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百年戦争
1337年に勃発した “百年戦争” は英仏間で繰り広げられた長い戦争、と捉えられがちですが、その当時はまだ “国家” という概念がない時代でした。そもそも、ブリテン島(イングランド)の人々が始めた戦争ですらありませんでした。国家を国境と考えてもいいかもしれません。
遡ること1066年、ノルマン・コンクエスト(ノルマンのイングランド征服)により、ノルマンディー公・ギヨーム2世(後のイングランド王ウィリアム1世)が、イングランドを征服して王となり、ノルマン朝を創始しました。
そのノルマンディー公家の発祥地は、フランスの北西部に位置するロワール地方です。ノルウェーをルーツに持つバイキングの一派が、フランス王から領地をもらい家臣になったものでした。ノルマンディ公は、あくまでフランスのノルマンディ公爵領の公爵であり、フランス国王の “臣下” だったのです。
「ノルマン・コンクエスト」
当然のように、ノルマンディー公ウィリアムや家臣達は、フランス王とほぼ変わらぬ(ノルマン訛りのフランス語)を話していました。
王位をめぐるフランス国内の混乱に乗じたそのイングランドが、フランス王国の王位継承権に介入しようとしたことが発端になりました。家臣であったはずのイングランドが、なぜフランスの王位継承権に手を出そうとしたのでしょうか。
答えは、血縁関係です。縁組みを利用しながら、フランスの全土の半分近くを治める封建領主となったイングランド王国は、フランス王家とも縁組みをしました。そんな中、フランス王家の男系が途絶えそうになったときを見計らうように、血縁を盾に王位の継承権を要求したのです。
乱暴な言い方をすれば、領土拡張を続けるイングランドに、庇を貸したフランスが母屋を取られる状態に陥ったのです。
このような関係性の中で、1453年までのおよそ1世紀の間、イングランド王家とフランス王家の対立を軸に、ヨーロッパ諸侯で展開された抗争状態を “百年戦争” といいます。
国家の概念がない時代を日本に置き換えると、後継争いの “応仁の乱” (1467年)を始まりとする、 “戦国時代” が似ています。始まりと終わりに見解の相違はあるものの、一般的に織田信長の上洛(1568年)までの期間を指します。
信長が足利義昭を後押しして15代将軍に就任させたころまでの “天下” は “日本” ではありませんでした。
“畿内” いわゆる天皇と将軍がいた京都を中心とする、非常に狭い範囲が天下でした。山城(京都府)・大和(奈良県)・摂津(大阪府と兵庫県の一部)・河内(大阪府)・和泉(大阪府)です。将軍の勢力がおよぶのはこの地域だけでした。
その後、足利義昭が信長と敵対して室町幕府が滅び、信長が畿内の外にいる敵対勢力を制圧していく中で、彼の目は全国制覇に向けられていきます。
信長が朱印に刻んだ “天下布武” (天下に七徳の武を布く=天下泰平の世を創る)から “天下統一” への変化です。そこで初めて、 “天下” は “日本” を意味するようになりました。
ご存知のように、天下統一は信長の家臣だった豊臣秀吉が成し遂げ、豊臣家を滅亡させた徳川家康が完成させました。
つまり、百年戦争はイギリスとフランスという主権国家間の戦争ではなく、フランスの領主たちが二派に分かれた争いでした。
─To be continued.─
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