2人が本棚に入れています
本棚に追加
「『幸運の女神には前髪しかない』なんて言葉があるけれど、わたしは常々、幸運の女神は人間をからかって遊んでるんじゃないかと思ってるの」
仕事が終わって、Tシャツにジーンズ姿のまま駅前の馴染みのスナック『翠』を訪れた絢音は、『とりあえず生』を勢いよく飲み干すと、ビールジョッキをドンっとカウンターに置き、向こう側の人物――翠のママ・翠に話しかけた。
「おかわり!」
翠は六坪ほどの広さで、カウンターとテーブル席合わせて都合十人しか座れない小さな店だ。
とはいっても、六歳の頃に初めて父に連れられて来たときから、絢音はこの店が満員になったことを一度も見たことが無かった。
いつ来ても流行っていない、地域密着型不人気店だ。
カウンターの向こう側に立つ女性――胸元の大きく開いた真っ赤なドレスに白のレースのカーディンガンを羽織った白塗りお化け――ならぬ、八十歳を超えていそうな翠ママが『意味が分からない』といった感じでキョトン顔をしながら、おかわりの大ジョッキを絢音の前に置く。
「絢ちゃん、あんたいきなり何を言ってるのさ」
「あれは多分、わざと前髪を見せびらかして、気付いた人間の手をギリギリで擦り抜けるゲームをしてるんじゃないかと思うの! そうやって真っ当に生きている正直者が慌てふためくのを見て笑っているんだわ!」
翠ママは、空いた皿をカウンターの向こう側のシンクで洗いつつ、ぷんすか怒りながらお通しの枝豆を食べる絢音を呆れ顔で見つめた。
「何があったのさ」
「今日、三十歳になった」
「あらおめでとう! 何かお祝いしなきゃね!」
「めでたくないよぉぉ! 年齢イコール彼氏いない歴で三十年経っちゃったのよ? こんな悲劇ってある?」
「あ、そういうこと。まぁでもほら、今どき三十歳で未婚ってのも当たり前になって来たし、こういうのは縁だからさ。まだまだ焦る必要は無いって」
枝豆をモキュモキュ食べながら、絢音はカウンターにグデっと突っ伏した。
「そういう機会が無かった訳じゃないのよ? 何度かそういう雰囲気になったことはあったんだけどね。でもどうしても彼が忘れられなくって……」
「あぁ、中学生のときに告られたっていうあの? でも実際に付き合う事は無かったって言ってなかったかい?」
「そう。あれさえ上手くいっていたらわたしの人生、変わっていたと思うのよね。今ごろ子供だっていたかも。だからさ。きっとイタズラ好きな女神が前髪をこれ見よがしに見せて、慌てて飛びついた私の手をギリギリでヒョイって避けて、からかったんだろうなって……」
「女神はそんな暇じゃ無いと思うけどね」
絢音は昔を思い出しつつ、ジョッキに着いた水滴をジっと眺めた。
◇◆◇◆◇
それは、絢音が十四歳。中学二年生の頃の出来事だった。
向坂絢音はある日の放課後、クラスの男子・片瀬哲平から告白された。
誰もいない夕方の教室で、密かに恋焦がれていた男子に告白された絢音は有頂天になった。
一も二も無くお付き合いを了承したのだが、その時の彩音は、背中に羽根が生えていたらそのままどこかへ飛んで行ってしまうんじゃないかというくらい舞い上がっていた。
だが、『禍福は糾える縄の如し』とはよく言ったもので、絢音はその後に待つ陥穽というものに気付けなかった。
きっかけは些細なことだったと思う。
箒の掛け方が荒いとか、真面目に綺麗にモップ掛けしろとか。
中学生同士の喧嘩なんてそんなものだ。
ただ違っていたのは、絢音と哲平が揃ってクラス委員だったこと。
期末考査を週末に控え、皆ピリピリしていた事も要因の一つだろう。
小さな言い合いから始まったそれは、掃除用具を武器とした殴り合いにまで発展し、最終的にクラスを男女二分する派手な喧嘩と化した。
絢音は今でも思う。
箒はともかく、モップで殴るのはさすがに如何なものだったかと。
