今の兵で明朝も背水の陣では戦えない。幸いなことに遼東軍は疲れで夜間眠っていたらしく、無事遼水対岸への渡河は成功した。  (持久戦に持ち込むか)  毌丘倹は当初の戦略を変更した。遼東軍は対外戦争を領土内で行ったことがないはずであり、籠城戦等多角的な戦術は魏軍の方が有利であるとふんだのだ。  夜が明けて、遼水の対岸まで西進した遼東軍は、  「魏軍は数に頼んで攻めてきたが、腰抜けぞろいよ」  と大声で兵に挑発させた。  「公孫淵、川を渡ってこい」  渡河中を攻撃して敵を寸断することを考えた毌丘倹だが、もちろん遼東軍は対岸から動かない。  そのうち雨が降り始め、その雨はなんと十日も降り続いた。  遼水の水嵩は上昇し、毌丘倹と公孫淵の対陣に危険をきたすようになった。  「か、毌丘倹には期待していたのだが……」  曹叡は戦地からの知らせに、ため息をついた。  「雨に祟られますと、かつての于禁将軍や壮候(曹真)のような事態になりかねません。  ここは撤退を命じるのが無難かと」  曹真が蜀を攻めたとき雨がやまず、そのときの天候に体調を崩した曹真は病に斃れたことはすでに書いた。  于禁はかつて関羽を迎撃するとき大雨にみまわれ、船を用意していなかったがゆえに関羽の捕虜となった。関羽死後は呉の客将になっていたが、魏に帰還後、先帝曹丕に陰険にいじめぬかれて悶死した。  毌丘倹にはそのような末路をたどってほしくない、と曹叡は秦朗に同意した。  「陣を後退させよ」  と曹叡から詔勅を受けた毌丘倹は、慚愧にまみれた。  (北方将軍のもくろみは崩れたか)  遼西郡を通って右北平郡に軍をとどめた毌丘倹であったが、少なくとも公孫淵に軍事で負けなかっただけでなく、多くの収穫はあった。  たとえばかつて遼東に帰属していた異民族が多く魏軍に降伏し保護をもとめてきた。  また袁煕と袁尚について遼東に逃げてきた従者たちも数千人、魏軍に従った。  公孫淵からすれば、彼らが、  「遠くないうちに遼東は魏に滅ぼされるであろうから、その前に降伏して身の安全を確保しよう」  という声を聞いたようなものである。  しかもついに毌丘倹を遼東本土まで侵攻させたということは、曹叡の遼東平定の意図は明確であり、つぎに攻めてくるときは今回より軍を増員して、毌丘倹より優秀な指揮官が攻めてくるということだ。  軍備をこれ以上増大できない公孫淵は、性懲りもなくというか、呉に援助を求めることにした。鮮卑族や高句麗にも協力をもとめたが、鮮卑は従ったものの、高句麗は魏を恐れて協力を拒んだ。  性懲りもなくと書いたが、先年公孫淵は遼東と協力しようとした呉の使者と多くの将兵を斬殺して孫権の怒りを買っているのである。  「こ、公孫淵は孫権に泣きついたのか」  秦朗から内偵の報せを聞いた曹叡は、愕然とした。  「それほどまでに公孫淵は窮した、と解釈するのが妥当でしょうね」  「し、使者は斬られなかったのか?」  「それが、孫権は公孫淵を助けると約定したようです。  公孫淵が魏に敗れるならば、それでよし。  毌丘倹のように長期戦となれば、遼東の戦場以外の土地から財産や人民を奪い帰国する意図のようです」  曹叡はあきれた表情で、  「孫権の薄汚さは、公孫淵のともがらだな」  とはきすてるようにいった。  公孫淵は、ついに退路を断った。  すなわち魏に臣従するかたちを棄て、  「燕王」  と自称したのである。文武百官を置き、独自の暦をつくり、王朝の体裁を整えた。  年号は「紹漢」とした。紹とは「継ぐ」という意味をあらわすので、漢王朝を継承するということである。  漢を継ぐ王朝といえば、正式に禅譲を受けた魏に他ならないが、魏に敵対している蜀も漢を名乗っている。  「諸葛亮も、あの世で公孫淵をみて苦笑しているでしょう」  秦朗が皮肉をいうと、  「て、天地人が認めず自称した帝王が自滅しなかった過去はない。