箒の上で踊った君とはもう会えない

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 玄関に入っても、坂を駆け下ったときの鼓動は続いていた。私は衝動的に、口走りそうになる。 「やっぱりやめる。私は行かない」  けれど家の奥から父が出てくるのを見て、口を噤む。身体がさっと冷えて緊張した。 「ただいまくらい言ったらどうだ」  父の口調はにこやかだったけれど、従順に、ただいまと応える。父を怒らせたらどうなるのか、私は試したことがない。 「大会、優勝したそうだな。おめでとう」 「ありがとう。誰に聞いたの?」  優勝したことは、親には連絡していなかった。逐一、親に報告するほどの年齢でもない。  父は私の知らない名前を挙げた。父が重役をつとめる会社はこの島を空に浮かばせるために必要なものを作っているらしく、そのせいか父の顔はとかく広かった。  おかげで私は思いもかけない行動を父に知られていることがある。そのたび、私は首を細い糸で圧迫されるような不快感に襲われた。私の行動を知悉(ちしつ)しているそぶりを見せて、私をコントロールしようとする気配を感じた。 「夕食にいいものでも食べようと思ってな。早く仕事をあがってきたんだ」  父に続いてダイニングに入ると、どこで買ったのか、テーブルの上には豪勢な料理が並んでいた。キッチンの暗がりに母さんが突っ立っているのを見て、私はだいたいの状況を察した。  母さんが夕食を準備しているところに父が帰ってきて、娘が優勝したのにこんな質素な食事なのかとか、母の知りようのない情報を持ち出して叱責する。自分のつてを使ってご馳走を調達して、母が準備していたものは無碍に廃棄する……  父はワインの栓を開けて、キッチンに声をあげた。 「()いでくれ。お前は本当に、気が利かないな」  母はキッチンから出てきて、父の傾けるグラスにワインを注いだ。 「使えない女だ」  不思議なことに、父がそう言い捨てるのを見ると、大抵の人は本当に母さんが使えない人間だと思うらしい。父の社会的な立場がそうさせるのか、断定的な口ぶりのせいなのか。  ともかく母さんは、無能で役に立たない人間だということに、父によってさせられていて、この狭い島で仕事にも()けず家に閉じ込められている。  母さんは私の隣に着席した。その席には皿も何も用意されていない。所狭しと料理の並ぶテーブルの中でぽっかりと空白になっていた。  無言で座っている母さんの気持ちを少しだけ想像する。意識して、少しだけ。完全に感情移入したら、父と生活することはできないから。母さんも、そうしなさいと言う。自分のことをかばう必要もないと。矛先があなたに向かなければいいのだからと。本心かはわからない──父に叱責されているとき、時折、私への怒りや恨みが膨らむ気配もあるけれど、私はその言葉を免罪符に、ただ黙っている。  母さんも、三日後にこの地獄から自由になると思えば、いつもよりマシだろうか。  仕事のない母さんが、この家を出ていくお金を貯めるには相当の時間がかかった。  ただ家を出ていくだけではだめだ。  父の知り合いが一人もいないところまでいかないと。  それにはこの浮遊島群から出る必要があった。ひとかたまりに繋がれた島々の中であれば、電話もメールも使えるけれど、別の浮遊島群には電波は届かない。数少ない連絡艇と手紙しか連絡手段はなく、その不便さは父の目をくらませてくれるだろう。  二日後の夜、父は会食に出かける。酒を飲んで帰ってきて、次の日はいつも昼過ぎまで目を覚まさないから、そこがチャンスだった。人目につかない時間やルートを、母さんは入念に準備していた。  連絡先を知る人も残さない。父に行き先が知れるかもしれないし──仮に信用できる人だったとして、口を割らせるために父の権力で何かされないとも限らない。だから母と、そう決めた。  私は、恋音の姿を思い浮かべる。  夕空を背景に私の腕の中に落ちてきたあの姿を。身体の重さと、恋音が私に寄せる信頼の重さを。  その彼女に何も言わないで、姿を消す。  父のところに残るという選択肢も、あるにはある。でも私は父と二人だけでやっていける自信がなかった。きっと母の行方について詰め寄られるだろうし、今は優しいけれど、母がいなくなったら同じことをされる可能性だってある。  自分の身の安全がかかっているとはいっても、恋音を裏切ることになる。さっき話した「次」はない。  胸に沈む石は重く、私は豪勢な食事を味わうこともできずにいる。
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