止まり木に渡り鳥

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 楠木琢真は子供の頃、一晩だけ小鳥を飼ったことがある。  ある雨のひどい日、庭の方から、ぴいぴいと甲高い声が聞こえた。声のする方を探してみると、低木の茂みの底で、びしょ濡れの小鳥がじっとうずくまっていた。慌てて家に連れ込み、濡れた羽根を乾かしてやるも、小鳥は小刻みに震えるばかりで瞼を開こうともしなかった。図鑑で調べてみると、どうやらツバメの若鳥らしかった。  その日は夜も遅かったので、翌日、母に動物病院へ連れて行ってもらうことにした。タオルを敷いた箱の底でうずくまる小鳥を見守りながら、琢真は気が気でなかった。どうか死なないでほしい、明日になったら病院に連れて行ってあげるから、と、縋るような気持ちで祈った。  そうして身体を良くしたら、僕の家族になってほしい――  ところが翌日、学校から帰るとあのツバメがいない。まさか死んだのかと母に問うと、探しに来た親鳥とどこかに飛び去ってしまった、という。これは琢真も後で知ったことだが、そもそも野鳥を勝手に飼育することは法律で禁じられている。どのみち、あの子を家族に迎えることはできなかったのだ。そんな事情など知らない当時の琢真は、あの子が無事に家族に会えたことにほっとしながら、一抹の寂しさを噛みしめてもいた。あの子にとって、自分はひとときの休息を得るための止まり木に過ぎなかったのだ。  その寂しさを。  数年後、前の中学の制服に身を包んだまま教室に現れた新顔を目にした瞬間、なぜか琢真は思い出していた。男にしては小柄という以外、あの子とは似ても似つかぬ転校性。 「小鳥遊賢治です。よろしくお願いします」  そう、転校生は名乗った。人形のように端正な顔をにこりともさせずに。    三十歳を前にして腹に肉がつきはじめた。  さいわい、まだ薄皮一枚程度の緩みではある。ただ、このまま気を抜くと一気に厚みを増しそうな予感があり、体型維持のためにも先月から朝のランニングを始めている。店の開店は午前十時。出社は九時半だから、七時の今は充分に余裕がある。起き抜けにラジオ体操、次いで四十分ほど近所の河川敷を走ると、それだけで前日溜め込んだ余分なカロリーが、疲労やアルコールと一緒に抜ける感じがする。  ランニングコースの途中に、堤防を上がるコンクリートの階段がある。その前を横切るさい、琢真はいつも、見るともなくそちらに目を向けてしまう。そこは実質、休憩用のベンチと化していて、とくに朝は、いつ見ても小休止中の老人の姿がある。初夏のこの時期は気候が良いから猶更だ。  その中に、つい、琢真は探してしまう。  記憶の底に残る、でも決して見つかるはずのない顔。でも結局見つからず、その事実を、それもそうかと冷ややかに受け入れる。見飽きた金ローのジブリ映画に、それでも一応ハラハラはするみたいに、もはやルーティンと化した情動。  だから。  そこに記憶どおりの顔を見つけた琢真は、一瞬、それを現実だとは受け止めきれず、いつものように行き過ぎてから、「いや待て」と足を止めて振り返った。  やっぱりそうだ、あれは――  それでもなお、半信半疑のままのろのろと男に歩み寄る。この頃になると、さすがに男の方も琢真の視線に気づいていて、身構えるような目を返してくる。ただ、皮肉にもその頑なな視線が、琢真の中に残る疑問を確信へと変えた。 「賢治、か」  一瞬、「くん」をつけるべきか迷い、結局、あの頃と同じ呼び方で彼を呼ぶ。すると男――賢治は、あからさまに虚を突かれた顔をすると、やがて「あ」と短く声を漏らした。 「ひょっとして・・・琢真?」 「ああ・・・うん、久しぶり。ていうか・・・」  どうしてお前がここに。旅行か? だとしても、その恰好は――と、不躾を承知で旧友の姿を上から下まで検める。よれよれのチノとカッターシャツ。履き古したスニーカー。頭は寝癖だらけで、同じだけだらしない寝起きじみた顔には、明らかにファッション用ではない無精髭がぽつぽつと伸びている。旅行者というより、朝飯の調達に這い出た休日の社畜といった趣き。  かつての賢治は、それこそ頭の先から爪先まで嫌味なぐらいきっちりと整えられていた。丁寧に梳かれたつややかな黒髪。皺ひとつないシャツとパンツ。丹念に磨き込まれたローファー。その完璧さ、というより隙のなさが、持って生まれた綺麗な顔立ちとも相まって、冷たい印象を教室に振りまいていたことを覚えている。  ところが、目の前の賢治は明らかに不審者一歩手前の怪しい風体で、むしろ、よくコレを奴だと気付いたなと、そんな自分に琢真は驚く。  一体、こいつの身に何が……? そんな疑問をひとまず胸に押し留め、朝食に誘うと、賢治は文句も言わず、ただ影のようについてきた。ちょうど近場に最近オープンした全国チェーンのカフェがあり、さっそく賢治を連れ込む。汗を吸ったランニングウェアでの入店は若干気が引けたが、さいわい店内は空いており、周囲の目を気にする必要はなさそうだった。  ボックス席に、賢治と二人で向き合うように着く。テーブルのタブレットでモーニングセットを二つ注文すると、ほどなく二人分のコーヒーが、料理に先行して運ばれてくる。  賢治は、相変わらずぼんやりしていた。よく見ると、その目元にはぎょっとするほどどす黒い隈が浮かんでいる。 「とりあえず飲めよ」  すると賢治は、我に返ったように顔を上げ、のろのろとコーヒーカップを手に取る。一口啜り、ほ、と溜息をつくと、店に入って初めて琢真と視線を合わせた。口元に浮かぶ笑みはしかし、油の切れた機械のようにぎこちない。 「なんというか・・・見違えたな、琢真」 「いや、そりゃこっちの台詞だよ。正直、お前があの賢治だって今でも若干信じられないぐらいだ」 「僕が? いや・・・僕は元々カッコいいだろ」 「は? いきなり何の話だよ。・・・とにかく、その・・・何があったんだ。言える範囲でいいから教えてくれよ」  すると賢治は、痩せた肩を軽くすくめる。ただ、表情は相変わらず暗い。 「ちょっと、な。大人の夏休み・・・ってやつ?」  その、岩でも引きずるような口調に琢真は察する。おそらく・・・激務かパワハラで心身を壊し、今は休職中の身なんだろう。さもなければ、昔は万事そつのなかった賢治が、こんなみっともない格好で外を出歩くわけがない。 「んで、どうせ長く休むなら、いっそ東京を離れてみようかな、って」 「東京? ・・・へぇ、やっぱ戻ってたのか」  彼の地元は東京だと、昔、世話話のついでに聞かされたことがある。父親が官庁勤めで、一年おきに忙しく転校を繰り返しているのだと。琢真の校区には県だか国の官舎があり、そのような転校生は珍しくなかった。 「うん・・・あの後はずっと東京だよ」 「ずっと? ってことは・・・就職も?」 「まぁ、うん」  その、東京の職場で何があったのかと、喉元まで出かかるのを堪えながら琢真はコーヒーを啜る。昔はともかく今の賢治との距離感がいまいち掴めない。そんな相手に、一体どこまで踏み込んでいいのか。  やがて、サービスのトーストが運ばれてくる。それを賢治はプレーンのまま口に運ぶと、無感動にもそもそと齧りはじめる。いかにも大儀そうな食べっぷりに、「もう朝は済ませたのか?」と琢真が訊くと、「最近ずっとこの調子なんだ」、と、力なく賢治は笑った。せっかく食べたものを戻してしまうことも多いらしい。 「病院には行ったのか?」 「そりゃ、ね。診断がないと休めないだろ。・・・鬱病だとさ。まぁ僕自身、あんまりピンと来てないんだけど」 「鬱病!? えっ、やっぱりあれか、過労のせい・・・?」 「多分ね。直近の残業時間も、月150を超えてたし」 「150!? いや、それ完全に労基案件だろ! え、相談は?」  すると賢治は、なぜか渋い顔をする。それが、啜ったコーヒーの苦みのせいだけでないことは明らかだった。 「うちは・・・その、労基は入れないんだよ。例外というか」 「例外? どういう意味だよ」 「霞が関なんだ、うちの職場。だから」 「・・・霞が関」  つまり、中央庁省に勤めている、ということか。 「あそこには、労働基準監督署は介入できない。代わりに、人事局ってとこが労働状況の監督に当たってるんだけど、所詮、身内だからね。どうあってもチェックは甘くなる」 「へぇ、そりゃ・・・大変だな」  賢治は昔から、抜群に頭が良かった。定期テストでは、満点以外を取ったところなど見たこともない。きっと大学も良いところに進み、難しい試験や面接をパスして今の職場に就いたのだろう。その結末が、まさか鬱病で休職だなんて。  結局、二枚ある賢治のトーストの一枚は琢真が手伝った。コーヒーが空になり、おかわりを注文しかけたところで腕の時計が目に入り、やむなく断念する。出社時間が迫っていた。 「こっちじゃホテルを取ってるのか?」  店を出たところで、さりげなさを装いつつ賢治に訊いた。実は「長い夏休み」と耳にした時から温めていた質問だとは、口が裂けても言えなかった。 「ああ、駅前のビジホに。ただ・・・長く居ることになりそうだから、今日あたり、マンスリーを探そうかと思ってる」 「マンスリー、か。・・・そういやさ、今、うちの単身向け物件が一つ空いてんだけど」 「うちの? ああ、そういやお前んち、地主だとか言ってたな」 「あはは、覚えててくれてたんだ」  しれっと返しながら、地主の子という、自分でも恵まれていると自認する環境に久しぶりに面映ゆさを感じた。そういえば、琢真にそうした環境への拗れた自意識をぶち壊すきっかけを与えたのも、この旧い友人だった。 「そう。でさ、お前さえ良ければ短期で貸せるけど、どうする?」  本来、琢真の物件はマンスリーのような超短期貸しには応じていない。が、そこはオーナー権限でどうとでもなる。そういう力を琢真は持っている。  琢真の勧めに、賢治は何かを考え込むように睫毛を伏せた。その、びっくりするほど長い睫毛に、そういえば昔もこの長さにびびったんだよな、と琢真は古い記憶を呼び起こす。その際にきざした淡い感情も。  ・・・いや、あれは淡いなんてものじゃなかった。  やがて賢治は「わかった」と顔を上げる。 「ありがとう。じゃ、お願いしていいか」 「おう」  気前よく返事をしながら、やっぱりあれは淡くなどなかったんだなと琢真は思い知る。あれから十五年もの時が過ぎて、なのに、まるで色褪せない感情。むしろそれは、漬け込んだまま存在自体を忘れていた果実酒のように、人知れず暗がりの中で熟し、あの頃にはなかった芳香すら漂わせている。  淫らさすら伴う、妖しげな匂い。  あの場所で小鳥遊賢治と会ったのは、ただの偶然だった。  その日は、琢真が買い集めるコミックの発売日だった。学校が終わると、琢真は一旦家に戻り、学ランから私服に着替えて自転車で駅へと向かった。一応、自宅近くにも本屋はあるが、駅前の大型書店で買うとポストカードの特典がつく。それを目当てに、中学に上がった頃から漫画の類は主にそちらで購入していた。  琢真の住む街には一応いくつか駅はあるが、一般に駅といえば、市内最大で、かつ唯一の新幹線停車駅でもあるターミナル駅を指す。その駅方面に向かうには、河川敷の遊歩道を走るのがいちばんの近道だ。  夕方の河川敷は、犬を連れた散歩中の老人や、下校中の高校生がひっきりなしに行き来していた。底の砂利を洗うようにちろちろと流れる川は、あとひと月もすれば打って変わって橋桁に迫るほど増水するだろう。ちょうど田んぼの取水時期に当たる五月の今だけ許された、川沿いの穏やかな光景。  やがて、堤防を上がる階段に差し掛かる。そこは、地元の学生には言わずと知れたカップルの溜まり場で、この日も数組の男女が肩を寄せ合い、独特の甘い雰囲気を振りまいていた。のちに身長一八〇を超え、業界紙ではイケメン経営者などと持て囃される琢真だが、この頃はまだ、平均より少し背が高いだけのもやしっ子の部類で、異性とはほとんど関わりを持てずにいた。なのでその、通称〝ラブラブ階段〟のことも、横目で舌打ちまじりに素通りするのが常だった、のだが、この日に限ってはそうもいかなかった。明らかに場違いな顔を見つけてしまったからだ。 「・・・小鳥遊くん?」  自転車を止め、声をかける。すると転校生は、膝に開いた塾のテキストから大儀そうに目を上げ、「あ」と短く声を漏らした。 「ええと、同じクラスの・・・」 「うん、大楠。で、小鳥遊くんはここで何してんの」 「何って・・・塾まで少し時間があるから」  その隙間時間に少しでも勉強を、ということらしい。 「そう。あ、いや、勉強なら好きにしてもらって構わないんだけどさ・・・ただ、ここカップル専用だから」 「カップル専用?」  転校生は周りを見回すと、今はじめて場の雰囲気に気づいた、という顔でバタバタとテキストをバッグにしまい、跳ねるように立ち上がった。 「気付かなかった」  琢真と同じ駅方面へと歩きながら、そう、転校生はうんざり顔で吐き捨てた。 「まぁ、引っ越してすぐなら仕方ないよ。俺らは、小学校の頃からああいう場所だって知ってるけど。――ちなみに夜行くと、あそこでヤッてるカップルとか見られるらしいぜ」  すると転校生は、やめろとばかりに琢真を睨みつける。その顔はしかし、頬どころか耳の先まで真っ赤に染まっていて、こいつも俺と同じ中学生なんだな、と、今更なことを琢真は思った。普段は万事そつがなく、言動も大人びて見えるから、てっきりこの手の話題には興味がないものと思い込んでいた。  それは、クラスの連中も同様だろう。実際、この手の話題を彼に振る生徒を琢真は見たことがない。つまり・・・今こうしてエロい話で頬を赤らめる転校生の姿を知るのは、あのクラスでは琢真一人なのだ。  そのことが、琢真には妙にくすぐったく感じられた。  思えば、この転校生に琢真は最初から特別な印象を抱いていた。当初は、小鳥遊、という独特な苗字のせいだと思った。