え、袁術や劉備のように公孫淵も遠からず滅びるであろう」  袁術が皇帝を自称して滅びたのは周知の事実だが、劉備はどうであろう。  曹叡は秦朗の父になるはずであった関羽を見殺しにし、果ては呉への報復戦に失敗して病に斃れた劉備を独自の表現で批判したのだろう。  曹叡は、冬のうちに青州、兗州、冀州、幽州で遼東に兵を送れる大船を造船させた。  「と、討伐軍の総帥は、や、やはり大尉(司馬懿)しかおらぬだろうな」  「二度の失敗は許されないことを鑑みますと、遼東を確実に平定できるのは大尉以外にはおられますまい」  曹叡と秦朗の意見は一致した。          ※  景初元年の年末には遼東平定のめどが立ったのに機嫌をよくしたのか、曹叡は大造園の工事に着手した。  御園の芳林園に土を盛った山を築きたくなったといい、公卿や官僚にも土を運ばせた。  「私も土を運びます」  笑顔で秦朗も衣服を泥だらけにして土を運んだ。  「は、はは。ち、朕も運ぼうぞ」  二人して土に汚れながら愉しげに造園工事に従事している様子を、御史中丞の徐庶はみずからも車で土砂を運びながら、  (子どもの頃、泥遊びができなかった憧憬が二人を駆り立てているのだろう)  と苦笑した。  「ま、松や竹など選りすぐった木と、草を植えて、つ、築山をつくるのだ」  曹叡は汗をぬぐって、秦朗と徐庶にいった。  「……亡きお父上に思いをはせておられますか」  秦朗も泥にまみれた裾を払いながら、曹叡に訊いた。この場合の父とは遼東で悲運の死を遂げた実父の袁煕のことである。  「そ、そう……実父には何も孝行ができなかった。この築山を父に捧げたい。  じ、実父は武帝(曹操)を憎んだかもしれぬので、朝廷の公卿や朕たちで汗をかいた。  ね、願わくば亡くなった遼東の地に、わからぬように実父の碑を建てて祀りたい」  秦朗と徐庶は顔を見合わせて、うなずいた。  (陛下は、どこまでも親孝行よな……)  二人の感動が通じたかのように、築山の工事は終わった。  絶景である。自身の願いがこもった築山を眺めた曹叡は、  「こ、ここに美しい禽獣を放し飼いにしたい」  といいだした。司徒軍議掾の董尋は、  「天子のなさることではありません。公卿文官のみならず、陛下ご自身までこのような児戯に等しい重労働に従事されるのは、国の威光を穢すことになります」  と命を省みない諫言をおこなった。  これに対しては曹叡の傍らに侍する秦朗が、  「陛下は呉と蜀をしりぞけ、いまや遼東を併合なされんが現状を嘉し、そのしるしを百官とわかちあおうとされているのです。  司徒軍議掾の上表はもっともな部分もあるが、陛下の天下静謐を願うお気持ちをご理解いただきたい」  と毅然とした態度で退けた。  「なんという……」  「阿蘇(秦朗)は、まさに虎の威を借る狐よ」  「董尋はお咎めなしだと」  「陛下をないがしろにする阿蘇こそ、国威を陰らす佞臣よ」  諫言に怒り、必ずしもそれに従わない曹叡ではあるが、その者を誅殺したことはいちどもない。  董尋もその後、貝丘県の県令となり不正がなく、余計な規則を撤廃する行政をまっとうし、名県令とよばれることになるのである。          ※  景初二年(二三八)の正月となった。  ついに曹叡は大尉の司馬懿に遼東討伐を命じた。  司馬懿に付けた将軍は、かつて曹仁の副将として勇猛を知られた牛金と、文武両道を体現したかのような胡遵らで、その兵数は四万である。 さらに幽州に到着すれば、毌丘倹とその数万の兵が加わる。 出発にあたって、曹叡は司馬懿に質問した。 「こ、公孫淵はどのような策略をもって大尉を迎撃するだろうか」 司馬懿は迷いなく答えた。 「最上の策としては、城を棄てて逃げる……これに尽きるでしょう」 これをきいた曹叡と秦朗、徐庶は司馬懿の自信を垣間見たようでおおいにうなずいた。 