第10話 方解石

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第10話 方解石

【方解石 episode1】 「なにを言っているんだね。これを発見したのは私だ。違うかい? キミじゃない。世間様はどちらを信じると思うのかね? いいね。悪いようにはしない。キミは確かF 県出身だったね。来月、F大学で准教授の席が空く。私が推薦状を書いておいたよ。地元に戻って、ゆっくりと過ごしたいいんじゃないか。どうやら、相当疲れているようだからね……」  白髪交じりの口ひげを撫でながら、教授はそう言った。まるで夢うつつだった。目の前が真っ暗になる。別に——地位や名誉が欲しいわけじゃないんだ。ただ、おれは。おれの手で新しい鉱物を世の中の人に見せたかっただけ。それだけだったのに。  田舎のローカル線は、一時間に一本しか走っていない。乗り継ぎを間違えると、それはそれは長い時間、待たされることになる。一両編成のワンマン運転。オイルの匂いと、他人の匂い。それから、からだの中心部まで揺さぶられるような振動を受けながら、とある駅に降り立った。  ——ああ、実家に帰って来るのは、いつぶりだろうか。  大好きだった岩石や鉱物を研究したかった。いつかは、自分の手で新しい鉱物を発見したかった。大学に進学をして、この町を離れてから。一度も帰ることなく、石と向き合ってきたのだ。それなのに。  ——このおれの二十年間は、一体なんだったんだろうな。  まるで夢でも見ていたみたいだ。なんのために時間を費やしてきたのか。ギリギリのところで張り詰めていた糸がぷっつりと切れてしまったようだった。 「帰ろう。あの町に」  そう思ったのが昨晩のこと。おれは急いで荷物をまとめると、始発の新幹線に飛び乗った。  プラットホームに降り立つと、人の影は見当たらない。こんな田舎に用事がある人など、いないのだろうか。階段を下り地下道を通ってから、改札口に近づくと、ぴかぴかの自動改札機が設置されていた。  駅舎は木造づくり。ところどころ白いペンキが剥がれ落ちていて、今にも崩れそうな趣だというのに。自動改札口だって? なんて不似合いなんだ。おれが高校生の頃は、ここに駅員さんが立っていて、切符を受け取ってくれたり、定期を確認したりしていたというのに。  駅前には、タクシーなど止まっているはずもない。ロータリーは閑散としていて、ここにも人の気配はなかった。まるでパラレルワールドに迷い込んだみたいだった。この世界には、おれ一人しかいないのではないか? という錯覚。  実家へ向かうには、商店街を歩いて行かなくてはいけない。シャッターが下りている店ばかりだ。いつのまに閉店してしまったのだろうか。  この町を飛び出してから、中学校時代の友人との交流を絶った。成人式の時には、同窓会の案内が届いたが、それすら断った。帰ってきたのは実に二十年ぶりになる。  薬局は同級生の坂田の家だ。けれど、シャッターが下りている。坂田は勉強があまり得意ではなかった。「おれは薬剤師になって家を継ぐんだ」と言っていたけれど。薬剤師にはなれなかったのだろうか。  菓子屋の大樂(たいらく)は、母親から、東京の企業に就職したと聞いた。だからと言って、東京で会うわけもないのだが。田舎の母親からすると、東京に行けば、みんな気軽に出会うと思っているのだろう。そんなわけない。東京の人口、一体何人だと思っているのだ。  菓子屋だというのに、店先には観葉植物が所せましと並んでいる。これでは何の店だからちっともわからない。彼の父親がほそぼそと営業を続けているのだろうか。  こうやって歩いてみると、子どもの頃は大きくて、長く感じられたメインストリートは、小さくて、なんとも味気ない。昔は、この道をたくさんの人が往来していた。仕事帰りの人も、主婦も、学生も——たくさんいたのだ。  感傷的になるのは、気のせいではない。おれの心はかなり疲れているのだろう。