が、彼と同じクラスで過ごすうち、それだけが理由ではないことにやがて琢真は気づいた。  ここにいるのに、ここにいない。  彼にとって、教室は居場所でも何でもなかった。何かの間違いで鳥籠に囚われた小鳥のように、彼の心はいつも、ここではないどこかを眺めていた。その佇まいを、あの子と――琢真の見守る箱の中でじっと蹲ったまま、ここから逃げ出すための余力を蓄えていたあのツバメの子と、知らず知らず重ねていたのだ。  空を目指す鳥は、いつかきっと飛び去ってしまう。  毎年のように迎えては見送る、官舎住まいの転校生たち。別れは、慣れたはずだった。少なくとも、これまで出会った転校生たちとの別れは、寂しくはあっても痛みを伴うことはなかった。  じゃあ、この子とは?  相変わらず転校生は、琢真の隣をうんざり顔で隣を歩いている。どこまでついてくるんだと言いたげな顔だが、彼の通う塾もそれに琢真の目的地も、残念ながら同じ駅前にある。 「小鳥遊くんってさ、地元どこなの?」 「地元? ・・・東京、に、なるのかな、一応」 「一応?」 「うん、産まれたのは福井なんだけど、正直、何も覚えてないし。でも本籍は一応、東京にあるから」  その東京にも、一年しか住んだことがないんだ、と、溜息まじりに転校生は続けた。 「ここも、来年には引っ越すんだと思う」  だから僕と仲良くしても無駄だ、と言いたげな口ぶりだった。が、琢真は気づいていた。そう吐き捨てた転校生の横顔が、ほんの一瞬覗かせた寂しさと痛み。ああ、こいつも傷ついているんだ。それを、琢真だけが拾い上げた。  今度こそ逃がしたくない――何故か、そう思った。 「なぁ、駅前に美味い饅頭屋があるんだけど・・・行くか?」 「・・・え?」  振り返った転校生は明らかに迷惑顔で、ただ、その目に宿る一抹の期待を、琢真は見逃さなかった。  駅前の一帯は、その後の再開発で見違えてしまうが、当時はまだ小汚い個人商店が鈴なりに軒を連ねる素朴な地区だった。その中でも、ひときわ年代を感じさせる老舗和菓子屋は、いつ行っても店頭の蒸し器で盛大に酒饅頭を蒸していた。その、知る人ぞ知る地元名物をひとつ奢ってやると、転校生は、最初のひと口は半信半疑で、残りは貪るようにぱくついた。普段は貝のように真一文字に結んだくちびるが、ふかふかの饅頭に旺盛にかぶりつくのを、琢真は、自分の饅頭が冷めるのも構わずに見守った。 「ありがとう。おかげでいい店を知った」  瞬く間に饅頭を平らげた後で、転校生は、やけに大人びた口ぶりで饅頭代を差し出してきた。君に借りは作らないよと言わんばかりの――だが、琢真は気づいていた。教室でノリの合わないクラスメイトを突き放す時とは違う、冷たさの中に見え隠れするこれはきっと、寂しさだ。ついさっき「来年には引っ越すんだ」と吐き捨てた時に見せたそれと同じ。 「じゃあ……次はさ、俺の行きつけのラーメン屋に連れてってやるよ。時間、大丈夫か?」  すると転校生――小鳥遊賢治は、長い睫毛を驚いたように瞬かせると、やがて、照れ混じりの上目でこくりと頷いた。 「うん・・・まだ大丈夫」  さっきの「ありがとう」とは打って変わった年相応の口ぶり。その、素朴で幼い響きに、改めて琢真は、逃がしたくない、と思った。  それから琢真は、毎日のように賢治と一緒に学校を出た。琢真は用もないのに塾までの道を賢治と歩き、その日の二人の腹具合で、饅頭やラーメン、お好み焼きなんかを駅前で一緒に食べた。それまでも賢治は、塾がある日は外で一人で夕食を摂っていたらしい。父子家庭で、しかも唯一の家族である父親は深夜まで家に帰らない。どのみち家に帰ったところで、一人であることに変わりはないからだ。  ただ、見知らぬ町では安くて美味い店などそう簡単には見つからない。なので結局、塾近くのマックに落ち着くのが常だったそうだ。 「じゃ何であの時ラブラブ階段にいたんだよ」  ある時、いつものラーメン屋で琢真は訊いた。たしか、駅の中に小さなハンバーガーショップがあったはず。すると賢治は、れんげに掬った豚骨スープを旨そうに啜りながら答えた。 「だってあそこ、イートインスペースがないだろ。かといって、ポテトの匂いぷんぷんさせながら自習室で食べるわけにもいかないし。だからコンビニでおにぎり買って、あの階段で食べてたんだよ。眺めも良いしさ」  確かに、眺めはいい。だから恋人の溜まり場と化してしまったわけで。 「でも・・・結果的には良かったと思う。おかげで、その土地ならではの店をいろいろ開拓できたから」  それは俺のおかげ? と、喉まで出かかる問いを、琢真は一人だけ頼んだ替え玉の麺と一緒にぐっと呑み込んだ。  賢治の模試がない休日は、二人で地元の名所を回った。元は城下町として発展した琢真の町には、紹介しようと思えばいくらでも名所があった。賢治の方からリクエストを受けることも多かった。歴史にも詳しい賢治のおかげで、再発見できた地元の魅力は少なくない。  その年の夏休みは、琢真にとって一番思い出深いものになった。相変わらず賢治は模試や塾の夏講習で忙しかったが、その合間を縫って、二人はめいっぱい遊び回った。プールで、近所の裏山で、そして、これも地元の人間だけが知る特別な川釣りスポットで。  それは、あと数日で夏休みが終わろうという八月の終わり。この日も二人は、いつもの鉄橋の下で丸一日川釣りを楽しんでいた。釣果は散々だったが、そんなことは琢真に言わせればどうでも良かった。川面をぷかぷかと漂う浮きを二人して眺めながら、最近読んだ漫画のこと、もうすぐ発売されるゲームのことを取り留めもなく語った。賢治は漫画も読まずゲームもしないが、琢真の話に終始楽しそうに相槌を打っていた。  その帰りみち、賢治は疲れたと言って堤防の階段に腰を下ろした。そこは、よりにもよってあの忌まわしきラブラブ階段で、こんな所に一秒だって留まりたくない琢真は、「さっさと行くぞ」と友人を促した。階段には、すでに何組もカップルが腰を下ろしていて、男二人では居心地が悪いったらなかった。 「いいじゃん、座りなよ」 「やだよ、男同士でなんて」  すると賢治は、一瞬、ひどく寂しい顔をした。すぐに笑みを取り戻したが、割れた皿やカップをいくら継いでも罅そのものは残るように、賢治の笑みには明らかにぎこちなさが残っていた。  寂しいのだろうか、こいつも。 「じゃ・・・少しだけな」  しぶしぶ、という体で隣に腰を下ろす。すると賢治は「ごめんな」と、また寂しく笑った。どうして謝るんだ。そう問い返すよりも先に、賢治は川面に目を向けてしまう。その、出会った頃に比べると格段に焼けた横顔をぼんやり眺めながら、綺麗な顔だな、と改めて琢真は思った。形の良い鼻筋。頭の良さが滲み出たような切れ長の眉目。それから・・・琢真が教える地元グルメを、いちいち旨そうに頬張る小ぶりのくちびる。川面からの風を受けてさらさらと揺れる、絹のように細い黒髪。長いまつ毛―― 「なに?」  視線に気づいた賢治が振り返る。そのくちびるを、気づくと琢真はそっと啄んでいた。それが、一般にキスだと呼ばれる行為だと遅れて気づき、混乱した琢真は、とりあえず川面に目を戻す。違う。キスじゃない。顔を近づけたら賢治が振り返って、それで、たまたまくちびるが触れただけ。  そうに違いない。そうじゃなきゃ、困る。 「・・・帰ろうぜ」  促し、立ち上がる。そんな琢真に、賢治は無言のまま従った。  その後、二人はまっすぐ帰路についた。その間、琢真は何度もさっきのことを詫びようとし、でも結局、最後まで謝ることはできなかった。理由は、琢真にもわからなかった。ただ、あれを偶然だと言い切ってしまうと、琢真の中の何か大切なものが、しゃぽんだまみたいにパチンと弾ける予感があった。  賢治も無言を貫いていたが、多分、たちの悪いいたずらに怒っていたのだろう。そんな賢治を、いつの間にか早くなった夕暮れが赤く照らしていた。夏が、終わろうとしていた。 「じゃ、次は始業式でな」 「うん」  いつもの路地で別れる頃には、賢治の顔には普段通りの笑みが戻っていた。きっと数日後の九月一日には、何事もなかったように教室で再会するんだと、この時の琢真は信じて疑わなかった。  友人からこんな電話がかかってきたのは、二学期の始業式を明日に控えた八月末日の夜のことだった。 『なぁ大楠。ラブラブ階段でさ、お前と小鳥遊がチューしてるの見たって奴がいるらしいんだけど・・・嘘だよな?』  二人を標的にいじめが始まったのは、二学期に入って間もなくだった。  クラスメイトに声をかけてもあからさまに無視される。そのくせ琢真の背後では、いつも誰かがくすくすと笑い合っていた。同様の嫌がらせを賢治も受けているらしかったが、何とかしなければと手をこまねいているうちに、いじめはみるみるエスカレートしていった。まず上履きがなくなり、次いで、ノートや教科書への落書きが始まった。さすがに実害が生じるようになると、賢治のためにも黙っていられない――が、庇えば、今度は例の噂を裏付けることになってしまう。琢真には、手の出しようがなかった。  そんな日々がひと月ほど続いた十月半ば。この日も、漫画の新刊が欲しくて駅前の大型書店に向かっていた琢真は、あのラブラブ階段に意外な人物を見つけた。 「・・・賢治」  琢真の姿に気づくと、賢治はすぐに駆け寄ってきた。どうやら琢真を待っていたらしい。 「や、久しぶり」 「よせよ・・・誰かに見られたら、またいじめられる」  この半月ほど、琢真は賢治に一度も声をかけなかった。当時はまだ幼かった琢真は、そうする以外にいじめから友を守る術を持たなかった。  それは、琢真なりのけじめでもあった。  そもそも、二人がこんな事態に陥ったのは琢真のせいだった。あの日〝うっかり〟賢治に口づけなければ、「ホモ」だの何だのと陰で笑われることもなかったのだ。ならばせめて、琢真一人でこの状況を何とかしなければ。  そんな琢真の覚悟など知らない賢治は、不安顔で琢真を見上げる。 「ひょっとして、迷惑だったか?」 「迷惑? いや、俺の方はどうだっていいんだ。むしろ・・・賢治の方こそ心配だよ。慣れない土地でひどい目に遭って」  すると賢治は、「僕は別に」と軽く肩をすくめる。 「どうせ、来年にはまたどこかに引っ越すんだろうし」  その横顔に、またしてもあの色がよぎるのを琢真は見逃さなかった。夏のあいだは一度も見ることのなかった、諦めを伴う寂しさの色。日に日に涼しさ、というより肌寒さが増し、同じだけ空の青が冷たさを増す季節に、その色は妙に馴染んだ。 「むしろ、琢真の方こそしんどいんじゃないか」 「俺が?」 「うん。だって・・・これからもずっと、この町で暮らすんだろ。地主って言うからにはさ」  その指摘に、今更のように琢真ははっとした。ああそうだ、俺は、これからもずっとこの町で生きていかなくちゃいけない。  琢真の家は代々、この一帯の地主だった。近隣の開発が始まった祖父の代から畑を潰し、賃貸用のマンションやアパートを建てはじめた。それらを管理するための会社も自前で設立し、さらに、別の大家からも管理を請けるようになった。今では、『大楠不動産』といえば地元ではそこそこ知られた賃貸管理会社だ。  現在は父が会社を引き継ぎ、本店も含めた市内十店舗を切り回している。その椅子に、いずれは琢真がつくことになるのだろう。それは同時に、琢真が一生この町から逃れられないことを意味した。 「だったらさ、ホモなんてレッテルは余計に困るだろ」 「――っ」  ああ、そうだ。  今更のように琢真は気づく。このままでは琢真は一生「ホモ」と後ろ指を指され、生きることになる。大人になった今の琢真なら、そうした偏見にも胸を張って抗うことができるだろう。だが、この頃の琢真はまだ中学生だった。  知識も世界観も、何もかもが未熟な。 「うん・・・まぁ」 「嬉しかった」 「えっ」  振り返ると、なぜか眩しそうに琢真を見上げる賢治と目が合った。その、泣き笑いじみたぎこちない顔に、あれはうっかりなんかじゃなかったんだな、と、不意に琢真は思った。  そうか、俺は欲しかったんだ、こいつが。  そんな琢真の、自覚した欲望への戸惑いなど知らない賢治は、相変わらずまっすぐに琢真を見上げる。 「僕みたいな付き合いの悪いよそ者と、こんなに仲良くしてくれて。本当に・・・嬉しかったんだ」 「急に、何の話・・・」  いや、本当は気づいていた。これは、賢治なりの「さよなら」だと。だとしても・・・この時の琢真に何が言えただろう。自分とつるめば不名誉なレッテルで笑われる。このまま距離を置いてくれた方が、賢治のためにもベストなのは間違いない。だから・・・  じゃあ、この、見つけてしまった感情は?  秋口に比べてさらに早まった夕暮れ。その、血のように真っ赤な光の中で、賢治の顔は、なお蒼褪めて見えた。その中で、何かを押し殺すように震えるくちびるを、今度はうっかりではなく本気で奪いたくて、でも、できるわけがないんだと琢真は自分に言い聞かせた。そもそも、この状況を招いたのがあの日のキスだったのだのだ。賢治をいじめに巻き込んだのも。  だからせめて、琢真も笑顔でさよならを。たとえそれが、割れるようなぎこちない笑みであっても。 「・・・いや、うん、俺も、楽しかったよ」  事件は、その翌日に起きた。  その日のいじめは、これまで以上に度が過ぎていた。まず登校すると、靴箱に大量のゴミが押し込まれていた。それはいつものことだったが、問題はその後だった。ゴミを掻き出し、床に散らばったそれらを箒で集めていると、どこかで待ち伏せていたらしい数人のクラスメイトが、背後から琢真の頭にゴミ箱を被せてきたのだ。 「ホモ野郎!」  箱の外から、そう叫ぶ声とともに蹴りが入れられた。ゴミ箱もろとも琢真は吹っ飛び、床に打ちつけられた衝撃で肩に嫌な感触が走った。続いて、ちぎれるような激痛。その、あまりの痛みにうずくまる琢真を、さらに執拗な暴力が襲った。ゴミ箱越しに加えられる蹴りは、痛みこそ少なかったが琢真の心に屈辱を刻むには充分すぎた。