「敵兵力は騎兵と歩兵のみです。平地戦となるうえ、公孫淵が遼東のありったけの兵を集めたとしても我が方の五万を上回ることはございますまい。 かつて十万の諸葛亮軍と戦った私としますれば、困難な敵ではございません」 そういって、対蜀戦で苦難をともにした秦朗を見た。秦朗も目で笑った。 「次善の策としては、遼水をつかってわが軍を防御することですが……」 これは、毌丘倹が大河である遼水の対岸に営塁を築かれて攻め手を欠いたことと、武功水の対岸にある五丈原に本陣を構えた諸葛亮に苦戦した経験だろう。 「最悪の策は籠城です。首都の襄平に籠り我が軍をしのぎきろうとすれば、おのずと公孫淵は緊縛されるでしょう」 曹叡は司馬懿の予想を満足そうに聞き、 「で、では、こ、公孫淵は三つのどの策をとるであろうか」 と訊いた。 「公孫淵が賢ければ、味方と敵の力量を識ることができ、城を棄てて兵力を分散し各地で遠征軍の我が方を疲弊させる策を採れるで しょうが、あいにく公孫淵にその力量はございますまい。公孫淵は、最悪の策……必ず籠城します」 司馬懿の回答は明白であった。かつて公孫淵は将来味方になってくれるかもしれない孫権を騙して財宝を奪ったので、目先の利益にのみ聡く、なにかを棄てることでさらに大きな利益を得るという発想はない。 「度遼将軍(毌丘倹)が雨にたたられ、遼水に阻まれた、という悪例はあります」 秦朗が司馬懿に念を押すようにいうと、 「その点です。もし公孫淵が次善の策、遼水の東岸まで軍を進めて我が軍の渡河を阻むとやっかいです。 我が軍は万里の彼方から遠征して遼東に征くわけですから、持久戦は避けたいところです。到着次第すみやかに遼水を渡り、公孫淵を城に追い詰めます」 と自信をみせた。曹叡はうなずき、 「り、遼東征伐……往還に幾日かかりそうか」 と問うと、司馬懿は姿勢を正し、 「征くのに百日、攻撃に百日、還るのに百日……願わくば休日の六十日をいただき、一年あれば十分でしょう」 と答えた。 「よ、善し」 曹叡は、司馬懿の戦略予想に満足した。祖父曹操の代からまさに目の上の瘤だった遼東が一年で平定されるとなると、心も軽い。 魏軍は洛陽の西明門から出発し、曹叡と秦朗、徐庶らも司馬懿を見送った。 司馬懿はこの年六十歳であるが、気力体力ともに充実し、 (このたびは、空前の大功を樹てることができる) と万感の思いがあったのであろう、故郷の温県に立ち寄った。温県は河内郡にあり、曹叡に見送ってもらった洛陽から近い。 なぜ公孫淵を滅ぼし、凱旋後に立ち寄らな かったかは、のちに司馬懿が運命を感じることとなるのである。 司馬懿は宴会に温県の役人や父老を招き、謹直な彼としてはめずらしく歌まで披露した。 「あそこまで愉しげな父上は初めて見た」 長男の司馬師があきれたようにいうと、 「父上もただの人です。陛下や驍騎将軍(秦朗)、御史中丞(徐庶)ら心のおけない同志に篤く信頼され、軍の最高司令官である大尉として逆賊を平定するのです。 司馬氏一代の誉れととらえていらっしゃるのでしょう」 と次男の司馬昭はいった。 翌日、気を引き締め直した顔の司馬懿は、温県を出発。河内郡を過ぎて北上し、冀州に入った。冀州を過ぎれば毌丘倹の待つ幽州であり、遼東とは国境がある。 一方公孫淵が住む遼東の宮殿では、怪異が次々と起こっていた。 犬が赤い頭巾をかぶり、宮殿の屋根に登っていた。 公孫淵の家族が不気味に思っていると、食事の際炊飯の釜の中で小さい子どもが蒸されて死んでいた。 最後の怪異は公孫淵の宮殿の外、首都の襄平の北で生肉が売られていたのだが、その肉は長さと太さが数尺もあり、頭と目と口がついている。しかし手足がないためその不気味さに人々は顔をしかめた。 