一部男子に雑巾をぶつけられた一部女子が、怒りのあまりモップで反撃したのだ。
これが決定打となった。
頭から流血した男子が保健室に駆け込み、校医から職員室に連絡が飛び。
こうして先生の介入を許す事となってしまった。
それでどうなったか。
事情聴取をされたクラスメイトが揃って『てっちゃんが――、あやちゃんが――』と責任回避をした結果、絢音と哲平は主犯として保護者呼び出しまで食らう羽目になった。
彩音はクラスメイトの変わり身の早さに愕然としたものだ。
あれ以来、絢音は人を容易く信じない事にしている。
だが一番の悲劇は、この出来事がきっかけで絢音の初恋が終わったという事だった。
再度の衝突を恐れた双方の親や周囲が、絢音と哲平とをそれとなく引き離したのだ。
その空気に逆らえなかった絢音は、告白され付き合うことが決まった翌日だというのに、何となく彼から離れてしまった。
そして哲平も、そんな絢音の気持ちを察し離れて行った。
そんな訳で、中学の残る一年はお互い避けるように生活したし、高校大学と別々の学校に通ったので、結局絢音の『初めてのお付き合い』は始まったと同時に終わってしまったのである。
あの時、何か一つ違っていたら、今とは違う結末が待っていたかもしれない――。
そう思いながら、絢音は今日までずっと後悔を抱え、独り身で過ごして来たのだった。
◇◆◇◆◇
「でもさぁ、絢ちゃん。中学生でのお付き合いが結婚まで辿り着けたかっていうと、それは難しいと思うのよ?」
翠ママは、カウンターに突っ伏したまま切なそうにつぶやく絢音を慰めるように言ったが、すっかり思い出に耽ってしまった絢音は悲しそうな表情のままだ。
「そりゃあね。でも続いていたかもしれないし、或いはその後の運命が変化した可能性だってあったと思うんだ。っていうか……。ううん。わたし、今でも好きなんだ、彼のこと。思い出補正もあるのかもしれないけど。だから前に進めない」
「あらあら、拗らせちゃったもんだね。付き合い続ける。或いは付き合って別れる。そういう何らかの区切りすら発生しなかったからだね。ふむ。ちょいと絢ちゃん、絢ちゃん」
「なにぃ?」
絢音は起き上がると、ダルそうにおかわりのジョッキを右手で持って口をつけた。
翠ママはカウンターに置いてあった絢音の左手を取ると、自分の前髪に触らせた。
スプレーでバリッバリに固められた前髪だ。
「な、なに?」
絢音が慌てて左手を引っ込める。
「いやなに。女神さまじゃなく、ただの飲み屋のオバちゃんの前髪だけど、『鰯の頭も信心から』って言うだろ? 案外と運を引き寄せるかもしれないよ?」
「翠さん……おもしろーい!」
ウィンクをしながら笑う翠ママが面白くて、絢音はさっきまでの悲しみを忘れて笑った。
と、その時だ。
カランカラーン。
柔らかなカウベルの音と共に店のドアが開き、スーツ姿の若い男性が息を切らせて入って来た。
歳は絢音と同じくらいか。
紺のスーツにグレーのネクタイ。身長は百八十センチ近くと結構高く、スポーツマンなのか、スーツを着てても分かるほど胸筋が厚く、引き締まった体型をしている。
その割には笑顔が可愛い。
まさに、絢音の好み、ドンピシャだった。
「とりあえず……ビールをお願いします!」
カウンター席に座った男は、ズボンのポケットから柄物のハンカチを出すと、スーツの上着を脱ぎ、表面に付いた水滴を丁寧に拭った。
男の前に、ビールとお通しの冷奴が置かれる。
「はい、おビールどうぞ。ってあらやだ、雨、降って来ちゃった?」
「この店は防音が効いてるようですから気付かなかったんでしょう。外は結構酷いですよ?」
カウンターから出て外の様子を見に行く翠ママを横目で見ながら、男は出されたおしぼりで顔を拭いた。
絢音に見られている事に気付き、男が慌てて頭を下げる。
「オジサン臭くて済みません、汗っかきなもので。見ないで頂けたら」
