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翌日。おれは少し寄り道をしてから、昨日の場所に向かった。じいさんは、昨晩と同じように、あの裏路地の突き当たりに自転車を止めて座っていた。
「持ってきたかい?」
「ああ」
おれは、黒いゴミ袋をじいさんに差し出した。彼はそこいら中に漂う血の匂いを吸い込んだ。
「新鮮な匂いだ。この子も喜ぶだろう」
じいさんは、ゴミ袋を受け取ると、ゴソゴソと音を立てて、そこから小さい塊を摘み上げると、金魚鉢に投げ入れた。
金魚鉢の中に、たちまち朱色が広がった。しばらくすると、朱色は治り、いつのまにかまた、澄んだ透明な水に戻った。
「どうだ。くれるのか?」
人魚はおれを見上げていた。キラキラと輝くような碧眼は、おれに好意を持っているに違いない。おれと目が合うと、彼はまるで雪解けの中のお日様みたいに優しい笑みを浮かべるのだから。
——どこで見た? おれは、この笑みを知っている。
微笑み返すと、人魚は尻尾をチャプンと鳴らした。しかし——。じいさんは「まだ、くれてはやれないのう」と言った。
「約束、果たしたろう? 反故にする気か?」
「まだ足りないのだ。信じられないだろうが、この子はこの姿のまま五百年は生きておる。この美貌を保つため、毎日休みなく肉を食する必要があるのだ。人間一人分の肉では、一週間も持つまい」
「じいさんは何人、人を殺した?」
彼はしわしわの目尻を下げた。
「数え切れんな」
——クソ。ここでも負けるのか? おれは負け犬じゃない。負けてたまるか。絶対にこのジジイから、人魚を奪ってやる。
おれはじいさんを思い切り突き飛ばした。じいさんは簡単に地面に倒れ込んだ。その隙に金魚鉢を両手で抱える。
「奪うか?」
「そうだ。あんたは、この人魚の持ち主として相応しくない。この人魚は、持ち主はおれがいいと言っている!」
興奮していた。肩で息をついてじいさんを見下ろす。だが、彼はぽっかりと穴が空いたような、灰色の双眸でおれを見上げていた。
「私が初めて殺した人間は、これの前の持ち主だ。ヤツを殺して、そして奪った」
「なんだって? あんたは人を、易々と殺すのか? この人魚のためなら。何人だって殺すのか?」
「お前もそうなる。この人魚に取り憑かれた者は、皆、同じ末路を辿る。お前もそうなるのだ——」
「おれはならないさ。あんたとは違う」
じいさんは足元まで伸びる群青色のコートに着いた埃を払いながら立ち上がった。
「私はこの子のために全てを捨てた。社会的地位も、名誉も、家族も、両親さえもだ。お前のようなやつは、この子にろくな餌を与えられないだろう?
お前にはまだ捨てられないものがある。見てみろ。これが証拠だ」
じいさんが差し出した金魚鉢の中で、人魚は浮いていた。彼は、その美しい肢体をどす黒く変色させて、まるで死んでしまったかのようだった。じいさんは、黒いゴミ袋を指差す。
「これは人肉じゃないな」
「なぜ、それを……?」
「人魚は人肉しか受け付けない。もし万が一にも、それ以外のものを口にしたら……こうなってしまうからだ」
人肉を準備するつもりだった。今朝までは……。
加藤を殺すつもりだった。あいつを殺して、人魚も手に入る。一石二鳥だと思った。いつも飲んでいるコーヒーに細工をしてやろうと。今朝まではそう思っていたのに。
給湯室で下準備をしているおれに、あいつは笑顔で声をかけてきたんだ。
『おはよう! 船越くん。船越くんは凄いね。どうしたら、そんな営業成績が収められるの? 僕なんて、君の足元にも及ばないんだから。お願いします! 弟子にしてください!」
加藤はそう言って両手を合わせて頭を下げたのだ。加藤が、おれのことをそんな風に見ていたなんて、思いもよらなかった。
課長も言った。
『お前は、うちの営業部エースだからな! 加藤を鍛えてやれ。お前たちが、トップを目指し、切磋琢磨してくれたら、おれは嬉しいよ』
——おれは。一体、なにをしてきた?
みんなの思いを知らなかった。いや、知ろうとしなかった。
じいさんはしわしわの口を開いて笑った。
「お前さんには、まだ早かったようだな。まあいい。まだチャンスはあるさ。それまで、この子は私が大事に預かっておこうじゃないか」
じいさんは、呆然としているおれの腕から、金魚鉢をむしり取ると、その鉢を撫でた。すると、まるで死んでしまったように浮かんでいた人魚がくるりと反転をして水の中に潜り込んだのだ。
「おれは——欲しいんだ。それが」
じいさんはさっさと金魚鉢を風呂敷に包み直す。
「待ってくれ! 欲しいんだよ! その人魚が!! じいさん……!」
じいさんの腕を掴むと、老人とは思えないような力で引き離された。その反動で、今度はおれが、その場に尻餅をついた。金縛りにあったみたいに、体が動かなかった。すると——。
「船越くん——、船越くん——どこにいるの?」
背後から加藤の声が聞こえた。
——なんであいつが?
「船越くん! 船越くん!」
加藤は不安そうに、周囲の様子を伺いながら姿を見せる。それから、おれのことを見つけたのか。慌てて駆け寄ってきた。
「なんでお前、ここに?」
「一日中、上の空だったじゃない? それに顔色も悪くて。だから心配でついてきちゃった。肉を大量に買っていたけど。なにか動物でもいるの?」
「これは」
おれは視線を戻したが、そこにいたはずのじいさんと人魚は、跡形もなく消えていた。まるで狐につままれたみたいだった。言葉をなくし、呆然とそこを見つめているおれに、加藤は優しい声色で言った。
「帰ろう。夜中に、こんなところにいちゃダメだよ」
加藤はおれの腕を引っ張った。固まっていた体は、嘘のようにスムーズに動き出す。
「そう……だな」
帰り際。もう一度振り返って見る。じいさんがいた場所から、奥の暗闇まで、自転車のタイヤの跡が続いていた。
*
あれから時々。耳元でチャプンと魚が跳ねる音がする。
「船越くん。帰ろう」
目の前に立つ加藤の笑顔に釣られて、自然とおれの口元も緩む。
「そうだな。——今晩、うち泊まるか?」
「え! いいの? 彼女は……」
「別れた。中途半端なことはしないって決めているからな」
おれは加藤の腕を取って引き寄せる。もう誰もいないオフィスに、「こんなところで、ダメだよ」と彼の甘い声が聞こえた。
チャプン。
——今はまだお前は必要じゃないんだ。悪いな。
チャプン。
時々。加藤の横顔が、あの人魚に見えてくる。
——人魚はどんな顔をしていたのだろうか。
——まるで加藤みたいに……。
——思い違いだ。
おれの記憶違い。おれの脳が作り出す幻影だ。今、目の前にいる加藤はいつもの加藤だ。あの人魚と加藤が同じ顔のはずがないのだから。
おれは脳内に張り付いた、奇妙な妄想を振り払うかのように頭を横に振った。
「帰ろう。深夜は良くないことばかり起きる」
おれは加藤の手を握りしめて、オフィスを後にした。
あれから。あの裏路地は、いくら探しても見つからなかった。じいさんと人魚はどこへ消えたのだろうか?
―人魚 了—
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