人々は不安に思い、よく観る占い師に鑑定を依頼したところ、その占い師はその肉を観察して、 「形はあるのに生き物として完成していない……体はあるにはあるが声が出せないので、これは今の遼東の姿を擬したものであろう。 この国は近々滅びるのではないか」 といった。 ついに司馬懿の征伐軍は遼西郡に入った。 待っていた毌丘倹を伴って道案内とし、海沿いを東北に進み、昌黎郡すなわち遼東との国境に到着した。 公孫淵は不吉な怪異を報告されていることに加え、蜀の諸葛亮にも負けなかったという司馬懿が将帥であることに、胸騒ぎをおぼえた。 さらに悪いことには、朝鮮半島の高句麗は海路で魏軍に援軍を派遣したという。 公孫淵が頼れるのは北方の鮮卑族とはるか西南の呉しかいない。敵は大軍のようだが鮮卑と呉の援軍がいないよりましと考えた公孫淵は、急使をそれぞれの首都に出発させた。 そして魏軍に対する備えとして遼水の東岸に大きく長い営塁を築かせた。 「公孫淵もさほど愚かではないようだ。遼水をたやすく渡河できないよう対岸に巨大な営塁を築いているではないか」 六月に毌丘倹、牛金、胡遵を従えて遼水西岸に達した司馬懿は、堅固な営塁を遙かに望み観た。ここまで達するのに司馬懿は約百日を要している。曹叡に予言した行程が順調であったことを示していた。 「下流から渡河はできないかな」 司馬懿が内偵に探らせたところ、川幅は狭くなっていて船をつけにくいものの、渡れる場所はあるとの報告が上がった。 遼東軍の数は約四万、毌丘倹によると将軍の卑衍と楊祚であり、公孫淵自身は後方の襄平城にとどまっているようだという。 「われらも見くびられたものだな」 と司馬懿は諸将を見回して軽口をたたいた後、 「公孫淵は遼東地域最大の天然の要害である遼水を他人に任せ、自らは城に籠もっているという。この戦、勝ったな」 と毅然といいはなった。 魏軍は正面の巨大営塁にあわてもせず、胡遵が二万の大軍を率いて遼水下流を難なく渡河した。 逆に慌てたのは遼東軍の方である。魏軍が正面の営塁で停滞してくれることを期待していたのを裏切られた卑衍と楊祚は、顔面蒼白となった。卑衍は下流の魏軍を迎え撃つので、楊祚は営塁を防備するよういい残して、同じく二万の兵を率いて営塁を出た。 しかし、これは司馬懿の罠である。 遼東軍が築いた営塁の対岸にはさかんに旗を立てて対峙しているように見せかけ、主力の司馬懿は遼水の上流に向かい渡河できる場所から対岸に上陸していたのである。 魏軍の驚くべき速さに震撼した営塁の留守役の楊祚は、混乱して卑衍に早馬を飛ばした。 しかし正面の敵と交戦中の卑衍は、すぐ引き上げられたものではない。 卑衍の指揮に乱れが生じた。後方を襲われている不安で兵はまたたく間に浮き足立った。 なにしろ対戦しているのは魏の名将として名高い胡遵である。 胡遵は司馬懿の兵が上流から渡河することを知らされているので、まったく動じるところがない。したたかに卑衍の兵に襲われても兵の士気は軒昂である。 一方の卑衍は胡遵の兵が上流の司馬懿の主力を引きつける陽動隊と知ったので、気が気ではない。自身が司馬懿におびきだされたのだ。 そうなると営塁に孤立した楊祚を救出せねば、との考えに頭を支配された卑衍は、あわてて撤退をはじめた。 「それ、敵はわが軍の策に気づいたぞ。追え、追え」 胡遵の戦闘指揮に迷いはない。乱れつつ営塁に退いてゆく卑衍の軍を急追した。 そのころすでに司馬懿と牛金、毌丘倹の主力は遼水を渡河し終え、即席の営塁を築いていた。懸念していた敵が遼水に拠って防戦する策はすでに破綻しており、いわば司馬懿は遼東軍がかつて毌丘倹相手に成功した体験を逆手に取ったといえるであろう。 公孫淵が驕らず前線に出ていれば、自軍の営塁を避けて渡河する司馬懿と胡遵を、卑衍と楊祚に迎撃させることができたはずであり、あきらかに失策であった。 