暴行は、別クラスの生徒が教師に通報するまで続いた。  その後、保健室に運ばれた琢真だったが、保険医に脱臼を疑われ、すぐに近くの病院へと運ばれた。レントゲンの結果、やはり肩は脱臼しており、とりあえず今日は学校を休むよう医師に勧められた。が、それができない事情が琢真にはあった。  もし、これと同じ目に賢治が遭っていたら。  午後。おそるおそる学校に出てみると、すでに教室では五限目が始まっていた。琢真の姿を認めたクラスメイトたちは、何がおかしいのかくすくすと笑いはじめた。そこにはあの「ホモ野郎」と叫んだ声の主もいて、他にも犯人が多数紛れていることは想像に難くなかった。・・・いや、そんなことはこの際、どうだってよかった。問題は賢治だ。  おそるおそる席に目を向けると。さいわい賢治は無事だった。その目は、琢真を――正確には、琢真の腕を吊るサポーターをじっと見つめている。やめろよ、今度はお前が標的になっちまうぞ―― 「いいですか」  ふいに賢治は挙手をする。板書を止め、どうした、と振り返る数学教師。あからさまな渋面は、以前、賢治に式の間違いを指摘されたのを思い出したせいだろう。  くすくす、と誰かがまた笑う。その声に――教室に漂う冷ややかな空気に、ふと琢真は、胸の底がぞっと冷たくなる。これが俺の町。俺の地元。事実などそっちのけで、好き勝手にレッテルを張り、他人を嘲笑う。そういう連中と、これから一生、同郷として暮らしていかなきゃいけない。  そうした空気の中、つと賢治は立ち上がる。泥沼からさっと飛び立つ水鳥が見えた気がした。 「ホモは僕だよ」 「――え?」  一瞬、教室の空気が冷ややかさを通り越して凍りつく。見ると、全員の目が賢治に集中している。一方の賢治は、気まずい空気などどこ吹く風で教室を静かに睥睨していた。 「大楠じゃない。僕が大楠を好きで、一方的に絡んでたんだ。いじめるなら僕をいじめろよ」  それだけを言い切ると、賢治はまたさっと席に戻る。見ると、それまで騒がしかった教室は水を打ったように静まり返っていた。  そんな中、琢真だけがこみ上げる怒りに震えていた。お前らいじめはいかんぞと、取ってつけたように始まった教師の説教も、琢真の耳にはまるで入らなかった。  授業が終わると、待ち構えいてたように賢治に声をかけた。周囲でまた汚い笑いが起きたが、琢真は構わなかった。 「何なんだよ、あれ」  すると賢治は、塾のテキストから大儀そうに顔を上げた。その光景にふと琢真は既視感を覚え、そういえば、ラブラブ階段で初めて賢治と出会った時もこんな目で睨まれたな、と思い出す。 「言っただろ。僕は、あと半年我慢すればそれでいい。ここは、僕が泥を被るのがいちばん合理的なんだ」 「は? 何だよ合理的って、お前・・・」  ところが賢治は、話は終わりだとばかりに塾のテキストに目を戻す。背後でくすくすと笑う声がし、それが、やけに琢真の癇に障った。そんな琢真の目に、誰かの机がふと映る。今は空席のそれを琢真は、彼自身も驚くほど乱暴に蹴り飛ばした。激しい金属音とともに吹っ飛ぶ机。中の教科書やペンケースが床にぶちまけられたが、琢真は拾うそぶりも見せなかった。  つい先刻まで嘲笑に支配されていた教室の空気は、今や完全に凍りついていた。あ、キレた、とどこかで笑う声がしたが、そこに滲む怯えの色を、琢真は聞き逃さなかった。  これからは、こうやって生きるしかないんだな。  正直、くだらないとは思う。が、こうした暴力的な一面もアピールしなければ――舐められたままでは、賢治を、守るべき誰かを守り抜くなんてできやしない。 「次はマジで殴るぞ」  またどこかで笑う声がした。琢真は、今度は躊躇しなかった。声の主を即座に特定すると、使えない腕の代わりに思いっきり頭突きをかました。  帰宅後、琢真はその日の出来事を祖父に打ち明けた。幼い頃から琢真は、家の権威に縋ることは恥だと思っていた。とりわけ、地元の議員にすら顔のきく祖父に頼めば、教育委員会にだって容易に話を通すことができた。  でもそれは、琢真自身の力じゃない――そんな綺麗ごとを弄ぶ心の余裕は、今の琢真にはなかった。  祖父はすぐさま顧問弁護士に相談を入れ、加害生徒の保護者を訴える準備を始めた。話はまたたく間に広がり、あれほど激しかったいじめは嘘のように呆気なく収まった。たまに、これだから金持ちの子はといった陰口も聞こえたが、琢真は気にも留めなかった。賢治を守れるなら親でも何でも使う。その覚悟は、とうの昔に固めていた。  それだけのことをしても、賢治は二度と口をきいてはくれなかった。学校が終わると、琢真は毎日、あのラブラブ階段で賢治を待った。が、あれきり彼が河川敷を通ることは一度もなかった。ここで琢真が待ち構えているのを察して、ルートを変えていたのだろう。  それでも琢真は待ち続けた。木枯らしが吹き、冬が訪れ、冬が深まり、年が明けても、琢真は、あの冷たさの中に寂しさが覗く綺麗な横顔を待ち続けた。ポケットの中で懐炉を握りしめ、マフラーに鼻まで顔を埋めながら――  それは、二月にしてはやけに暖かい日だった。  いつものように登校すると、教室に賢治の姿がなかった。てっきり風邪で休んでいるのかと心配した琢真だったが、その後、朝のホームルームで担任に意外な事実を告げられた。すでに賢治は、次の転校先に引っ越してしまったという。 「何でも、急な転勤だったそうで。一応、引っ越し先の住所は教わっていますから、連絡を取りたい人は聞きに来てください」  そう告げる担任の声は、もはや琢真の心には届かなかった。せめて・・・別れの時ぐらいは、何かしら挨拶があるものと思っていた。少なくとも、琢真と親しくできて嬉しかったと明かしたあの目に嘘はなかった。それとも、また思い過ごしを? 懐いてくれさえすれば、手元に留まってくれると一方的に期待した。そんなはずはないのに。  季節が移れば、渡り鳥は旅立ってしまうのに。  結局、賢治の新しい住所は聞かなかった。手紙など書いたところで賢治は戻らない。いくら手を伸ばしても、もう、あいつに届くことはないのだ、と。  そうして琢真は、賢治に対する感情に蓋をすると、誰にも――自分にさえも見つからないよう、心の深い場所にそっと沈めた。  インターホンを鳴らしたが、いっこうに返事がない。悪いと知りつつ、会社で管理する合鍵でオートロックをパスする。そのまま玄関ドアも開くと、沓脱に、見覚えのあるスニーカーが置かれていた。新しい靴を買った様子はないから、一応、在宅中ではあるのだろう。  足音を殺し、そっと奥に進む。短い廊下の先にドアがあり、その奥に、リビングと洋室が設けられている。十畳ほどのLDKには、やはり部屋と一緒に貸し出したテレビとローテーブル、それから二人掛け用の小さなソファ。  そのソファに、賢治は糸の切れた人形のようにころりと横たわっていた。あまりにも青白い寝顔に、一瞬、ぞっとなった琢真だったが、よく見ると肩が小さく上下していて、とりあえずほっと胸を撫で下ろす。  ただ、相変わらず目の下の隈は濃い。  リビングの隣は六畳の洋間で、やはりレンタルさせたシングルベッドが置かれている。そこから掛け布団を剥ぎ取ると、リビングに引き返し、今なお死んだように眠る賢治にそっと被せてやる。眠りはそこまで深くないのか、時折、琢真の気配を察するように長いまつ毛をひくつかせている。  そのまつ毛に指先を伸ばしかけ、いや、と琢真は思い留まる。・・・駄目だ。賢治は傷を負ってこの町に来た。今はただ、その傷を癒してほしい。無為に熟れた琢真の感情など、知らなくてもいいんだ。  気を取り直し、キッチンに向かう。持参した保冷バッグからタッパーを取り出すと、それらを次々と冷蔵庫に移してゆく。  タッパーの中身は、今の時期らしくさっぱり系と辛い系とを中心に揃えている。きゅうりの浅漬けと茄子の揚げ浸し、ゴーヤチャンプルー、麻婆豆腐、それにカレー。いずれも、琢真が自分で調理したものだ。一応この部屋には、立派なカウンター式のシステムキッチンを備えているが、賢治の様子を踏まえるに、とても料理のできる状態ではないだろう。  ご飯は、やはり琢真の部屋で炊いたものを一食分ずつラップに小分けし、冷凍してある。これだけあれば、少なくとも二日は持つはずだ。賢治が、人並みに食事を摂ってくれるならという前提つきだが。  おかずの類を冷蔵庫にしまいこむと、続いてケトルでお湯を沸かし、実家に届いたお中元の山から失敬したインスタントコーヒーを溶かす。家電製品は全てレンタルだが、食器の類は琢真の私物を貸している。後者は、もちろん特別サービスだ。友人としての。  そのコーヒーを啜りながらリビングに戻る。テレビをつけると、どこかの局の情報番組が映る。トピックは最近財務省で発覚した文書改竄問題で、元野球選手だというコメンテーターがしかつめ顔で気炎を吐いていた。これは現政権の責任だ、総理は責任を取って辞任を――この数週間、ワイドショーはずっとこの調子だ。 「・・・う、」  小さく呻く声が聞こえて琢真は振り返る。見ると、賢治がもそもそと身を起こしている。やっぱ勝手に入るのはまずかったかな、と、今更のように琢真は思う。昔の親しかった頃ならともかく――そんな琢真の懸念をよそに、賢治はテレビに目を向ける。  その目が、す、と音もなく凍りつく。 「どうした?」 「えっ? ・・・あ、いや、何でもない」  ソファに座り直すと、賢治はリモコンに手を伸ばし、テレビを消す。そんな賢治の疲れきった横顔を眺めながら、まぁ確かに、気分のいい話じゃないよなと琢真は思う。鬱病を患うほど働きづめに働いて、挙句、国民からは権力の犬だのと叩かれて。 「コーヒー飲むか?」 「うん・・・貰う。てか、あるの」 「実家からパクってきた。瓶ごとやるから自由に飲んでくれ」  すると賢治は、「ありがと」と素直に礼を言う。とりあえず、琢真の不法侵入を咎めるそぶりはない。 「飯はどうする」 「飯? ・・・いや、それは、いい」 「いや食えよ。一応、冷蔵庫に作り置きを入れといたから」 「作り置き?」  答えの代わりに、琢真は軽く手招きする。のろのろとキッチンに移った賢治に冷蔵庫の中身を見せると、賢治は「すご」と感嘆の声を漏らした。  「奥さんに作らせたの」 「奥さん? いやいや、いねぇってそんなの。自分で作ったんだよ」 「料理すんの? 実家暮らしなのに?」 「実は違うんだなぁこれが」  地元から一度も出たことのない琢真だが、実は、この十年ほど独り暮らしを続けている。  せめて大学ぐらいは他所に進みたかった琢真だが、地元志向の父が許してくれなかった。結局、地元の国立大に進んだ琢真だったが、そんな息子に、父は手頃な単身物件を住居として貸し与えてくれたのだ。気分だけでも独り暮らしを楽しめ、ということらしかった。なので、独り暮らしとは言ってもそれは〝なんちゃって〟が付く気楽なものだ。事実、頻繁に実家を出入りしてはタダ飯を食い、今回のようにお中元やお歳暮の山から必要なものを分捕っている。このゴーヤチャンプルーに使うハムも、どこかの内装業者からお中元で届いたものだ。  そうした事情を手短に語ると、賢治は「へぇ」と感心した顔をする。 「じゃ、結婚もまだなんだ。・・・意外」 「いや意外って何だよ。俺がモテねぇの、お前もよく知ってるだろ?」 「昔の話だろ。今は・・・正直モテるんじゃないか。かっこいし、今だってそのスーツめちゃくちゃキマってるじゃないか」 「えっ? いや・・・まぁ・・・」  琢真が、自分がモテる部類だと気づいたのは大学に入ってからだった。  琢真の顔は、流行りでこそないが造り自体は決して悪くない。精悍な顔立ちに、つり上がり気味の太眉。ぎょろりと大きな二重の目。その、どこか歌舞伎俳優じみた顔立ちは、大楠家の男が代々受け継ぐもので、若い頃の祖父はその顔で何人もの女性と関係し、今でも祖母の口からは当時の愚痴が絶えない。  さすがに今は会社も大きくなっているし、そもそも琢真の性格的にそうした無茶はできないが、それでも、女性の方から関係を求められることは多い。ただ、好きになる努力はしても、それが心からの感情に育ったことはない。誰と付き合っても、喉に刺さった小骨のような違和感が残ってしまうのだ。この人じゃない、少なくとも、あいつほどは夢中になれない――  その〝あいつ〟は今、揶揄う目でニヤニヤと琢真を見上げている。あの頃にも増して広がった身長差。今は、もう二十センチ近くは違うだろう。 「・・・お前は?」  すると賢治は、痩せて尖った肩をすくめ「そんな余裕、あったと思うか?」と自嘲気味に笑った。 「皮肉だよな。業務の効率化だの働き方改革だの、より楽な方へ舵を切るたびに、どんどん状況はしんどくなるんだ。まぁ世間様に言わせるなら、僕ら公僕は、それこそ休みなく働けってトコだろうけど」  とりあえず、恋人の類はいないらしい。そのことに安堵し、そんな自分を琢真は内心で嗤う。だから何だってんだ。 「でもそれで、せっかくの優秀な人材が潰れたらそれこそ損失だろ」  ケトルのお湯が沸き、新しく作ったコーヒーを差し出す。それを賢治は旨そうに啜ると、はぁ、と小さく溜息をつく。 「必要なのは納得感だよ。誰も、そんな難しいこと考えちゃいない」  そう吐き捨てる賢治の声には、疲労と、そして、乾いた失望とが色濃く滲んでいた。 「とにかく・・・今は休めよ。ちなみに、何か食いたいものあるか?」  すると賢治は「とくには」、と、やる気のない顔で即答する。 「いや、少しは考えろよ・・・まぁいいや、何か思いついたらLINEしてくれ」  賢治とは、すでにトークルームを開設している。賃貸契約のやりとりも、主にLINEを通じて行なった。メッセージは、いずれも事務的で素っ気ない文面だが、会話すら拒まれた昔日に比べればマシどころの話ではない。  あの頃の二人に同じツールがあれば、違う結末もあったのだろうか。・・・いや、どうせ既読もつけられずにメッセージを放置されるのが関の山だったろう。  