第9話 おれとクマたん

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【episode2】  おれが市役所の人に気を取られている隙に、母さんはクマたんをおれから引きはがしたかと思うと、開いていた窓から庭に投げ捨てた。 「あ!」  おれは慌てて、その窓から庭に飛び出した。 「琥太郎!!」 「逃げたぞ!」  玄関から庭に回り込んでくる人の声が聞こえた。芝生の上にぐったりと横たわるクマたんを拾い上げると、おれは一目散に駆け出した。 「待て!」  後ろから男の人たちが追いかけてくる。裏口から路地に出ると、ちょうど警察車両がやってくるところだった。 「止まりなさい! 羽田琥太郎! 止まりなさい!」  警察車両のスピーカーからおれを制止する声が聞こえる。だけど、もう夢中だった。ここまで来たら逃げてやる。おれは——強制就労施設になんて行かない。  別に強制就労施設は怖くない。問題なのは、そこに行ったら、クマたんと離れ離れになってしまうということ。そんなのは絶対に嫌だった。  靴下だけで走っていくと、足のあちこちが擦り切れて、ジンジンしてくるのがわかる。でも、どうでもいいことだった。おれは走って、走って、走った。  運動なんて苦手だ。こんなに走れるんだ。おれ——。そんなことを他人事みたいに思った時。おれの目の前の道がなくなった。  いつの間にか、自然公園の中に迷い込んで。そしてこうして崖っぷちに追い詰められたのだ。 「琥太郎くん。なにも痛い目に遭わせるわけじゃあない。さあ、おとなしく、こっちに来なさい」  眼鏡をかけた背広姿の男の人が、そっと手を差し出した。彼の後ろには、たくさんの警官がいた。おれはまるで犯罪者。たくさんの光に照らされて、逆光でそこにいる人たちの顔が見えなかった。  ——クマたん。ごめんね。おれ。ちゃんと好きでいたのに。ごめん。  ふとクマたんが動いたような気がするけれど。興奮していて、なにがなんだかわからなかった。後から駆けつけてきた母さんと父さんが泣き叫んでいた。 「琥太郎! こっちに来なさい」 「早まった真似はよすんだ! ワオーン!」  ——早まった真似?  父さんの叫びにはったとした。  ——そうだ。もう駄目なら。クマたんと一緒にいられないなら。  おれは足元の崖下を見つめる。  ——ここから飛び降りる。  クマたんをぎゅっと抱きしめて、おれは目を閉じた。それから、静かにそこからジャンプする。 「琥太郎ーー!」  母さんや父さん。市役所の人。警察の人たち。みんなが崖っぷちに集まっておれを見下ろしていた。空中での浮遊感はふわふわとしていて、自分が死ぬなんて、とても思えないくらい心地がよかった。 「ああ、よかった。これでお前と一緒にいられるよ。クマたん——」  そう呟いた瞬間——。 「うおおおおおおおおおお」  地の底から響くような雄叫びに目を見開く。おれの腕の中にいたクマたんは、金色に輝いたかと思うと、あっという間に大きくなって、今度は反対におれを抱きしめてくれた。  ふわふわとした毛がおれの頬を撫でる。その光は崖の岩場を蹴り、軽快なステップで地面に着地した。  ——え?  見上げると、そこには。褐色の肌の男がいた。耳の上には茶色のまるい耳。2メートルはあるのではないかと思われる長身に、つやつやと輝く筋肉。首には赤いリボンが蝶結びになっている。これは……。  おれは軽々と彼に抱えられて、そこにいたのだ。 「ク……マたん?」 「ママン。遅くなってゴメン」  ——女の子じゃないーー!? 「ママン。好き。大好き。クマたん、ママンが好き」  クマたんは、おれの頬に唇を寄せる。頭のてっぺんまで熱くなって思考が停止した。 ***** 「市長。以上がケースKの報告です」  室内が明るくなるとともに、参加者の目の前のモニタが消える。上座に座っていた中年の男は両手を組んで唸った。報告を行っていた銀縁眼鏡の男は、張のある声で言った。 「システムのバグであると思われます。割り振られるぬいぐるみは、異性と決まっております。しかし、今回のケースは同性同士。彼らの間になんらかの特別な感情が芽生えるのかどうか。諮問機関は、経過を見るように上申してきております」 「ふむ。特殊ケースは特殊ケースとしてデータを取りたいというわけだな? しかし。この熊。人化が遅れたそうだな。それは今回の件に関連しているのか」 「いえ。あくまで仮説ですが——。大型種の場合、人化の閾値まで愛情を満たすには、十五年という期間は短いということです。今回の被検体である『くま』は、珍しい大型種です。むしろ、あの大型種を十五年できっちり人化した少年の愛情の深さは感嘆に値するもである——という意見がありました」  報告を聞いていた男は、椅子の背もたれにからだを預ける。 「よし。わかった。では引き続き、このケースKの観察を続けよう。彼らは、ほかの者たちと一緒に、日常を送らせるのだ。この会議は、毎月開催することとする。——あの二人のことはお前に任せる。危機管理室長」 「承知しました」  室内は暗転。会議はお開きとなった——。 ***** 「ママン。おはよう」  目が覚めると、ベッドの隅に押しやられていることに気が付いた。 「もう! クマたん。おれの場所までとらないでよ」 「ゴメン。クマたん。小さくなって寝ていた」  ——小さくなれるようなからだじゃないじゃない!  にこにこと笑みを浮かべたクマたんは、ぬいぐるみの時と同じ。黒目がちの目を細めていた。その目を見つけてしまうと。なにも言えなくなってしまう。 「ごはんよ~。二人とも」  階下から母さんの声が聞こえる。クマたんを引き連れてリビングに顔を出すと、そこにはおれくらいの男の子が先に朝食をとっているところだった。 「おはようございますガオ」 「お、おはようございます」  彼は——。あの闇市で母さんが買った『コグマたん』だ。母さんは「クマ五郎」と呼んでいたけど、それではちょっとかわいそうだから、「コグマたん」にしたのだ。  おれの相棒として闇市から買ったというのに。この子も女の子ではなくて男の子。母さんもよほど慌てていたらしい。  どこかにやるわけにもいかない。仕方がないので、母さんはおれの兄弟のような扱いをすることにしたという。 「ばれないの?」 「貴方のパートナーってことにすればいいじゃない?」 「駄目。ママンのパートナーはおれ」 「クマたんはいいの」 「何故? グランママン」 「なんでそこ英語なのかな」  三人で揉めているそばで、コグマたんは静かに朝食を摂る。目玉焼きを乗せた皿を持ってきた父さんは「ほら、なんでもいいから飯食えワオン」といった。  三人だけの家族だったのに。いきなり二人も増えて、羽田家は大騒ぎだ。新之助みたいに、可愛い女の子が来るものだとばかり思っていたから。こんな図体のでかいクマたんが現れて、正直に言うと困惑しているわけだが。彼はやっぱりクマたんで。なんだか、それはそれでいいのかな? って思い始めているところだった。   —おれとクマたん 了—  
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