やがて胡遵が営塁に向かって逃げる卑衍を追撃している報せが届くと、 「よし、敵の巨大営塁を胡遵と南北から挟撃するぞ」 と高らかに命を下した。司馬懿ら主力と胡遵は南北から、遼東軍の巨大営塁に猛攻を仕掛けた。一日で塹に穴が開き、見る間に塹の水は流れ出た。 「営塁への攻撃はここまでだ。襄平にいる公孫淵の城にむかうぞ」 「せっかく敵を目前に包囲し、自軍の営塁を築きましたのに、これを殲滅しないとは……」 意外な戦術に毌丘倹は驚き、司馬懿に意図を尋ねた。司馬懿は笑って、 「敵は遠征してきたわが軍を営塁に取り付かせて、疲労を誘っている。 しかし裏を返せば敵主力が営塁にいるということは、襄平は空同然ということではないかな。 ここで敵に背を向けて公孫淵を攻める姿勢を取れば、必ず営塁に籠もった主力は救援のために出てくる。 そうすれば、われらは反転してこれを撃破することができるであろう」 と理路整然と説いた。 (なるほど。これがわれと司馬懿の差か……) 毌丘倹は司馬懿の策をきき素直に感心した。 魏軍が遼東軍の巨大営塁への攻撃を一日でやめ、東南にむかったのを観て、卑衍と楊祚は混乱した。だが、地元の将軍である彼らは、いったん東南に向かい、東北へ進路をとる道が首都・襄平への進路だということを知っている。 何度内偵を送っても魏軍が引き返すようすがないのをみて、卑衍と楊祚は魏軍が主戦場となるはずだった巨大営塁を放置して、公孫淵のいる襄平の城を急襲する公算であることを確信した。 ついに楊祚が営塁を出て、魏軍を追跡した。 「やっと出てきたか」 司馬懿は会心の表情をみせ、 「営塁の攻撃を放置したのは、我が軍を追って出てくる営塁内の敵を各個撃破するためぞ。一気呵成に反転攻勢だ」 と兵の進む向きを一斉に変えた。 魏軍が得意とする野戦で、毌丘倹を中軍に両翼を牛金と胡遵が担う鶴翼の陣である。 数で圧倒する魏軍を率いる三将は猛将であるから、包囲された楊祚の軍はさんざんに叩かれて大敗した。 敗報に接した卑衍は、巨大営塁を放棄し、魏軍を避けつつ間道から公孫淵のいる襄平の城に還った。 すでに敗退し少なくなった軍をまとめた楊祚は公孫淵に罵声を浴びていることだろう。 大勝した魏軍は首都・襄平の西南にある首山という山を通っていた。 「ここで城を棄てて逃げれば、公孫淵も生きる道はないではないが……」 司馬懿は諸将を見渡していった。胡遵は、 「公孫淵は危機が我が身に及ばなければ、現実を直視できぬ人物と思えます。城外で一戦あるのではないでしょうか」 と皮肉で返した。 胡遵の予想通り、楊祚と同様公孫淵の怒号を浴びた卑衍が大軍を率いて迎撃に出てきた。 生きて襄平の城に還るな、と公孫淵に命じられた卑衍はもはや無我の境地である。 城内に残してきた家族や一族は、卑衍が負けて帰還すれば誅殺されるため、死兵と化して魏軍に襲いかかってきた。 ふたたび中央に毌丘倹、両翼に牛金と胡遵を据えた陣でぶつかった魏軍だったが、思わぬ苦戦を強いられた。 「敵も窮した鼠よ。ここがこの征伐の切所と心得よ」 司馬懿の檄が飛んだ。毌丘倹、牛金、胡遵の三将もそれは肌で感じている。 卑衍の率いる遼東軍主力は、激しい勢いで魏軍にぶつかり続けている。魏軍はその勢いを削ぐべく弩を連ね、矢の雨を降らせた。 (諸葛亮の軍に比べれば……) 司馬懿としては、猪突猛進しか策のない遼東軍を冷静にみた。あの諸葛亮との命を削り合う闘いを経験した彼からすれば、遼東の兵には創意工夫も感じられず、 (このまま戦えば勝つ) との確信をもっている。卑衍自ら率いる強兵を突出させ、あえて中央の毌丘倹を下げ、両翼の牛金と胡遵に挟撃させればよい。 しかし側面攻撃を考慮していたのは卑衍も同じであり、別働隊を牛金の兵に当てようとしたとき、挟撃に転じた牛金との遭遇戦になった。 ふたたび激戦である。 遼東の別働隊は疲れていないが、卑衍直々の指揮ではないうえ、敵は曹仁麾下で勇猛をもってしられた牛金である。 