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文月は一瞬驚いたように美織を見て、それから瞳だけ上にさまよわせ、また美織に瞳を戻して唇を開いた。
おそらく、その間二秒もかかっていないというのに、美織は急に不安になった。頭の中では、運動会でよく聞く「天国と地獄」が走馬灯のような速さで鳴り響き、逃げ場もないのに逃げ出してしまいたい。
「あの、やっぱり」と美織は言いかけるのと、文月の「やったー。傘を買って売り上げに貢献しちゃうところだったよ」という声が重なった。
現在、夜8時。雨のせいか、客足は急に鈍くなった。時間がゆっくり過ぎていく。夜10時に勤務が終わるまで、雨が止みませんように、と美織はこっそり祈った。
美織の祈りが届いたという訳でもないだろうが、帰るときまで雨は降り続いていた。
「先輩、どうぞ」
美織が背の高い先輩に合わせて傘を高く掲げると、文月が傘をとりあげた。
「オレが持つね」
「ありがとう、ございます」
美織はギクシャクと頭を下げた。仕事中は先輩が隣にいても緊張しなかったのに、ひとつの傘の下に入ったとたんに心拍数が上がってくる。
「もっとこっち」
美織の袖の肘のあたりがツンツンと引かれた。離れていては、傘からはみ出て濡れてしまう。
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