「全然、全然。気にしないで下さい」
「ちょっと絢ちゃんゴメン! ワタシ洗濯物出しっ放しだったわ! 取り込んでくるからあとお願い!」
「え? 翠さん、お客さんどうするのよ!」
「子供の頃からここに出入りしてんだから一通りできるでしょ? すぐ帰って来るから頼んだわよ!」
言うだけ言って、翠は慌てて店を出て行ってしまった。
奇妙な沈黙が流れる。
二人の目が合って、お互い苦笑いを浮かべる。
「あ、お腹空いてますか? 何か食べたいのあります?」
彩音はヒョイっとカウンターの中に入ると、勝手知ったる何とやらで冷蔵庫を開けた。
「いやでも、あなたもお客さんなんでしょ? それもどうかと……」
「いいんですよ。ママも――翠さんもさっき言ってたけど、わたし、酒飲みの父親に連れられて六歳からこの店に出入りしているんです。何かある度にこうやって手伝わされてるから、お客というより半分店員ですね、あはは」
「なるほど。じゃ、この……サンドイッチをお願いしていいですか?」
「はい、承知しました!」
彩音は冷蔵庫から生ハムとアボカド、ゆで済みのタマゴを取り出すと、下ごしらえを始めた。
男がカウンター席に座ったままそれを楽しそうに眺める。
「ボクね、先週異動でこの街に引っ越してきたばっかりなんですよ。それでこういう面白いお店に出会えたっていうのはラッキーだなぁ。学生時代、この道を通ってたはずなんだけど、やっぱり視界が違うから気付かなかったんだろうなぁ」
「え? お客さん、この辺りの出身なんですか?」
彩音が手を止めて男を見る。
「そうですよ。元々ボクはこの街の出身なんです。東京の大学行ってからずっと里帰りの時くらいしか戻って来なかったけど、小学校はそこの春風小で、中学校は清夏中。高校は隣町の秋ヶ瀬高校だったんです」
「うっそ、わたしと一緒! ひょっとして同級だったりして?」
「ボク、今三十歳なんですけど。……あぁでも女性に年齢を聞くのはNGだな。失礼しました」
「同い年、同い年! ビックリだわ。みーんなこの街を出てっちゃって、誰も戻って来ないんですもん。久々に会えた同級生、嬉しいなぁ。はい、お待たせしました」
絢音は男の前にサンドイッチの乗った皿を置いた。
アボカドと生ハムのサンドイッチと、タマゴサンドのセットだ。
男が早速かぶりつく。
「うっま! これ美味いですよ! あっという間に食べちゃいそうだ!」
「それは何より」
男が目の色を変えて食べ始めるのを、絢音はカウンターの内側から嬉しそうに眺めた。
「わたし、向坂って言います。向坂絢音。ひょっとしてクラスメイトだったりしました?」
「絢……ちゃん? ボク……片瀬哲平……です」
男の、サンドイッチを食べる手が止まる。
洗い物をしようとする絢音の手も止まる。
「そんなことって……。哲平くん……なの?」
「こんなことって……。ボク、つい先週戻って来たばかりなのに、いきなり絢ちゃんに出会えるなんて。まるで何かの運命に引き寄せられたみたいだ」
二人して、探るような視線でお互いを見る。
絢音は、ほのかに芽生えた希望の欠片に願いを賭けつつ、その言葉を口にした。
「あの……さ。結婚とか……お付き合いしてる人とか……いる?」
「独身。彼女もいない。いやいや、なーんかね。どーにもそういう恋愛ごとって言うの? 全く縁が無くってさ。いた試しがない。いやまったくお恥ずかしい」
哲平が頭を掻きながら笑う。
それを見て絢音の胸が大きく高鳴る。
うるさいくらい、心臓がバックンバックン音を立てている。
「わたしも、わたしも! 独身。彼氏もいないの!」
「あ、そう……なんだ……」
二人の間を沈黙が占める。
今度は哲平が、なけなしの勇気を出す。
「あの……さ」
「うん……」
「もし良かったらさ……」
「うん……」
カウンターを挟んでお互いの顔が近づく。
と。
バタン!