周囲を観察しながら歩みを進めていく中、おれは一軒の店先で足を止めた。  町で唯一の本屋『河野書店』。同級生の河野の実家だった店だ。だがしかし——。その店はおれの知っている河野書店ではなかった。  壁面には、少し黄色がかった白いペンキで塗られている、細長い板が縦に何本も張りつけてあった。その板の間には植物のツタがいい感じに絡まっている。  店先には木製のワゴンが置かれ、週刊漫画雑誌が並べられている。そして、その横には大きな鉢が置かれ、ユーカリの木が緑の葉を茂らせていた。  当時とはまったく違った様相の本屋——。河野の父親は、本屋を人手に渡してしまったようだった。  毎月、第三火曜日。おれはこの場所にあった河野書店に通っていた。楽しみと言えば、おもちゃ屋か本屋、駄菓子屋に行くことくらいだった。学校から帰ると、ランドセルをおいて、すぐに商店街に遊びに行く。  小学校五年生のある日。ここで見つけた『月刊岩石』という雑誌。おれの人生はその一冊で変わった。  発売日には、必ず店先に置いてあったその雑誌だったから、当時は気にも留めずにいたが。この雑誌はかなりコアな代物で、東京の大きな書店を回ってもなかなかお目にかかることができなかった。  なぜあの雑誌が河野書店に入荷していたのか。大人になって今でも不思議でならない。河野の父親が、まるでおれのために入れていてくれたのではないかと思うくらいの話だった。  白い木製の格子戸は大きく開かれたままだった。おれは吸い込まれるように足を踏み入れた。おれの背丈よりも少し高いくらいの本棚が壁に並べられている。この広さでは、在庫を大量におけるような感じではない。しかし、丁寧にジャンルごとに振り分けされた本たちは、ぴったりとその本棚に収まっていた。  本屋特有の埃臭さは微塵も感じられず、微かにオレンジの香りが漂ってくる。店内に流れている音楽はボサノバだろうか。本棚の隙間に開いている小窓からは、ふんわりと柔らかい昼下がりの光が差し込んでいた。  レジのところを覗くと、そこには人影がない。なんて不用心だ。おれはそっと店の中を物色していく。昔はよく本を読んでいたけれど、今はそんな時間も取れない。時間に追われていたことに気が付いた。  朝起きて、深夜に帰宅するまで。その時間は目まぐるしく過ぎていく。ところがどうだ。腕時計を見るとまだ昼過ぎ。鈍行列車に揺られた旅路も、そしてこの本屋で流れゆく時間も。どれもこれもがゆったりと過ぎていく。  なんだか嬉しい気持ちになっている自分に気がついてから、慌てて表情を引き締める。一人でにやにやしているなんて、怪しいに決まっているんだから。  咳払いをして視線を逸らすと、ふと雑誌コーナーに目が留まった。今月号の『月刊岩石』があったのだ。河野書店ならまだしも。田舎の書店には並ぶはずもない雑誌がなぜここに。 「なんで……これが?」 「お前のためだよ」  おれの呟きに応える声——。はっとして視線を遣った。すると。そこには、おれよりも大柄の男が立っていた。彼は、白いシャツを腕まくりし、黒いエプロンをつけていた。意思の強そうな眉毛の下には、黒目がちの双眸がきらりと光る。この男は——。 「河野……?」 「(あまね)だろ? その雑誌。手に取る奴は、お前しかいなかったからな」  まっすぐにその瞳に見据えられると、心の奥底がざわざわと波打つ。 『おれはお前が好きだ』  桜のつぼみが膨らんできた裏庭で、その薄い唇から零れた言葉。あの時のおれは——。 「帰省か?」 「あ……うん。そうだけど。ここ。お前の店か?」 「そうだ。昨年、改装工事したんだ。昔の河野書店の面影はないだろう?」  河野は、おれのすぐ横までやって来る。こうして間近で並んでみると、おれの頭一個分も身長が高い。あの頃は、そう変わりがなかった身長なのに。  そばにいるだけで、肌から伝わる熱がジリジリとおれを焦がしてくるみたいだった。
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