その賢治は、カウンターに身を凭れたまま「わかった」と気のない顔で手を振る。そんな旧友に苦笑を返すと、琢真は「ちゃんと食えよ」と念を押し、部屋を出た。かつて付き合ったどの女性と迎えた朝にも抱くことのなかった名残惜しさを、琢真の心は確かに噛み締めていた。  駅前に、大楠不動産が所有する八階建てのビルがある。そのニ階まるごとを占めるのが、琢真が課長の椅子を預かる管理営業課だ。  琢真が出社すると、部下たちは掃除の手を止め「おはようございます」と挨拶する。そんな、不揃いな部下たちの挨拶にいちいち「おう」と応えると、琢真は、フロア最奥にある店長専用のデスクに着く。机上のPCディスプレイには、すでにいくつも付箋が貼られている。いずれも、琢真が不在の間に受けた電話のおおまかな内容を記したものだ。それらをざっと確認し、まずは緊急性の高そうな相手にコールバックすると、残るは朝礼後に回し、神棚の前に部下を集める。  琢真の会社は管理がメインなので、売り上げにさほど血眼になることはない。そうした社風を反映し、朝礼といっても簡単な挨拶や激励がメインで、例えばドキュメンタリー番組で時折り見かけるスタートアップ企業の、洗脳じみた叱咤激励はここでは一切おこなわない。  ただ、危機感がゼロかと言われると、それも違う。  年々干上がりゆく地方経済の中、そこから動くことのできない社としては、所有物件の管理運用を相当クレバーにこなす必要がある。以前は主力だったファミリー向け賃貸マンションの新築をやめ、代わりに、単身者向け賃貸マンションの建設を社長である父に具申したのは琢真だ。既存物件のリフォームやリノベーション、設備の入れ替えも積極的に進めている。その方が入居率も上がり、家賃も多く設定できるのだ。ただしそれも、あくまで費用対効果をシビアに計算した上での話だ。  おかげでここ数年は、じわじわとだが業績も上がっている。そうした実績のおかげもあって、社内における次期社長の評判は決して悪くないだろうと琢真も自負している。ただ、さすがに経済紙で『地方経済を牽引するルーキー』のような持ち上げ方をされると、面映ゆさについ皮肉な笑みが漏れてしまう。琢真は、特別なことは何もしていない。誰にでもできることを、ただ着実にこなしているだけだ。  賢治からメッセージが入ったのは、午後の役員会を終えた頃だった。 『駅前のラーメンが食べたい』  そういえば今朝、何を食べたいか考えておけと頼んでいたのだ。次に差し入れる料理の参考にしたくて訊いたんだけどな、と、人けのない廊下で賢治は苦笑いする。  次の休みは火曜か。スマホでスケジュールを確認しながら、ふと琢真は気づく。賢治が料理ではなく店をリクエストしたのは、二人で一緒にラーメンを啜った日々が、あいつの中で今も息づいているからではないか。  琢真にとっては今なおかけがえのない日々。それを、賢治も同じだけ大切に思っていたのだろうか。  そう期待するのは、強欲だろうか。  リクエストのラーメン屋は、駅前の再開発によって以前の場所を追い出された後、郊外の国道沿いに移転し、今も営業を続けていた。 「悪いな、せっかくの休みなのにこんな野暮用に付き合わせて」  助手席でそう悪びれる賢治に、いいさ、と琢真はハンドルに手を添えたまま肩をすくめる。  琢真の会社は、多くの賃貸管理会社がそうであるように、火曜水曜を定休日に設定している。その最初の火曜日、琢真はさっそく賢治のリクエストに付き合っていた。 「本当は、デートにでも行きたかったんじゃない」 「だから言ってるだろ。そもそも相手がいねぇんだよ」  再会後の賢治は、やけにこの点で探りを入れてくる。昔は、他人の個人的な事情には無関心だった賢治だが、そんな賢治でも、さすがに三十路前ともなると、同年代の人生の〝進捗〟が気になってしまうのだろう。 「気にすんな。昔もそうだったけど、今だって純粋に楽しくてやってんだ」  厳密には、純粋、というわけじゃないんだがと胸の内で注釈を加える。  賢治と再会して改めて、琢真は、やはり自分にはこいつしかいないのだと思い知らされていた。誰と付き合っても、それに身体を重ねても、決して噛み合わなかった何か。それが、賢治を前にすると誂えたようにぴたりと嵌ってしまう。  その賢治は、再会して一週間で随分と顔色が良くなった。その上で、なお残る生命としての危うさが、どうあっても琢真を惹きつけてしまう。透けるように青白い肌。病的なまでに肉付きの悪い身体――なのに、くちびるだけはやけに紅く、浮世離れた色気をこの男に添えている。  その柔らかさを、琢真は今でもはっきりと思い出すことができる。  あれは、やはりキスだったのだろう。あの瞬間、否応なしに琢真の心を賢治のくちびるに吸い寄せたもの。それは紛れもなく、萌したばかりの性欲だった。こいつを俺のものにしたい。永遠に手元に置いておきたい。  そして今、もう子供ではない琢真は知っている。その先に続く繋がり、例えば、より深いキスや、それにセックス。熱を持った粘膜同士の、とろけるような交合――それらを、同性であるはずの賢治を対象に想像したとき、あまりにも容易に適ってしまうのだ。  でも、と、そのたびに琢真は自分に言い聞かせる。  こいつは所詮、渡り鳥でしかない。今こうして琢真の隣で笑うのも、旅の途中で痛んだ羽根をひととき癒しているだけ。その渡り鳥にいくら恋したところで、止まり木は所詮、止まり木にすぎないのだ。  車で走ること約三十分。ようやく目的の店に到着する。長年営んだ場所を離れ、てっきり閑古鳥が鳴いているのかと思いきや、思いのほか店は繁盛していた。広く取られた駐車場にはぎっしりと車が停まり、何なら移転前より賑わっているのではとさえ思う。  ようやく駐車場に空きを見つけ、車を停める。周囲は軽トラや内装業者のバン、ファミリーカーばかりで、琢真のBMWは明らかに浮いている。 「いい車乗ってるよなぁ。税金対策?」 「まぁな。実家にはベンツとレクサスがあるぜ」  すると賢治は、やってんねぇと意地悪く笑った。  店に入ると、九割がた席は埋まっていた。ちょうどカウンター席に二つ並んで空きができ、そこに賢治と腰を下ろす。琢真はラーメンにギョーザとチャーハンがついたランチセットを、賢治はラーメンを単体で注文。 「足りるのかよ、それで」 「琢真こそ、そんなに食ったら太るんじゃない」 「ふとっ・・・お、俺はいいんだよ! どうせランニングで落とすんだからよ!」  すると賢治は、何が可笑しいのかニヤニヤと目を細める。 「そういえば・・・最初に会った時も走ってたよな。ひょっとして、ずっと地元?」 「えっ? あ、ああ・・・本当は、大学ぐらいはよそに行きたかったんだけどな。地元の大学に進んだ方が、コネ作りには良いだろって親父に押し切られてさ」  事実、大学で築いたコネクションは今もビジネスで活きている。地場の金融機関や大手は、地元の国立大から新卒を採ることが多い。そこに顔見知りがいれば、繋がる話もそれなりにある。 「ふぅん・・・植物みたいだな、なんか」 「植物? どういう意味だよ」 「一度芽を出したら、そこから一生動けないってこと」  その口ぶりは、揶揄うようで、でもどこか羨むようで、何にせよ、一言で言い表せる感情ではないのだろうと琢真は察した。的を射た揶揄に一瞬だけ抱いた苛つきも、気づくと嘘のように収まっていた。 「いいんだ。外に出る奴もいれば残る奴もいる。こういう時代だからな、あえて地方に残るってのも結構な冒険だよ。それでも俺らは、やる。俺らにしてみりゃ、ここは唯一の故郷だからな。誰かが残って、そんで、守っていかないと」  家というのは、放置すれば瞬く間に荒れてしまう。管理を専門とする人間には常識中の常識だ。それはきっと、町も同じ。 「そうか。お前は・・・動けないんじゃなくて、根を張ってるんだな」  今度ははっきりと、羨望を含んだ声で言う。そんなに羨ましいなら、お前もここに根を下ろしてしまえばいい、と琢真は思う。  いっそ・・・俺のものになってしまえばいい、とも。  やがて注文の品がカウンター越しにデンと置かれる。さっそく麺を啜ると、子供の頃から馴染んだ味が味覚と嗅覚を鷲掴みにした。野性味を残した豚骨スープ。これでもかと投入された焦がしにんにくの強烈な臭い。ああ、これだ。この味。  見ると、賢治も隣で黙々とラーメンを啜っている。そのくちびるに、かつて琢真は意味もわからずどきどきした。そして今、同じ光景にやはり琢真は胸をざわつかせている。 「何?」  視線に気づいた賢治が、怪訝そうに振り返る。しまった、と、琢真は焦る。疚しい内心を見透かされた心地がした。 「あ、いや・・・美味そうに食うなぁって。顔に似合わず」 「似合わずって。じゃあどんな顔ならいいんだよ」 「えっ? あー・・・もっとこう、小太りの、いかにも食いしん坊です、的な?」  どうせ脇道に逸れた話だ、と適当に話を継ぐ。ところが賢治は、意外とツボったのか「何だよそれ」と肩を震わせて笑う。――その笑みが、不意にひたりと凍りつく。 「・・・?」  振り返り、賢治の視線を追う。  こうした店にありがちな、吊るし棚に置かれた液晶テレビ。そのテレビでは、またしても例の改竄事件を報じている。  事件とは、とある国有地の売却手続に絡むものだった。公示価格に比べて極端に安い値段で民間に払い下げられた元国有地。その取引に絡む人名が、財務省が保管する契約書と、払い下げを受けた会社のそれとに一部相違が見られる。これが改竄の結果なら、責任者を明らかにせよ、というのが野党側の主張だ。対する財務省および与党は、改竄など行なっていない、と、あくまでも突っ撥ねる姿勢を崩さない。 「やっぱ・・・お仲間が叩かれてんのを見るのはしんどいか?」  ただでさえ長時間労働で心身をすり減らされ、そのうえ、こうも毎日メディアに叩かれてはたまらないだろう。そんな同情を、一応は声に含めたつもりだった。  ところが賢治は、無言のまま、ふたたびラーメンを啜りはじめる。その頑なな横顔にふと琢真は既視感を覚え、それが、あのときの表情と一緒なんだと少し遅れて気づく。  自分が泥を被るのが合理的なんだと言い捨て、素知らぬ顔で塾のテキストに目を戻した、あの。 「過労、じゃないんだ」  帰りの道中、助手席でぽつりと賢治は切り出した。  ラーメン屋を出たあと、そのまま帰るのも惜しい気がして二人はドライブに出た。賢治は、少なくとも楽しんではいるようだった。牧場で馬に乗り、意外な高さに怯みながらも歓声を上げる賢治は子供のようで、それじゃ大人のじゃなくてガチの夏休みじゃねぇかと琢真が突っ込むと、いいんだよと拗ねながらもケラケラと笑っていた。そんな賢治だったが、時折り覗かせる暗い眼差しは、その心が今も冷たい闇の中にいることを暗に伝えていた。  だから賢治が、その胸中をそろりとでも覗かせてくれて琢真はほっとし、同じだけ身構えもした。  俺は、こいつの闇をちゃんと受け止められるのだろうか―― 「・・・それは、休職の理由?」 「うん。何ていうか・・・職場でトラブルが起きてね。その案件に絡む人間は、しばらく休みを取らされることになったんだ。ほとぼりが冷めるまで、よそで大人しくしてろ、ってことなんだろうな・・・まぁ、ここしばらく不眠やら何やらで体調を崩しがちだったし、ある意味、ちょうどよかったんだけどさ・・・あ、ちなみに残業時間の話はマジな」  軽い口調の中に見え隠れする痛み。実情はきっと、語られるよりも深刻なのだろう。  今回の措置は、ある種の謹慎だ。が、おそらく賢治に非はなかったのだろう。にもかかわらず謹慎を強いられ、だからこんなにも萎れきっている。咎もなく責められ、理不尽な扱いを受けることほど辛いものはない。  ただ・・・賢治は元々、その手の理不尽は何食わぬ顔で受け流すタイプだった。事実あの頃、クラスの連中にどれだけ「ホモ」と冷笑されようが賢治は気にも留めなかった。たとえ職場で理不尽な扱いを受けようが、そういうものだと冷ややかにいなしていたはずだ。昔の賢治なら。  それとも。  そこは、単なる引っ越し先とは違うのか。気紛れに立ち寄る止まり木ではなく、自分の居場所だからこそ追われて悔しいのか。  こいつにも、そんな場所があるんだな。 「だったら、戦えばよかっただろ。そうやって不貞腐れるぐらいなら」 「不貞腐れる? いや、僕は――」  そこで賢治はふと黙り込むと、考え込むように目を伏せ、やがて、そうか、と顔を上げる。 「・・・不貞腐れていたんだな、僕は」 「は? どういう反応だよそれ」  軽く笑い飛ばしながら、しかし琢真は気づいている。賢治の居場所に――ここではないどこかにある彼の居場所に、自分は、確かに嫉妬している。 「うん・・・琢真の言うとおりだよ。結局、僕は戦えなかった。昔からそうだった。厄介な状況に置かれても、どうせ、すぐに引っ越すんだと場当たり的な対処に逃げて・・・そういう惰弱さが、知らない間に骨の髄まで染みついてたんだろうな」  ――ここは僕が泥を被るのがいちばん合理的なんだ。  だろうな、と、琢真は皮肉な気分で同意する。やっぱりお前は間違っていたんだよ。そうやって自分から泥を被って、これが正解なんだと澄ました顔で孤高を気取った末路がこれだ。  そしてまた、こいつは同じ間違いを犯そうとしている。  この期に及んでなお、胸の底にあるものをひた隠しにして。 「なぁ、本当に反省してるなら――」  俺にも、その苦しい胸の内を共有させてくれ。そんな琢真の逸る気持ちを、助手席から聞こえた穏やかな寝息が押し留める。次の信号停車で助手席を振り返ると、案の定、賢治は電池の切れた玩具のように項垂れ、眠っていた。  その、やけに造りのいい寝顔を見つめながら、そういえば、と琢真は思う。  なぜ賢治は、急に本当の事情とやらを明かしたのか。ドライブで気を許してくれたから? ・・・いや、理由はきっと別にある。ラーメン屋で、マンションで、賢治の顔を凍りつかせたあの報道。その直後にこんな話を明かしたのは、おそらく偶然じゃない。 