「あわてるな。敵の数は多くないぞ」 陣頭に立つ牛金の励声で兵たちの心理は敵を俯瞰できる余裕をもった。激しい白兵戦の末、牛金は卑衍の別働隊をついに殲滅した。 その勢いのまま牛金は突出して伸びきっている卑衍の中軍の背後に回り込もうとする。 退路が断たれた卑衍の中軍は、もはや生きて襄平に還ろうとする兵はいない。 このまま突撃を敢行して、毌丘倹の中軍を強行突破しようとがむしゃらに戦った。さしもの毌丘倹もその勢いにのまれ、後退を余儀なくされる。 「敵の勢いは必ず止まるぞ。弩を連ねて毌丘倹を助けよ」 司馬懿の励声がふたたびこだまする。矢の雨が天地を昏くしたとき、卑衍の中軍の兵は矢に斃れはじめ、牛金と胡遵の両翼が包囲を完了させた。 「卑衍よ、なんじはよく戦った。降れ」 毌丘倹が陣頭で大声をもって投降をよびかけた。 「天下に名を知らしめたことで、われは死を恥じぬ。ただ気持ちはかたじけなくおもうぞ」 怒号や鎧がぶつかる音に混じって卑衍は決死の覚悟を伝えた。 司馬懿の後軍、牛金と胡遵の両翼軍からの総攻撃を受けて遼東軍は壊滅。卑衍の首が毌丘倹によって魏の陣営にもたらされた。 「暗君に仕えたことの悲しさよな……」 司馬懿は卑衍を手厚く葬ることを命じた。 魏軍は苦しみつつ連戦連勝し、ついに襄平の城下に至った。 公孫淵はなすすべを知らず、来るはずのない鮮卑と呉の援軍を待った。むろんそれらは到着するはずもなく、たちまち城は魏軍によって蟻の這い出る隙もない強度で包囲された。 「これで公孫淵は手も足も出ますまいな」 牛金、胡遵ら諸将にもようやく安堵の表情がこぼれた。 「しかし、この雨……長雨になると厄介でござるぞ」 毌丘倹が表情を曇らせて、忠告した。おりしも魏軍が襄平城を包囲したときから、雨が降りはじめている。 毌丘倹は第一次遼東征伐で、結局長雨に阻まれて身動きがとれなくなった経験がある。 雨は降り続いた。 本営が水浸しになり、濁流に変じた。 (天がわれをためしているのか) かつて魏は関羽に大雨で敗れ、曹真が蜀を攻めたときも同じく大雨で撤退を余儀なくして病に罹患した曹真を喪っている。 床上まで雨は流れ込み、司馬懿はじめ諸将は履を脱ぎ、裾をまくしあげて本営で会議した。 「本営をお移しになった方がよろしいのでは……」 毌丘倹と牛金、胡遵ら将軍も司馬懿に進言した。高齢といえる総帥の司馬懿の足から濁流の細菌が入ると病に罹患し、最悪の場合撤退という事態もありうる。 「心配は無用ぞ。堅固な包囲も本営を下げると崩れ、公孫淵を安心させることとなる。断じて動かぬぞ」 「しかし……」 司馬懿は気遣う声を振り払うように、 「だめだ。本営を移せと進言するものは、斬る」 と宣言した。 都督令史の張静は不満で、勝手に自らの営所を移動させたため、司馬懿に斬られた。 司馬懿は謹厳な家に育っただけあって、我慢強く法令を遵守する気概は誰にも負けない。 かつて諸葛亮を「天下の奇才」と絶賛したのも、諸葛亮の中に法令に謹厳な自分を視た思いがしたのであろう。         ※ 「た、太傅の軍が雨にさらされておるのか」 洛陽の曹叡のもとにも、遠征軍の苦境が報告されている。 「度遼将軍(毌丘倹)が兵を退いたときと、似たような天候のようですね」 秦朗も表情を曇らせた。 「ぎ、御史中丞(徐庶)はどうおもう」 曹叡に意見を求められた徐庶は、 「かつて元候(曹真)が蜀を攻めたときにも似ています。太傅は過去の天災による失敗の轍を二度と踏まないように軍規を引き締めておられるのでしょう」 といった。 魏の朝廷でも、やはり長雨を過去の敗戦と記憶している朝臣もおり、 「太傅の遠征軍を呼び戻す方がよかろうと存じます」 と進言したが、曹叡の司馬懿に対する信頼は絶大である。 「た、太傅は危機に臨んで、変を制することができる将だ。