「ごめんごめん! 思ってたより時間掛かっちゃったわ。絢ちゃん、大丈夫だった? あ、お客さんまだいたのね。ホントごめんなさいねぇ。何か食べた?」
翠ママはバタバタしながら帰って来ると、そのままカウンターに入った。
絢音と哲平が顔を見合わせて笑う。
「何よ二人して。あら、サンドイッチ出したのね? どう? 美味しいでしょう。絢ちゃんはワタシが鍛えたんだから、料理の腕は折り紙付きよ?」
「えぇ、とっても美味しかったです。ペロリと食べちゃいました。あー、ボクそろそろ帰りますね。お会計をお願いします。」
「あ、はい」
哲平から千円札を数枚受け取った絢音は、重ねられた札に隠れて名刺が一枚挟まっているのに気が付いた。
名刺の空きスペースに、携帯アドレスとメッセのIDが走り書きされている。
絢音と哲平の目が合う。
絢音は翠ママに気付かれぬようさりげなく名刺をポケットに仕舞うと、レジを操作しておつりを哲平に渡した。
「じゃ、また来ます!」
「ありがとうございました!」
しばらく二人のやり取りを見ていた翠ママが、哲平が店を出たのを確認すると、絢音に話し掛けた。
「……何かあった?」
「ううん。何も?」
入店時にゲッソリ顔をしていた絢音は今、ちょっとだけ照れくさそうに笑っていた。
◇◆◇◆◇
二人だけの食事やデートを繰り返し、正式にお付き合いを始めた絢音と哲平は、ちょうど一年後、順調な交際の末に無事結婚というゴールに辿り着いた。
あの時叶えられなかった約十五年越しの恋が、ようやく実ったのである。
そして更に半年。
たまたま小雨が降ったある夜。
お腹がふんわり大きくなってきた絢音はふと思い立ち、傘を片手に駅まで歩いて哲平を迎えに行った。
無事合流を果たした絢音に、哲平が提案をする。
「この道。確か絢ちゃんと再会したあの店の前通るよね。ほら、絢ちゃんが初めてボクにサンドイッチを作ってくれたあの店。久々に行ってみない?」
「あぁ。そういえばずいぶん足が遠のいちゃってたね。いいね。行ってみよ!」
仲良く手を繋いで歩くこと五分。
だが、そこにスナック『翠』は無かった。
あったのは割烹『縁』だ。
「何やってんの。濡れるよ? 早く入りなよ」
白い暖簾の掛かった木製ナチュラル色の横開きドアの前に呆然と立つ絢音を、先に店に入った哲平が呼ぶ。
「あれ、だって『翠』……だよね。スナックの」
「何言ってんの、割烹屋さんだよ? 大丈夫?」
店に入ると、そこはカウンターだけの、こじゃれた空間だった。
「やぁ久しぶり、絢ちゃん。お酒は止めといた方がいいよね? お茶で我慢しとこうね、今夜は」
白の和帽子をかぶり、白の法被を着た優しそうな目をしたメガネのオジサンが、カウンターの向こう側から話しかけてくる。
――わたし、この店主さん知ってる。確か石神さんって言ったっけ。
絢音は頭の中に大量にハテナマークを浮かばせながらも、哲平に椅子を引かれ、カウンター席に座った。
哲平の前にビールが。絢音の前に湯飲みが置かれる。今日のお通しは松前漬けだ。
「いやぁ、絢ちゃんがあの時の彼と結婚まで行くとはねぇ。オジサン、このまま絢ちゃんが独り身だったらと、ちょっとだけ心配していたんだよ」
「あの……石神さん、お店ってずっとここでしたっけ?」
「え? ……うん。絢ちゃんが子供の頃から場所は変わってないよ?」
「ですよね。あっれぇ……」
「お任せでお願いします」
「承知しました」
哲平の注文に大きく頷くと、石神は見事な包丁さばきで次々と料理を作った。
長芋の揚げ出し。ホタルイカの酢味噌和え。刺身の盛り合わせ。ブリの照り焼き。鯛茶漬け……。
見た目も味も上品な割烹料理が次から次へと出てきて、絢音と哲平の舌を存分に楽しませてくれた。
一時間ほど滞在し、お腹を存分に満たした絢音と哲平が会計をしようとレジに向かうと、レジの真上に小さな神棚が設置してあることに気が付いた。
中に、琵琶を弾いている和装の女神さまが描かれた掛け軸が飾ってある。
「あの、これ……」
店主の石神がレジ側から回って神棚の前に来る。
「ん? あぁこれ? 弁天さま。ほら、財福や金運なんかの神さまじゃない? うちは昔っから弁天さまに守って貰ってんの。弁天さまのご利益には確か恋愛成就も入っていたから、その辺り、効いてたりしたのかもねぇ」
石神が手を合わせて祈った。
絢音も一緒に手を合わせた。
絢音の目には、弁天さまの顔がどことなく見知った八十歳越えのスナックのママに似ているように見えた。
弁天さまの顔は、絢音を見て微笑んでいるかのように思えた。
絢音と哲平が店の外に出ると、すでに雨は止んでいた。
雲はまだ少し早めに流れているが、もう今夜は雨が降ることは無いだろう。
「ね、哲っちゃん」
「なんだい? 絢ちゃん」
カバンを肩掛けにし、右手に二人分の傘を持った哲平が振り返る。
――やっぱり哲ちゃんと結婚して良かった。あの夜が無かったら、私はこの人と再会することは無かったかもしれない。
「わたし、幸運の女神さまの前髪を触ったのかもしれない」
「……なんの話?」
「なんでもなーい」
絢音は哲平に近寄ると、右手を哲平の左手に絡ませた。
優しく握り返してくれる哲平の目を覗き込むと、絢音はニッコリ微笑んだ。
雨雲を割って出た満月が、絢音と哲平をいつまでも優しく照らし続けていた。
END
最初のコメントを投稿しよう!