「不審者・・・ですか」  その電話が琢真のオフィスにかかってきたのは、賢治と再会して半月ほど経った頃だった。 「わかりました、こちらも気にかけておきます。・・・あ、いえ助かります。今後も、何か異変がありましたらすぐに知らせてください。では」  電話を終え、受話器を置いたところで視線を感じて顔を上げる。フロアの社員たちが、あるいはキーボードを打つ手を止め、あるいは電話を受けながら心配顔で琢真を見守っている。改めて、いい社員に恵まれているなと感謝しつつ「いや大丈夫」、と何食わぬ顔で告げると、琢真は愛用のアーロンチェアに長身を預けた。  そこへちょうど、新規の契約書を作り終えた部下が、やはり心配顔で「大丈夫っすか」と声をかけてくる。 「なんか、不審者、とか聞こえたんすけど」 「あ・・・ああ」  連絡をくれたのは、ソアラシリーズの巡回管理を担当する今村だ。  ソアラとは、琢真が父に提案した単身向け賃貸マンションのシリーズ名である。これまで市内に計六棟が建てられ、いずれも社の管理サービス課に巡回管理を任せている。  その五号館の近辺を、近頃、不審者がうろついているらしい。連携する警備会社にはすでに報告済みで、警察にも一応相談を入れているという。その上でわざわざ琢真にも一報を入れたのは、ソアラシリーズが琢真の肝いりであることを踏まえてくれたからだろう。  ただ琢真は、今回は別の意味で今村に感謝していた。  ソアラ五号館といえば、現在、賢治がマンスリーで借りる物件だ。そして、それ以前、この手のトラブルは一度も起きていない。つまり・・・今回確認された不審者は、賢治を追って現れた可能性が高い。  琢真の想像が正しければ、賢治は今、非常に危険な状況に置かれている。ソアラは、大楠家が所有する物件の中でもひときわセキュリティに力を入れている。が、本気で誰かを害そうと目論む人間に対しては、民間どころか警察の警備力すら無力なのが実情だ。現にこの国では、そうしたテロが何度も起きている。もし、何も知らないまま賢治の身に万が一のことが起きれば、琢真は、一生どころか来世まで後悔していただろう。その意味で、今村には感謝してもしきれない。  やはり、問い質すしかないのか――  賢治を守るには、やはり本当の事情を聞く必要がある。が、そうなると賢治は、あの頃と同じように琢真を突き放してしまうだろう。ともすれば、そのまま飛び去ってしまうかもしれない。親の都合で仕方なくこの町に留まった当時と違い、今は、本人の気まぐれで立ち寄ったにすぎないのだから。 「大丈夫っすか」  部下の声に我に返る。心配そうな目が、じっと琢真を見つめていた。 「なんか・・・真っ青っすよ、顔」 「あ・・・ああ、大丈夫」  嘘つけ。  そんな声が、胸の奥からぽつりと聞こえる。・・・そう、あの頃、琢真は密かに、そして深く傷ついていた。信念を曲げ、親に縋るまでしても、賢治は最後まで言葉を交わしてはくれなかった。だから――大丈夫、なはずがない。アナフィラキシーショックさながらに、心は、一度受けた痛みを早くも思い出し、ぶたれた子犬のように怯えている。  ――いや落ち着け、俺。  この不審者が賢治を襲撃に来た、なんて話はそもそも琢真の妄想だ。妄想を前提にあれこれ悩んでも仕方がない。まずは賢治の無事を確かめ、その上で、ごく普通の注意喚起のつもりで不審者の件を伝えよう。  そうだ。まだ傷つくと決まったわけじゃない。  夜、仕事を終えた琢真はまっすぐにソアラ五号館へと向かった。エントランスに入る間際、さりげなく周囲を見回し不審者の有無を確認する。マンションは、準工業地域とは名ばかりの住宅街に位置し、周囲には似たような規模のマンションが何棟も建てられている。ただ、車移動がメインのこの町では、日が落ちると外を出歩く人間はほぼ皆無になる。徒歩数分先のコンビニにも車で買い出しに行くのがこの町のライフスタイルだ。  すでに時刻は午後十時を超え、周囲に人の気配はない。ただ、視線らしきものの気配を確かに感じる。これが単なる思い込みなら良いと願いながら、琢真はインターホンで賢治の部屋を呼び出す。  十秒、二十秒。インターホンから反応はない。まさか――と、縋るような気持ちで再びインターホンを鳴らす。シャツの中を冷たい汗がつうと滑ったその時、ようやく、といった感じで声が返った。 『琢真か? どうした?』 「ど、どうしたもくそもねぇ――あ、いや」  つい声が昂ってしまい、慌てて気持ちを鎮める。声の調子から察するに、目立った異変は起きていないようだ。 「とりあえず、ここを開けてくれ」 『開けろって・・・いつもは勝手に入ってくるじゃないか』 「・・・あ」  言われてみれば。どうやら琢真は、自分でも思う以上に冷静さを欠いているらしい。 『まぁいいや。えーと、このボタンで良かったんだっけ』  戸惑う声とともに目の前の自動ドアが開き、琢真は、「ありがとう」と礼を述べて中に入る。五、六歩進んだところで足を止め、ドアが再び閉じるのを待つ。オートロック最大のセキュリティホールは、入居者がロックを開いた瞬間だ。侵入者の多くは、そうした入居者と一緒にあたかも住人の体で入り込んでくる。  ようやく、といった体感で自動ドアが閉じる。幸い、侵入を試みる不審者はいなかったようだ。改めて賢治の部屋に向かうと、今度はいつものようにマスターキーで玄関ドアのロックを開く。  賢治は、裸にボクサーパンツという無防備きわまる格好でくつろいでいた。 「お・・・おい、何て格好だよ」 「いいだろ別に、男同士なんだし」  うんざり顔で答えると、賢治は缶ビールをぐいと呷る。よく見ると、いつもは寝癖でぼさぼさの髪が今は濡れてしんなりしている。風呂上がりなのだろう。 「いや、男同士でもだな――」  間違いは起きるだろう、と言いかけるのを慌てて琢真は呑み込む。実際、一度は起こしてしまった琢真なのだ。  そんな琢真の視界の隅に、容赦なく映り込む白い裸体。  湯上がりのせいか、透けるような白肌はほんのり紅潮して、琢真は猛烈な気まずさに襲われる。首筋から鎖骨にかけての繊細な造り。白い肌にそこだけ真っ赤に色づく胸の突起。小さく引き締まった尻――ただ、痩せてはいても、全体にしっかりとした骨格は間違いなく同性のそれだ。が、そうした事実すら、一度自覚してしまった欲望には冷や水にもならない。  そんな琢真の暗い欲望など知らない賢治は、相変わらず無防備な裸体を晒している。 「で、今日は何の用?」 「な・・・何の用って。別にいいだろ、ダチの家に行くのにいちいち用件なんか要るかよ」 「えっ? あ、ああ・・・それもそうか」  どうやら冗談ではなく本心から納得すると、賢治は冷蔵庫から新たに缶ビールを二本取り出し、一本を琢真に差し出してくる。 「いや、今日は車で来てるから」 「あ、そう。じゃ泊まっていけば?」 「泊まる・・・」  いや、それだけは――が、不意に冷静さを取り戻した理性が、それも悪くはない、と頷く。例の不審者とやらが具体的に誰を狙っているのかはわからない。ただ、このマンションに張り付いている、ということは、少なくともソアラ五号館の住人を狙ってはいるのだろう。ならば、管理会社の人間として、しばらくここに住みついて様子を見守るのも悪くない。  そう、あくまでも不審者対策として。  賢治とは、何ら関わりのない話だ。 「どうした」  賢治の声に我に返る。見ると、賢治がニヤニヤと、ただ眼差しだけは心配そうに琢真を見つめている。 「何が・・・」 「いや、顔が真っ青だぜ? 何だトラブルか?」 「あ・・・いや、トラブルというほどじゃ・・・ただ、不審者が出るらしいんだ。この近辺で」 「不審者?」 「ああ。管理人の今村さんが教えてくれた。最近、マンションの周りをうろつく不審者がいるんだと。まぁ、お前には関係のない話なんだろうが、ただ、万が一ってこともある。何かあったらすぐに警備会社に連絡してくれ。もちろん一一〇番でも構わない」  いい年をした男だし、こんな忠告にはやる気のない反応を示すのだろうと思っていた。ところが、賢治が示したリアクションは、琢真にも思いがけないものだった。 「そんな・・・もう・・・」  独り言のように呻くと、賢治はどさりとソファに腰を下ろす。が、その目は落ち着きなく揺らいで、琢真の知らない脅威に一人怯えているのは明らかだった。その後、賢治はビールを一気にひと缶空にしたが、それも、味わうというよりアルコールの力で不安を消し飛ばしたいがための逃避行為に見えた。  やはり、と琢真は思う。まさかではなく。  どれだけ目を逸らそうと、内心は、やはり例の件との関わりを疑い続けていたのだろう。ただ・・・ここでそれを口にすれば、今度こそ、賢治は琢真の手の届かない場所に飛び去ってしまう。失いたくない。もう二度と――  ――結局、僕は戦えなかった。 「ひょっとして・・・例の改竄事件か」  すると賢治は、それまで琢真が見たことのない顔で振り返る。顔そのものは石のように強張らせているのに、切れ長の瞼だけはめいっぱいに見開き、黒い瞳を揺らめかせる。その、大粒の双眸を見つめ返しながら、こいつ、こんなに目がデカかったんだなと場違いなことを琢真は思った。 「ち、違う・・・あの件とは、関係ない・・・」  言い澱む賢治はしかし、そうした態度の豹変それ自体がすでに多くを語ってしまっている。本音を言えば目をつぶりたい琢真でさえ、無視するわけにはいかないほどに。 「・・・話してくれ。本当は、何があった」  そう賢治に問いながら、なぜ、と琢真は思う。なぜ、わざわざ賢治の心を突き放すような真似を? ――いや、本当はわかっている。むしろ最初からわかっていたのだ。戦えなかったと悔やむ賢治の声があまりにも切なくて、だから、逃げてほしくなかった。賢治自身のために。  たとえ、また、失う羽目になっても。 「お前には・・・関係ない」  言い捨てると、賢治は琢真のために出した二本目のビールにも手をつける。それを、前の一本よりもなおハイペースで飲み干すと、ごぷ、と苦しそうなげっぷをした。相変わらず旨そうには見えない。むしろ自傷的でさえある飲みっぷりに、見ているだけの琢真まで辛くなってくる。  それでも、改竄の件に突っ込んだ自分を責める気にだけはなれなかった。いずれ、ここに行きつく流れだったのだ。ラブラブ階段で賢治と再会したあの瞬間から。 「出て行ってくれ。お前とは、もう何も話したくない」 「賢治、俺は――」 「お前がマスターキーで入居者の部屋に勝手に上がり込んでる件、訴えてもいいんだぞ」 「・・・っ」  今更それを持ち出すのは卑怯だろう。だが、それを言われると反論の言葉が見つからないのも事実だった。 「わ、わかった・・・けど、な、これだけは言わせてくれ。俺は・・・いつだってお前の味方だ」  あの頃も、本当はそうだったんだ。そう意を込めて告げるも、賢治から寄越されたのは疲れたような溜息ひとつだった。――ああ、そうだったな。あの頃のお前も、そうやって冷たく俺を拒絶して。 「・・・邪魔したな。おやすみ」  それだけ言い残すと、琢真は部屋を出た。  エントランスを出たところで、琢真はアプローチの階段にへたり込む。また、失うのか――その予感に、夜分構わず叫びたくなるのを必死に堪えた。あれから十五年が過ぎて、なのに、まるで昨日のことのように蘇る当時の痛み。そう、痛かったのだ、あの頃、琢真はいつも見えない血をだらだらと流していた。毎日あのラブラブ階段で賢治を待つ行為すら、半ば自傷行為と化していたほどに。  いっそ、憎しみすら覚えるほどの痛み。だが、憎もうとしても憎めないのが小鳥遊賢治という男なのだった。冷たさの中に見え隠れする脆さ。大人びているように見えて、その実、放っておけない危うさ。・・・時折り覗かせる、おずおずと甘えるような眼差し。 「惚れてんだよなぁ・・・」  吐き捨てる声はどこか自嘲めいている。そう、惚れているのだ。あの頃からずっと。  だが、物を知らないかつての琢真は、そこから逃げ出し、素知らぬ顔で大人になった。・・・否、なったふりをした。周りを真似て恋愛のふりをし、アダルトコンテンツの見よう見まねで女性を抱いた。でも、そこに恋心はなかった。当たり前だ。誰にも――琢真自身にも見つからないよう、胸の底深くに沈めていたのだから。  琢真が、自分を射貫く視線に気づいたのはそんな時だった。  視線の主は、近くの電柱の陰にいた。何食わぬ顔でスマホを弄っているが、それが演技であることは、時折ちらりと向けられる鋭い視線でも明らかだった。  まさか、あいつが例の不審者・・・? 「あんた!」  気づくと、琢真は駆け出していた。ほんの一瞬、相手が武器を持っていたらどうする、と、剣呑な想像が脳裏をよぎる。今の賢治を取り巻く事情を考えるなら、それも充分ありうる話なのだ。事実、重要な情報を抱えたまま死んだ、あるいは殺された人間は、ニュース等で明らかになっているだけでも枚挙に暇はない。  にもかかわらず、男へ向かう足は止まらない。やがて、琢真の接近に気づいた男は踵を返して走り出す。逃がすか、と、琢真はさらに速度を上げる。さいわい男の足はそれほどでもなく、瞬く間に琢真は追いついてしまう。  その背中に、琢真は思いっきりタックルをかける。安くはないテーラーメイドのスーツがアスファルトの路面にこすれ、あちこち破れる感触があったが今はそれどころじゃない。すかさず男に馬乗りになり、相手の両手を、こちらも両手で地面に押さえつける。 「あんたか! 最近この辺をうろついてる不審者は!」  すると男は「不審者?」と目を丸くする。見たところ四十絡みの、ごく平凡な中年男だ。ただでさえ見栄えのしない風采を、よれよれのポロシャツとチノが悲しいほどに際立たせる。・・・少なくとも、ヒットマンのような剣呑な人種には見えない。 「い、いや違う、俺は記者だ! ジャーナリストだよ!」 「・・・ジャーナリスト?」  その言葉に、琢真は思わず腕の縛めを緩める。と、その隙に男はわたわたと起き上がり、琢真から大きく距離を取る。