1

1/3
6人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

1

 隅々まで空調が行き渡った部屋には等間隔にデスクが並ぶ。デスクの上にはそれぞれラップトップパソコンが置かれているが、大半は電源が落とされていてモニターには一面黒が広がっている。定時を随分と過ぎているためだった。  IT系の企業は労働時間が長くブラックだ。2000年台初頭に付いたイメージは未だ根強く世間に浸透しているようだが、少なくともうちとは無縁だな。そんな事を考えながら三宅英司(みやけえいじ)は大きく息を吐くと伸びをする。時計を見れば夜の八時を回ったところだ。作業のキリが悪く久しぶりに残業をしてしまったが、英司が思っているよりも夜の社内に人はおらず、しんとした空気が張り詰めていた。 「そろそろ上がるか」 そう言って疲れた目を擦ると、英司はキーボードを操作する。本日最後の作業としてパソコン上から「ゼタ」を呼び出す。  画面に大きく"ZETA"と書かれたロゴが表示されるたのも束の間、すぐさま画面は切り替わりゼタとの対話画面が表示される。それを確認すると英司は素早くキーを動かして『人間とAIの違いはなんだと思いますか?』と打ち込みエンターキーを押した。やがて画面上にはゼタからの応答が表示される。 『自己意識の有無、創造性などが考えられますが、いちばんは倫理と道徳だと思います』 その文字を目で追うと、英司は今度は『倫理と道徳、とはどういうことですか?』と入力する。今度は複数行にわたる応答をゼタが出力した。 『人間は社会の一員として、倫理規範や道徳規範に従います。これらの規範は文化や社会によって異なることもあり、しばしば複雑で微妙な判断を必要とします。一方、AIは倫理的な判断を自己で行う能力はなく、人間が設定したルールに従うだけです』 先ほどよりも少し時間をかけてそれを読み終えると、英司は納得したように頷く。空いた手で顎の髭を触っていたのは、気分が高揚した時の英司の癖だった。  英司が新卒で入社した「ワールド・ワイド・ブレーン」社はアメリカの本拠地を構えるIT企業だ。ここ十年でベンチャー企業から急成長した背景には、この会社が開発したAIシステム「エクサ」があった。  エクサが開発されたのは折りしも第4次AIブームの真っ只中で、世界的にコンピューターの処理性能が上がってきたことで、かつてはテンプレ的な応答しかできなかったAIシステムが一気に進化し始めた時代だった。エクサは時代の先駆け的なAIとして広く知れ渡り、あらゆる国のあらゆる世代がそれを利用した。  AIの仕組みは赤ん坊によく似ているとされる。人間の赤ん坊は最初はなんの言葉も知らないし、意味も理解できない状態だ。例えば「猫の絵を描いてください」と言われた時に、大人は描写の上手い下手はあれど、他の人間が見て「これは猫だ」と理解できる絵を描くことができる。  たとえ体毛の色や模様が違っていても、体の細さ・太さが違っていても、尻尾が長かろうが短かろうが、人はそれを猫だと認識できる。これは赤ん坊が成長していく中で数えきれないほどの「猫の写真や実物やイラスト」を目にして、「これが猫だよ」と教え込まれるからだ。白い猫もいれば黒い猫もいる。体の大小もあるし、目の色に違いもある。その中から「体は毛で覆われていて、耳が三角に尖っていて、ヒゲが生えていて、四つ足で尻尾があり、目つきが鋭い」といった共通の特徴を学んでいくのだ。  この理屈を少し抽象的に拡張すると「犬や猫や牛は同じように毛が生えていて、乳で子供を育てる」といった共通項を見出すことができる。だから人間は初めて目にした生き物でも、膨大な経験と知識を基に「その生き物が哺乳類か、鳥類か、魚類か爬虫類か」といったカテゴライズをすることもできる。もちろん、それが間違ってしまうケースもあるが、その場合は間違えたという結果を学習してより精度を増していく。
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!