か、彼が公孫淵を緊縛するまで月ではなく、日をもってかぞえるであろう」 と、諫言を受け付けなかった。 そういったところで、曹叡はめずらしく疲れをおぼえた。あわてて秦朗が手をとって宮室へ供をした。 曹叡は、微熱を発しているようであった。 「いけませんね。遼東平定が目前にせまっているところで不摂生をなされては」 秦朗が曹叡を牀に寝かせて気遣いをみせると、曹叡は微笑して、 「そ、そうだな。た、大尉の凱旋を健康な身で迎えねば。か、彼の方が過酷な戦場に身をおいておるのに、見習わなければな」 と素直に眠りについた。         ※ 遼東の襄平城を包囲する司馬懿は、さらなる長雨にさらされていた。 降りはじめて一ヶ月になろうというのに、雨はやまない。 魏軍が攻撃できないこともあって、城内の兵は完全に気が緩んでいる。 毌丘倹は自ら包囲陣の四隅に建てている望楼に登り、城内を観察してみると、遼東兵たちは牛に秣を与えていたり、薪を割り整えている。 いらだちをおぼえた毌丘倹は、水没した本営にざぶざぶと入っていき、 「敵は我が軍が攻撃しないと高をくくって、油断しきっています。四方から猛攻をしかけてみてはいかがでしょう」 と司馬懿に進言した。 「今はならぬ。我が軍の守備の陣形が完成しているので、敵は動けぬのだ。水さえ退けば敵はおのずとくずれる」 さらに、 「今包囲を乱して公孫淵を逃がしてしまうのが、最悪の事態だ。 敵は長雨と我が軍が動けないのに心を緩ませ、動かない。ゆえに我が軍は打つ手がないふりをして敵を油断させるのだ。目先の勝利で敵を取り逃がしてしまえば、百年の悔恨となろう」 と諭した。毌丘倹と牛金、胡遵らも、 (そこまで見通しておられるならば) といらだちをおさえた。 そして、司馬懿の意志が天に通じたがごとく、一ヶ月以上降り続いた雨がついにやんだ。 司馬懿は水が退くのを待ち、城の包囲陣をさらに厳しく統制したうえで、 「できるだけ多くの土の山を築け。その上に城内へ弩を射かけられるように櫓を建てるのだ」 と下知した。 「それでこそよ」 毌丘倹と牛金、胡遵は奮起した。数日も経たないうちに土の山と櫓が包囲陣に数多く建てられ、弩をその櫓の上から城内に撃ち込みはじめた。 「夜も休むな!敵に眠らせる暇を与えてはならぬ」 いちど火がついた魏軍の猛攻は、まさに襄平城を囲む焔である。 矢の雨に居すくまされた城兵に追い打ちをかけるように、待機している兵に地下道を掘らせ、橦という攻城兵器を門や城壁にぶつけた。 公孫淵はついに進退窮まった。城内に残された兵糧もけっして多くはない。 というのは襄平城には数十万の住民がおり、莫大な食料を消費している。彼らが公孫淵の軍を助けたならば魏軍にとって脅威であるが、住民にとって魏軍の猛攻は恐怖そのもので、家に閉じこもってしまい、兵糧が尽きたのちは人が人を喰いあう生き地獄となった。 「楊祚が降伏してきました」 毌丘倹から報告を受けた司馬懿は、 (ついにこのときがきたか) と安堵をおぼえる自分を俯瞰していた。 「公孫淵の暴虐に耐えられるものはおりません。飢えた兵はおろか、住民をも見殺しにしています。 今それがしの守っていた東門から攻め入れば、彼を捕らえることができましょう」 懇ろに遇された楊祚は、毌丘倹とともに司馬懿に訴えた。 その夜、数十丈の長さをした大流星群が首山の東北から襄平城の東南に尾を引きながら墜ちた。 「そういえば、五丈原で諸葛亮が死んだときも……」 司馬師が胸騒ぎを抑える声でいった。 「流星が墜ちた場所も、楊祚が降伏した門の方向です」 司馬昭は兄の説明の補足をした。 「うむ……こんどは公孫淵が死ぬときであろう」 天が人の死を告げるとされている星が墜ちる天体異常に、司馬懿は遼東平定を確信した。
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