が、逃げるそぶりはない。代わりに胸ポケットから名刺を取り出し、及び腰で琢真に突き出す。名刺には確かに、フリージャーナリストの文字。  その肩書を目にした瞬間、琢真は、相手の名前を検めるよりも先に問うていた。 「例の、文書改竄の件ですか」    二人が移ったのは、深夜まで営業する幹線通り沿いのファミレスだった。どちらも酒類は頼まず、とりあえずドリンクバーを二つ注文する。さっき賢治にも言ったとおり、今夜は車が足なので酒は飲めない。そうでなくとも、これから聞かされる話の内容を考えると、さすがにビールジョッキ片手に、というわけにもいかなかった。  時刻柄、てっきりファミリー客は捌けているものと思ったが、案外、結構な数の子連れがいる。その他は騒々しい学生グループで、何にせよそれなりに賑わう店内で、大の男二人がボックス席で睨み合う姿は、傍目にはかなり異様に映るだろう、と琢真は思った。 「あくまでも他言無用でお願いします」  セルフのコーヒーを啜るなり、さっそく島谷は切り出す。島谷壮一、というのがこのジャーナリストの名だった。 「ことの発端は一昨年まで遡ります。東北地方の某国有地を払い下げるに当たり、公示価格より明らかに低い価格で契約がまとまりました。この件自体、あの頃はかなり問題になりましたが・・・大楠さんは覚えておられますか」 「ええ」  覚えている。うちにも安く売ってくれねぇかなと父がぼやいていたので、何となく印象に残っているのだ。 「ただ、残念ながらこの件はすぐ下火になります。取引の手続き自体に違法性はなく、また・・・こう言っては何ですが話題性にも乏しかった。いやらしい言い方をすれば、討ち取り甲斐のあるビッグネームを欠いていたわけです。せっかく苦労して書いた記事も、どこにも買い取られずにお蔵入りですよ。あれは悔しかったなぁ」  そこで島谷はこほんと咳払いをすると、クールダウンのためだろう、コーヒーをまたひと口啜る。 「問題はその後です。今年の頭、その買い取った企業の社員と名乗る人物から契約書の写しのコピーが各出版社に送られてきました。そこに、現与党幹事長の岩井一郎の名が記されていたんです。この件も、もちろんご存じですよね」 「・・・ええ」  むしろ今、日本でその事件を知らない人間がいるのかとさえ思う。それほどに、ニュースは連日この件でもちきりだった。というのも、この岩井という人物が次期総理候補の筆頭と目されるからで、メディアとしては、それこそ〝討ち取り甲斐のある〟獲物なのだろう。 「その件が、賢治・・・小鳥遊くんとどう繋がるんです」  せっかちなのは百も承知で結論を促す。すると島谷は、またしても一つ咳払いし、続けた。 「ええ。実は、当時この契約書を作成したのが小鳥遊さんだったのです。その際、小鳥遊さんにどのような指示が下されたのか、仮に原本と写しとで内容を変えるよう指示されていた場合、誰がその命令を下したのか・・・要するに彼は、この事件を紐解く重要な糸口なのです。ところが、我々マスメディアが彼の存在にたどり着いた途端、雲隠れするように東京を離れてしまった」  ――ほとぼりが冷めるまで、よそで大人しく・・・  なるほど、と、ようやく琢真は理解する。ドライブの帰りに賢治が話していたのは、おそらく、この件だったのだろう。 「で、それを島谷さんは、どういう方法でか探し出し、マンションの前をうろついていた・・・と?」  軽い非難を声に込めて問う。理由はどうあれ、個人の旅先を勝手に探り、その周囲をうろつくやり方が真っ当だとは思えない。ところが島谷は、構わず「ええ」と頷く。その手の非難は慣れている、と言いたげな。 「ところが小鳥遊さんは、いっこうにマンションから現れません。せっかく東京を離れたんですから、もう少し気を緩めても良さそうなところなのに」  そして島谷は、がっくりと肩を落とす。言われてみれば、賢治の口からどこそこに出かけた、といった話を聞いたことがない。歴史が好きで、この町に来たならまずその手の資料館を見て回りそうなところなのに。  それでも引き籠っていたのは、いずれ、こういった連中に嗅ぎつかれる可能性を恐れていたのだろう。・・・だから「もう」だったのだ。もう追いつかれた。そして、狩人に追いつかれた小鳥はどうする。そう、飛び立つのだ。狩人の手の届かない空の彼方へ――でも。  ――結局、僕は戦えなかった。  そう悔やむ賢治も、演技には見えなかった。本当は賢治自身、何をどうすべきかわかっているのではないか。だからこそ、あんなにも苦しんでいたのではないか。自分を傷つけるかのようにがばがばとアルコールを呷って。  これ以上、傷ついてほしくない。  お前が好きなんだ、賢治。 「・・・わかりました。俺が会わせます」  本当ですか、と、島谷は嬉しそうな声を上げる。そんな島谷の無邪気な反応に苛立ちを覚えながら、これでいいんだと琢真は自分に言い聞かせていた。  今度こそ、本当にあいつを失うとしても。  マンションに戻ると、賢治は、なぜか荷造りを始めていた。 「・・・何やってんだよ、お前」  床に広げられたキャリーバッグには、賢治のものと思しき着替えの類。小さく畳まれ、ジップつきの袋で細かくパッケージされているあたり、いかにも旅慣れた人間の荷造りだ。出張の多い部署なのだろう。  その荷主である賢治は、相変わらずボクサーパンツ一枚という無防備な姿のままだった。きっと、あの後すぐにここを発つことを思い立ったのだろう。 「お前こそ・・・誰だよ、そいつ」  琢真の隣に立つ男をひとしきり目で舐め回し、警戒心に満ちたその目を、そのまま琢真に戻しながら賢治は呻く。 「ああ失礼、私は――」 「答えろ、琢真」  島谷の自己紹介を封じるように賢治は問いを重ねる。その頑なな態度には、しかし、明らかな怯えの色が見て取れた。まるで手負いの獣だ。が、そんな賢治に残酷と知りつつ、琢真は告げる。 「答えたら、お前も正直に話してくれるのか。例の改竄の件を」  すると賢治は、今度は迷子の子供じみた顔で琢真を見上げる。やめてくれ、と、琢真は思う。お前にそんならしくない顔をされたら、せっかく固めた決意が揺らいじまう。 「・・・お前が、真実が暴かれることを恐れてんのはわかってる。けど・・・それと同じだけ、いやそれ以上に、このままじゃ駄目だとわかってもいるんだろ。だからあの日、事件の一部を俺に打ち明けたんだ。あれは・・・本当は気づいてほしかったんだろ。あの件に絡んでることを」 「お前が、そこまで勘のいい奴だとは思ってなかったんだよ。・・・鈍かったからな、お前、昔から」 「教えてください小鳥遊さん。誰に指示を受けたんです」  焦れたように口を挟んできた島谷を、賢治はキッと睨みつける。が、その目も、当初の反応に比べるとひどく弱々しい。 「単純なケアレスミスです。誰の指示でもありません」 「あり得ませんよ。ああいった公的文書が、どれだけ多くのチェックを重ねて作成されるか、我々国民が知らないとでも?」  今度は返す言葉もなかったのか、賢治は悔しそうに下唇をぐっと噛み締めた。やはり本心ではわかっているのだ。本当はどうすべきか。 「このままではあなたは、公文書偽造罪、あるいは虚偽公文書作成罪に問われるでしょう。ゆくゆくはトカゲの尻尾として切り捨てられるのがオチです。というより、上はそれをわかった上であなたを使い捨てようとした。そんな人間を、あなたは必死に庇っているんですよ」 「だから言ってるでしょ! あれは、ただの書き間違いだ!」  ほとんど癇癪じみた声で怒鳴ると、賢治は萎れたように俯く。賢治自身、こんな言い訳は無意味だとわかっているのだ。賢い男だから。が、そんなボロボロの嘘を、そうと知りつつ振り回す必要が今の賢治にはあって、だからこんなに苦しんでいる。独りで。 「・・・少し、賢治と二人で話をしたいんですが、構いませんか」  えっと振り返る島谷の、非難を込めた目を琢真はあえて無視する。彼が重んじる社会正義や真実など、琢真にしてみればどうだっていいのだ。  今はただ、賢治を独りにしたくない。 「お願いします」  重ねて頼むと、島谷は不承不承リビングを出ていく。ただ、相変わらず内ドア越しに気配を感じるから、玄関まで出たわけではないのだろう。一方の賢治は、相変わらず唇を噛みしめたまま床を睨んでいた。やはり、怒っているのだろうか。勝手に島谷を家に上げたことを。あるいはもっと、別の理由で―― 「改竄、じゃない」 「えっ?」 「そもそも・・・改竄というのは、すでにある文書の内容を書き変えることだ。あれは・・・だから改竄じゃない。最初からそのように作ったわけだから」 「まさか・・・じゃあ、本当に?」  すると賢治は、俯いたまま小さく顎を引く。 「当時の上長に命じられてね。その人も、さらに上の人間から指示を受けたらしい・・・ただ、誰マターであれそんなことはどうだっていいんだ。命じられたまま仕事を遂行し、守秘義務を貫く。それが僕らの在り方だ。国民が選んだ代表者たちの手足となって働く下僕、それが僕ら官僚だからね」  最後の一言は、ほとんど自嘲めいた響きを帯びていた。だからこそ、一二〇時間もの殺人的な残業にも耐えていたんだと言いたげな。 「だから伏せていたと? そういう仕事だから?」  すると賢治は、なぜか沈鬱な顔で黙り込む。何か伝えたいことがあって、それを口にすべきか迷っている、そんな顔。 「・・・父が」  やがてそのくちびるが、ゆっくりと紐解かれる。 「今、総括審議官をやっている。次期事務次官とも目されるポストだ。もし、ここで一連の件について明かせば、僕はともかく、父にも余計なケチがついてしまう。僅かでも汚点があれば容赦なく蹴り落とされる、そういう世界だからね」 「えっ、じゃあ要するに、その、親父さんのために・・・?」 「馬鹿だと思うか?」  その突き放すような口ぶりは、どこまでも寂しい響きを帯びていた。どうせお前には理解できないだろう――そう、賢治は言っているのだ。 「ははっ・・・僕も正直、馬鹿だと思うよ。けど・・・子供の頃からあちこち転々としてきた僕にとって、家族との繋がりこそが全てだったんだ」  そう。一年足らずの付き合いしかなかった琢真とは違い、賢治の親は、どこに移るにも賢治と一緒だったのだ。もちろん琢真も、自分の家族を心から愛してはいる。が、生まれてこの方ずっとこの町で暮らし、家族以外の絆も築いてきた琢真とは違い、賢治には、文字通り家族こそが全てだった。あっさり琢真の手を飛び去ったツバメの子がそうだったように――でも。 「でも本当は、打ち明けるべきだとは思ってるんだろ」 「は? いや、だから――」 「ラーメン屋の帰りに、お前、言ったろ。自分は戦えなかったって。あの時の悔しそうな顔こそ、お前の本心なんだろ。だったら戦えよ。このままじゃ昔の二の舞だぞ。それが嫌だから、お前、わざわざこの町に来たんだろ。昔のリベンジをするつもりでさ」  すると賢治は、今度はなぜか呆れた目をする。あれ、と琢真は思う。どう考えても、そうとしか考えられないだろう。 「お前・・・ほんっとに鈍いのな」  がりがりと頭を掻くと、賢治はぐっと下唇を噛む。そんなに噛んだら血が出るだろうと琢真がひやひやしかけた頃、不意に賢治は顔を上げる。その目は、なぜか泣き腫らしたように赤く腫れていた。 「会いたかったんだよ、お前に」 「えっ?」 「いや、え、じゃなくてだな。・・・あんなことがあった手前、今更、お前に会わせる顔なんてなかったんだよ、本来なら・・・けど・・・自分でも思う以上に参っていたんだろうな。気付くと、あの階段に座ってた。・・・あのラブラブ階段で、来るはずのないお前を待ってたんだ。あの頃のお前みたいに」  あの頃の。それはひょっとして―― 「その顔、やっぱ気づいてなかったんだな。・・・お前があそこで僕を待ってること、本当は、知ってたんだ。いつも、堤防の上から見てたから」  冗談には、聞こえなかった。ということは、賢治は知っていたのか。琢真が毎日、冬の寒い中でも賢治を待ちわびていたことを。じゃあなぜ、一度も声をかけてくれなかった。挙句あんな別れ方まで。おかげで琢真は、賢治に――たった一つの恋に拒絶されたのだと思い込んだ。  なのに。  結局、琢真の心を占めるのは、言い知れない喜びなのだった。あの頃流した見えない血が、巡り巡って賢治を連れてきてくれた。 「俺も、会いたかっ――」  言葉はしかし、語尾も待たずに詰まってしまう。代わりに溢れだしたのは、聞き苦しい嗚咽。いい歳こいた大の大人がみっともなく肩を震わせて。  それでも目頭は容赦なく熱を持ち、やがて頬を濡らしはじめる。 「なぁ、琢真」  そんな琢真を宥めるように、やんわりと、賢治は問う。 「あの時のあれ、さ・・・やっぱり、キスだったのか」 「えっ、キス・・・はぁあ? い、いきなり何の話、っ!?」  あまりにも唐突な問いに琢真はうろたえる。キスと言うからには、やはり、あの件に違いない。ただ・・・やはり賢治も、あれをキスだと認識していたのか。そして・・・なぜ今、ここでそれを?  ところが賢治は、あくまでも真摯に琢真の答えを待っている。 「そう・・・だと言ったら、どうなんだ」 「好きだったのか、僕が」 「それは・・・言わなくても、わかるだろ」 「言ってくれよ。ちゃんと言葉にしてくれ。僕だって・・・一応、言葉にして伝えただろ。時と場合はアレだったけどさ」 「はぁ? いや、言われて――」  いや、確かに言われた。あれを告白として扱うなら。  ――僕が大楠を好きで、一方的に絡んでたんだ。  当惑する琢真に、賢治はおもむろに歩み寄る。そのまま琢真の胸元に手を伸ばすと、ネクタイを掴み、無理やり引き寄せた。  くちびるの先に触れる、あの日のそれと同じ柔らかな感触。 「これで、おあいこだ」  そういたずらっぽく笑う賢治はしかし、相変わらず泣き笑いじみていて、そういえば、あの時もこんな顔をしていたなと琢真は思い出す。いじめのことで琢真と話し合ったあと、琢真に、お前と会えて嬉しかったと打ち明けた、あの時。  それが、その後の辛い別れを琢真に思い出させたのだろう。気づくと琢真は、目の前の痩せた身体を強く、強く抱き寄せていた。  もう二度と、どこにも逃がすまいと。 「・・・好きだったよ。お前のことがトラウマで、二度とまともな恋愛ができなくなるぐらい、好きだった」  そんな十数年分の痛みを思い知らせるように、目の前の白い首筋をぎゅっと吸う。ほのかな塩辛さが脳髄から下半身を貫き、この感情が間違いなく性欲に根差していることを再確認する。・・・性欲だけじゃない。庇護欲も、独占欲も、琢真の欲という欲の全てがここにある。  賢治は拒まなかった。むしろ、琢真に委ねるかのように身体の力を抜く。 「俺のことが好きなら・・・どうして黙って出て行った」 「だって、どうしようもないだろ。もう会えない人間と、今更、気持ちを確かめ合ったところでさ。・・・会えなくなれば、人は、忘れてしまうものだから。ずっとそうだった。結局、みんなに忘れられて・・・」  最後の一言は、賢治自身の経験から来る独白に聞こえた。出会った頃は周りを拒絶するばかりだった賢治だが、幼い頃は友達を作る努力もしたのだろう。が、そのたびに住所の交換はしても、いずれ手紙のやりとりは途絶えてしまう。琢真も、いつの間にか交流が途絶えた転校生を何人も覚えている。  寂しいのは、残された方だけではなかったのだ。  今度はその寂しさを癒すつもりで、先ほど強く吸った場所を舌の腹で舐る。腕の中で賢治の身体がびくんと竦み、ん、とあえかな声が耳朶に触れる。 「・・・どうする」 「何・・・の話・・・?」 「さっきのジャーナリストだよ。きっとまだ、そこの廊下に張ってる。・・・まずいんじゃないか、このまま俺らの声を聞かせるのは」  すると賢治は顔を上げ、至近距離からじっ、と琢真を見上げる。その顔が、普段の冷たい美貌とは一変していて、やはり島谷には帰ってもらった方がいい、と琢真は確信する。 「少し待ってろ」  後ろ髪を引かれる思いで賢治を手放し、内ドアに向かう。開くと、やはり廊下に島谷の姿があった。その島谷は、琢真の顔を見るや慌ててボイスレコーダーをポケットにしまうと、いかにもな愛想笑いを貼りつける。 「ありがとうございます。これでいよいよ、本格的に与党を追及できます」 「そうですか。では、今日はもうお引き取りください」 「えっ? いや、これからようやく本題に・・・小鳥遊さんに文書偽造の作成を命じた上司と、それから――」 「その件は、改めて奴から話があるでしょう。とにかく、今日のところはお引き取りを。さもなければ警備員を呼びますよ。一応ここ、弊社の管理物件なのでね」  すると島谷はぎょっと目を丸め、それから「いや、でも」と慌てて食い下がってくる。それでも琢真が譲らないでいると、やがて不承不承、部屋を出て行った。途中、田舎者がと吐き捨てる声がしたが、琢真は、あえて聞かなかったことにした。  玄関ドアをロックし、ようやくリビングに戻ると、なぜか賢治の姿がなかった。 「賢治?」 「こっちだ」  見ると、リビングの間仕切りが開け放たれ、隣の洋室が覗いている。その洋室に置かれたベッドに、賢治は腰を下ろしていた。その光景に琢真は、これから自分達がすることを今更のように意識する。改めて、島谷を追い返して良かった、と思った。 「あんな奴、好きなだけ待たせとけばいいのに。・・・それとも、やっぱゲイって知られるのはまずいの」 「・・・聞かせたくなかったんだよ。俺以外の人間に、お前の声を」  首筋を吸われた賢治が耳元で甘く呻いたとき、この声を誰にも聞かせたくない、と強く思った。そして、すぐそこで聞き耳を立てる他者の存在を思い出し、居ても立ってもいられなくなった。  これまで琢真は、自分を独占欲の薄い淡泊な男だと思っていた。今まで付き合った相手には、何の執着も感じたことがなかったから。でも、賢治は――こいつは別だ。こいつの漏らす声は、放つ匂いは、琢真一人のものでなくてはいけない。  すると賢治は、何だよそれと薄く笑うと、今度は、なぜか気まずそうに目を伏せる。 「ごめん、少し嫌味を言った」 「嫌味?」 「昔さ、僕が、ホモ呼ばわりは困るだろと言ったら、お前、否定しなかったろ」 「えっ? あ・・・ああ、あったな、そんなことも・・・」  要するにさっきの台詞は、当時の件を当てこすったものだったらしい。逆に言えば、今更当てこすってしまうほど、賢治は密かに傷ついていたのだろう。琢真への恋愛感情が事実だったのなら猶更だ。 「・・・気づいてなかったよ、本当に」 「だから鈍いって言ってんだよ」  本当にな、と、今度ばかりは琢真も素直に同意する。確かに、今思えばあの泣き笑いじみた顔は、悲しみを必死に押し隠す人間のそれだった。・・・あの時に限らない。例えば、そう、男同士でラブラブ階段に座るは嫌だと琢真が拒んだ時も。 「で・・・どうすんの、これから」  どうするのと言われても、答えは一つしかない。賢治の隣に腰を下ろし、その顔を間近に見つめる。  再会時、ゾンビのようだった顔は相変わらず窶れ、目の下の隈もひどい。この町に来た後も、ほとんど気は休まらなかったのだろう。ただ、あの時と明らかに違う部分が一点だけある。  切れ長の瞼の底でひそやかに輝く、何かを期待する瞳。 「どうするって・・・こうするしかないだろ」  あの時と同じように軽く身を乗り出し、今度は琢真の方からキスを求める。かつて琢真をたじろがせた柔らかな感触が今もそこにある。ただ、今の琢真はもう、その程度で怖気づく子供ではない。むしろそのまま押し倒し、口づけを深くする。  賢治は、拒まなかった。琢真が求めるままに応え、普段の愛想のなさが嘘のように積極的に舌を絡めてくる。賢治の唾液は、ほんのりビールの味がした。荷造りの前にまた一本空けたのかもしれない。  そんな、甘くもあり苦くもある賢治の味を舌に刻みながら、右手をその胸板にすべらせる。硬く平らな胸を撫でながら、改めて、同性を抱いているんだなと思う。子供の頃あれほど恐れた「ホモ」のレッテル。そのせいで、無自覚にとはいえ賢治を深く傷つけてしまった。当時のことを賢治は「場当たり的な対処に逃げた」と自嘲したが、それを言えば琢真も逃げていたのだ。自分自身の感情から。 「あ、っ」  指先が胸の突起に触れた瞬間、重なるくちびるの隙間から声が漏れる。鼻にかかるその声は、媚びと甘えとを多分に含み、あの、クールを絵に描いたような男が、と思うと、それもまた欲望を煽る風になる。 「あっ、や・・・やだ・・・」 「やだじゃねぇ」  子供じみた駄々を一蹴し、今度はその突起に口で吸いつく。刹那、あ、と鋭い悲鳴が賢治から洩れ、やっぱ島谷を追い返して正解だったなと琢真は思う。さらに舌先で転がしてやると、成人男子らしからぬ嬌声が賢治のくちびるから溢れた。 「あ・・・あっ、んっ」 「お前、感じやすいのな」 「し・・・らないよ。こういうの、初めてだから・・・」 「は? お前まさか童て――っ」  童貞か、と言いかけたところを頭をグーで叩かれ、危うく舌を噛みそうになる。これは確かに琢真が悪い。 「セックス自体は、初めてじゃ、ない・・・けど・・・こういうのは、初めて・・・」 「されることが?」  今度は、こくんと素直に頷いてくれる。確かに、女性が相手の場合は奉仕する側に回ることも多いだろう。 「じゃあ、今夜はいっぱい気持ち良くなって、いっぱい声出せ。大丈夫、防音はしっかりしてるから、ここ」  囁きながら、胸板から腹部、脇腹、そして下腹部へと口づけを移してゆく。そのたびに琢真は痕がつくほど強く吸い、舌で優しく宥めた。これが賢治にはたまらないのか、漏れる声はみるみる甘さを増してゆく。声をそのまま料理にすれば、砂糖菓子でも焼き上がりそうな。 「脱がすぞ」 「えっ? ・・・あ、やだ」  が、形ばかりの抵抗は当然のように無視され、賢治を覆う唯一の布はあえなく暴かれてしまう。現れたのは、早くも真っ赤に充血した男の徴だった。張り詰めた亀頭の割れ目からは透明な蜜がとろりと溢れ、汗とはまた違った芳香を放っている。その姿に、やっぱり男なんだよなぁと今更なことを琢真は思い、それでもなお霞むことのない己の欲望に改めて驚く。 「舐めていい?」 「えっ、舐め・・・?」  賢治が正気を取り戻すよりも先に、琢真はそれを口に含む。やだ、と鋭い悲鳴が頭上から聞こえたが、構わず琢真は根本まで一気に銜え込んだ。舌先に広がる、独特のえぐみと苦み。でも、何故だろう。これが賢治の味だと思うと、いつまでも味わっていたくなる。  ふと耐え難い蒸し暑さを感じ、そういえばまだネクタイすら緩めていなかったことを思い出す。道理で、クーラーは効いているのに暑いわけだ。結び目に指をかけ、引っ掻くように首から解く。ベッドの下に投げ捨てると、今度は賢治の雄に吸いついたまま後ろ手でジャケットを脱ぎ捨てた。行儀など、今はくそくらえだ。 「やめ・・・い、いくっ」  逃げるように身を捩る賢治の腰を、自重と腕力とで無理やりに抑え込み、さらに口淫。唾液を絡ませ、わざと音を立てて吸うと、お前ほんと最低だなと涙声で怒鳴られた。 「いくからっ、駄目だって、それ」  じゃあいけよ、と胸の内だけで答えながら、なおも琢真は口淫を続ける。亀頭のえらに舌先をひっかけ、舌の腹で裏筋を包みながら擦り上げる。そのたびに、びくん、と震える痩せた腰。自分がされて嬉しいとおりにすれば、望む反応が得られるのは同性同士のセックスの利点だろう。  次第に濃厚さを増す味わい。いっそ食いちぎって、俺の一部にしてやりたい――そんな琢真の願いは違う形で叶えられる。口腔の奥に放たれる、それまでにも比して濃密な味と香り。それを琢真は、喉の粘膜に染み込ませるようにじっくりと嚥下する。胃の腑に染み入る、たった今まで賢治の一部だったもの。  おもむろに顔を上げる。賢治は、焦点の定まらない目をぼんやりと琢真に向けていた。 「・・・ばかやろ」  胸板を激しくうねらせながら、喘ぎ喘ぎ、憎まれ口を叩く。そんな賢治が愛おしく、いまだ彼の味が残る口をそのくちびるに重ねると、最初は戸惑いがちに、しかし、すぐに舌を絡めてきた。 「んっ・・・あ」  飴玉でも舐め溶かすようなどろどろの口づけを交わしながら、琢真はシャツのボタンを解く。汗で貼りついた布地を、皺が寄るのも構わず雑に脱ぎ捨てると、今度は同じ性急さでベルトを解いてゆく。忙しなく鳴る金属音に、セックスを覚えたての高校生かよと内心で自嘲しながら、それでも金具を外す手は止めない。  こぼれ出たのは、賢治のそれにも劣らずぎちぎちに張り詰めた琢真の自身だった。 「・・・挿入れて、いい?」  その問いに、賢治は喉を大きく上下させる。大粒の瞳が、驚きと躊躇いを含んだままじっと琢真の欲望をじっと見つめる。自慢ではないが、琢真のそれは同性の中ではそれなりに大きい方だ。それを、まして本来の用途ではない場所で受け入れるとなると、その負担は計り知れない。  ところが賢治の口から出たのは、想定外の懸念だった。 「ちゃんと勃つんだな、僕でも」  どうやら男の身体に反応すること自体に驚いていたらしい。そりゃ勃つだろうと琢真は苦笑する。こんな、いやらしく素直な初恋の相手を前にして。 「お前こそ・・・嫌なら嫌だって言えよ。このままじゃ俺、マジで止まらないからな」 「言うわけないよ。・・・言うわけ、ない」  そう小さくかぶりを振る賢治は、ひどく切実な目をしていた。そこにはあの、突き放すように冷たく笑ういつもの賢治はいない。ただ、これもまた間違いなく彼の一面なのだろう。幼い頃から各所を転々とし、誰とも心から繋がることができなかった賢治は、きっと、琢真が思う以上に他者との絆に飢えていたのだ。  だから次に賢治の口からこんな言葉が出て、琢真は驚く。 「財務省は、辞めようと思う」 「えっ?」 「もし、今回の件をぶちまければ・・・省内的には、守秘義務を破ることになるわけだ。仮に・・・司法取引で不起訴になっても、出世とは無縁の閑職に追いやられるのが関の山だろう。何にせよ・・・腫物扱いは避けられない」 「そ、っか・・・でも、どうして急に、そんな話」  すると賢治は、いつものいたずらっぽい顔で琢真を見上げる。ただ、眼差しだけは相変わらず真剣だ。 「そっか。鈍いんだったな、お前。じゃあ・・・一つヒントをやるよ。多分、僕は、父とも縁を切らなきゃいけなくなる」 「親父さんと? ・・・あっ」  ようやく琢真は、賢治の真意を理解する。父親のために泥を被ろうとすらした賢治が、今度は、その絆を自ら断ち切ろうというのだ。盛り上がりかけたセックスの最中、こんな、水を差すような話題をあえて切り出したのは、これが賢治にとって、ただ貪るための交わりではないからだ。  父の――家族の代わりに、新たな絆を紡いでほしい、という。 「あの人は今も現職で・・・しかも、壮絶な出世レースの最中にいるんだ。僕みたいにケチのついた人間との関わりなんて、結局、デメリットにしかならないんだよ。たとえ・・・家族であってもね」  家族でも――そう口にした瞬間の、痛みを堪えるような賢治の顔に琢真は胸が苦しくなる。 「・・・賢治」 「いいんだ。自業自得だってわかってる。ほんと・・・馬鹿だよな」  言いながら賢治は、琢真の背中に腕を回す。その、縋りつくような強さが琢真は嬉しくも悲しかった。あの頃、琢真は密かにこんな未来を望んでいた。賢治という美しい渡り鳥が、偶然にせよ琢真のものになる日を。・・・それは同時に、賢治が今いる群れから残酷に引き剥がされることを意味した。が、琢真は決して、彼の不幸を望んだわけじゃない。  それでも、叶った以上は引き受けなくては。その痛みも。 「そうだな、ほんとに馬鹿だ」  同じだけの強さで賢治を抱き返す。あばらが触れるほど痩せた身体を撫でさすりながら、その身体がふたたび熱を持つのを琢真は待った。 「ん・・・っ」  やがてその喉から、あの、甘える声が漏れる。それを合図に琢真は、唾液で濡らした指先を賢治の背中から臀部へと回す。はじめは身を捩ってそれを避けていた賢治だが、やがて、意を決したように身体の力を抜いた。  それを合意と受け取り、さらに奥へと指を進める。本来、あまり衛生的ではない場所。にもかかわらず抵抗感は皆無だった。むしろ、人体の中で最も繊細であろう場所を許された喜びが大きく、そのまま指を進め、窄まりを探り当てる。 「・・・ん、ぁ」  前への口淫の時とは違う、ひそやかな、でも重い熱を秘めた反応。誘われるまま肉襞の奥に指を進めると、さらに奥へといざなうかのように内壁が妖しくうねった。教室で初めて賢治を目にしたとき、白状すれば人形みたいな奴だと思った。そんな賢治の、傍目には無機質じみた姿に隠された熱情と愛欲。それを、今の琢真は知っている。  琢真だけが、味わうことを許されている。 「や、やだ、そこ」 「ここ?」  示すように奥の一点を擦ると、賢治は「あっ」と叫んで腰を突き上げる。その後、非難がましく睨まれたが、こんなトロトロの目で睨まれてもな、と琢真は苦笑で返す。 「ほんと可愛いな、お前」  目尻に細かく口づけながら、囁く。 「か・・・わいい?」 「ああ。だから・・・一生、俺のものでいてほしい」  すると賢治は、今度は驚いたように目を丸め、それから目を細めて、ん、と小さく頷く。あのぎこちない泣き笑いじゃない。深い場所から染み出したかのような、ささやかな、でも柔らかな笑み。  ああ、こんな顔でも笑えるんだな。  指を抜き取り、一旦ベッドを離れる。脱ぎ捨てたジャケットから財布を取り出すと、そこに常備されたものを取り出し、ふたたびベッドに戻る。 「男のエチケット・・・ってやつ?」 「そ。いつ何があるかわかんねぇからな、大人は」 「大人だからって・・・ははっ、そういう状況に気軽にエンカウントできる奴は、何だかんだで少数派だよ。やっぱ・・・モテるんだね今は。昔は、女子相手にビビってばかりいたのに」 「まぁ、ぶっちゃけるとモテなくはないよ」  すると賢治は、聞くんじゃなかった、という顔をする。自分で振っておいてそりゃないだろう。 「まぁでも、本命は後にも先にも一人だけどな」  その本命と、紆余曲折はあれどこうして結ばれることができたのは、本当に幸運だった。  マットに正座すると、その畳んだ膝の上に賢治の腰をぐっと抱え上げる。賢治は、抗わなかった。ただ琢真のすることを、にやにやと、でも眼差しだけは真剣に見つめている。 「でもまぁ、わかるよ。かっこいいもん、今のお前」 「そういうこと言ってっと、ひどくするぞ」 「いいよ」  今度は、茶化すのでなく真顔で賢治は答える。 「ひどくてもいい。・・・いっぱいしてよ。心も身体も全部、奪って」  奪ってと言いながら、その口ぶりはむしろ、二度と逃がさないでくれと懇願しているようにも聞こえた。この鳥籠より外には、もう、生きる場所などどこにもないのだと。 「わかった。じゃあ・・・する」  屹立にゴムを装着し、その先端を賢治の窄まりに宛がう。ついさっきまで散々指で慣らし蕩かせたそこは、先程とは明らかに違う質量に怯えてか、ぎゅっと縮こまる。 「力抜いて」  身を屈め、緊張で固く縛られた賢治のくちびるにそっとキスを落とす。そのまま宥めるように舌を絡めながら、琢真は、もどかしさに苛立ちすら覚える速度で先端を埋めてゆく。ひどくすると言ったそばから。  ようやく全てを埋めた頃には、背中にびっしりと汗をかいていた。重い息をつき、確認のつもりで目を落とした琢真はぎょっとなる。琢真の屹立を、めいっぱいに張り詰めながら受け止める薄い肉。改めて、残酷なことを強いているんだなと琢真は思う。ただ幸い、入口の切迫感に比べると中はやや余裕がある。むしろ・・・中の方は明らかに奥にいざなう動きを見せている。 「・・・どんな感じ?」  一瞬、無意識に訊いてしまったのかと思った。が、それは逆に賢治からの問いで、苦痛を押し殺したぎこちない笑みで、それでも眼差しだけは真剣に――むしろどこか不安げに琢真を見上げている。 「いいよ、すごく、いい」  本当は、良いも何もまだよくわからない。このまま動いて良いのかと怖くもある。でも今は、賢治を不安にさせたくない一心でそのように答えると、賢治は、安堵したのか穏やかに笑んだ。普段はつれないくせ、一度開くと雛鳥みたいに健気に懐いてくる。心だけじゃない、身体も。 「・・・動くぞ」  おもむろに腰を引いてみる。瞬間、ず、と奥に吸われる感覚があった。圧で追いやられるのではなく、むしろ引き留められる感覚。これは、と委ねてみると、今度はぎゅっと絡め取られる。次はわざと大きく引いてみる。すると今度は、親鳥とはぐれた迷子のように内壁全体がわななく。そのたびに賢治の口からは、やだ、やだと駄々っ子じみた声が溢れて、これは長く保たないなと琢真は覚悟する。それなりに長い自覚のある琢真だが、これは、無理だ。こんなふうに縋られて、甘える声を聞かされて、我慢なんてできやしない。 「――あ!」  ぐっと奥に突き入れ、そのまま思いっきり引き抜く。冒険的な律動に、賢治が示した反応は劇的だった。びくびくと痙攣じみたわななきを示す内壁。本人も、大きく仰け反ったまま焦点の定まらない目で荒い息をついている。 「だ、だめ、や、それは・・・ほんとに、こわい」 「怖い?」 「だって、っ・・・ぼくが、ぼくでなくなるっ・・・ううん、もう、なってるかも・・・」  赤く色づいた胸板を激しく波打たせながら、喘ぎ喘ぎ、涙声で不安を吐露する賢治に、琢真はまた堪らなくなる。 「どんなふうになっても、お前は、お前だよ」 「・・・え」 「気づいてなかった? お前、たまにすんげぇ可愛い顔すんの。でも、そういうお前もちゃんとお前の一部なんだよ。こうやって、中突かれてあんあん言ってるお前も」 「あ・・・あんあんは、言ってない・・・っ」 「じゃ今から言わせてやる」  その証拠にと、立て続けに大きく突き上げる。反応の良いスポットはとくに重点的に。加えて、こちらも触れろとばかりに主張する胸の尖りを指先で強く捻り上げる。応じるように内壁がきゅっと締めつけ、いちいち素直な反応に愛おしさが募った。 「や、や・・・ぁ、んっ、あ」 「ほら」  さらに大きく抽挿。そのたびに中がうねり、当初の引き留めるようだった蠕動すら抑圧されたものだったと今ならわかる。自制を取り払い、貪欲に啜り上げる動きは琢真の欲望を炙り、さらに昂らせてゆく。内奥でいよいよ育ち、硬さと質量とを増す熱を賢治も感じているだろうか。  足元でギシギシと鳴るレンタルのシングルベッド。明日、さっそく丈夫なキングサイズと交換しよう。もちろん費用はサービスで。 「あんっ、だ、だめ、だめだよ、いくっ・・・」  もう? と目を落とすと、賢治の雄がひとりでに張り詰め、律動に合わせて痩せた賢治の腹に蜜を振り撒いている。汗とは明らかに質感の異なる粘液が、白くなめらかな肌の上でぬらぬらと光るさまは卑猥で、後でしっかり舐め取らなきゃな、と琢真は思う。 「後ろだけで? ・・・初めてなのに、すごいな」  余裕めいた揶揄をしながら、しかし、琢真もすでにゴールを捉えている。そこに上り詰めたなら、後はもう二人して転げ落ちるしかない、そんな頂き。その、頂上までのわずかな距離を琢真は一気に駆け上がる。ギアを上げ、賢治の深い場所を容赦なく突き上げた。 「や、やだ、深いっ・・・ふかいの、やだ・・・っ」 「っ・・・ひどくしろっったのは、お前、だろっ・・・」  思い知らせるつもりで大きく一突き。腰骨同士がぶつかる鈍い痛みが走り、しかし、それすら今の琢真にはブレーキにもならない。  賢治とは、これからの人生で何度も、何度も求め合うだろう。中には、スローに高め合う夜もあるかもしれない。が、それは今夜じゃない。賢治は、酷くしてくれと言った。酷くされなければ刻まれないほどの何かを、今の賢治は求めているのだ。渡り鳥のように無数の土地を渡り、そのたびに当たり障りのないコミュニケーションで傷を避けてきた男が。 「あっ、たくまっ・・・だめ、もう、いく、っ・・・」 「っ、おれも、やばい」  腰に凝集するおなじみの熱。だが、普段のそれに比して今夜の熱は、細胞の一つひとつが爆ぜるかのようだ。当初の気遣う動きはもはや皆無。むしろ先端から根本まで叩き込む乱暴な抽挿に、それでも賢治は痛みに委縮するどころかいよいよ開き、蕩けてゆく。改めて、この細い腰のどこに自分の太い屹立が収まっているのかと不思議な気分になる。が、事実、賢治は根元までしっかり銜え込み、中だけで感じているのだ。琢真を包む内壁は絡みつくようで、抽挿のたびに粘液が攪拌されるいやらしい音が立った。 「あ、やっ・・・」  どくん、と大きく心臓が跳ねて、それが合図だったかのように賢治の最奥で熱が爆ぜる。そんな琢真の熱に炙られ、感じたのか、賢治も身をしならせながら繰り返し精を吐いた。白い肌に盛大に飛び散る、同じだけ白い蜜。その、あでやかな光景に陶然としながら、今更のように「ああ、したんだな、こいつと」と琢真は思う。もう二度と、会えるはずのなかった初恋と。  その初恋を抱き寄せ、汗だくの首筋に鼻先を埋める。 「・・・ガキの頃さ、ツバメの子を拾ったんだ」  えっ、と耳元で賢治が問い返してくる。琢真も、何もこんな時に、とは思う。思うが、こんな時だからこそ聞いてほしくもあった。琢真の痛みの底にある、いちばん古くて深い傷。 「雨の中に落ちてたのを保護してさ、ドライヤーで乾かして、寝ずに看病して・・・でもそいつ、翌日には親と一緒に飛んで行っちまって・・・それで良かったんだよ。良かったんだ。けど俺は、それがすごく、寂しかった」  顔を起こし、今も蕩けた目で琢真を見上げる賢治とくちびるを重ねる。だからお前は、もう、どこにも行かないでくれと願いながら。  琢真はどこにも行けない。賢治の言うとおり、深く根を張ったこの町を離れるなんてできやしない。いくら枝を伸ばしても、だから、鳥たちの自由さにはかなわないのだ。次また賢治を失っても、琢真には、追いすがることさえできない。  そっか、と、琢真の鼻先で賢治が囁く。 「琢真には・・・琢真のさびしい、が、あったんだな」  琢真の背中に回された手に、ぐっと力がこもる。その強さに、そうだよ、と胸の内だけで琢真は答える。お前だけじゃない、俺だって寂しかったんだ。だからどうか、その手を離さないでくれ。  俺も、離さないから。  不正文書問題はその後、特捜――東京地検特捜部が動き、関係者数人が背任容疑で逮捕、起訴されるかたちで決着を見せる。すでに財務省を辞職していた賢治は、取り調べやメディアの取材にも積極的に応じ、事件の全容解明にも大いに寄与した。  その間、賢治は一度も琢真の町を訪れなかった。ただ、今度は全くの没交渉というわけではなかった。LINEで頻繁にメッセージをやり取りし、日に何度も電話をかけた。賢治からかかってくることも多かった。素っ気ない口調の中に見え隠れする寂しさや甘えは、どれほどの距離が二人を隔てていても、なお、賢治の心がここにあることを伝えてくれた。  それでもやはり、声だけでは足りなくて。  一日でも早くことが片付き、もう一度賢治に会える日を琢真は毎日、いや毎秒夢見た。  そうして年が明け、北風が和らぎ、春が来る。  その日。いつものように出勤すると、ビルの前で部下の一人がうんざり顔で空を見上げていた。 「どうした、山崎」  すると、山崎と呼ばれた部下は、琢真に通り一遍の挨拶を済ませた後で、改めて頭上を指さす。 「見てください課長、あんなところに巣が」 「巣?」  視線を追って、琢真も山崎の指さす方を見上げる。よく見ると、エントランスの柱の上部に何やら茶色い塊がへばりついている。どうやら未完成のツバメの巣らしい。  管理会社の人間にとって、野鳥の巣は不倶戴天の敵だ。ふんや臭いの害で入居者からクレームが発生するうえ、行政の許可なく撤去すると鳥獣保護法違反で罰せられてしまう。とにかく厄介な存在だ。 「さっき脚立で覗いたら、卵はまだだったんですけど・・・」  この鳥獣保護法には例外規定があり、卵のない巣に限れば無許可での撤去は可能だ。なので、やるなら今のうちにと山崎は言いたいわけだ。確かに、あんなところで子育てをされた日には、ともすればビルの前がふんまみれになってしまうだろう――が。 「いや、残しておこう」  えっ、と振り返る山崎に、琢真は苦笑で返す。言いたいことはわかる、それでも、と意を込めて。 「後で業者を呼んで、巣の下にふん避けの覆いを作ろう。光栄じゃないか。ツバメにも選んでもらえる不動産屋なんてさ」  まだ何かを言いたそうな山崎を残し、琢真はオフィスに向かう。その足取りが自ずと軽くなっていることに琢真は気づいている。  ツバメの寿命は、おおよそ二年とされている。琢真があのツバメを保護したのは、かれこれ二十年以上も前の話だ。つまり、彼があの巣の主であるはずはない。――にもかかわらず琢真は、まさに彼が琢真の元に帰ってくれた心地がしていた。ああ、そうだ、季節とともに海の彼方へ旅立った彼らは、ふたたび季節が巡れば、いずれ、この町に帰ってくるのだ。  その男がオフィスに現れたのは、いつもの朝礼を済ませた直後だった。  オフィスは一部が接客用カウンターになっており、リフォーム業者や仲介業者とのやりとりは主にここで行なわれる。そのカウンター越しに男は現れた。ほんの一瞬、彼を別人と見違えたのは、半年前に空港で見送った時とはあまりにも印象が違っていたから。丁寧に整えた頭髪。一分の隙なく着こなしたスーツ。程よい血色の肌。ただ、相変わらず目の下の隈はひどい。 「失礼します。中途採用の面接で参りました」 「面接? ・・・えっ、募集出してましたっけ」  怪訝な顔で振り返る山崎を、悪いと知りつつ無視すると、琢真は苦笑まじりにデスクを立ち、男に歩み寄る。 「宅建は?」 「取ったよ。休職中のいい暇つぶしになった」 「暇つぶしってこの野郎。・・・おかえり。おつかれさんだったな、賢治」  すると男――賢治は、ふ、と柔らかな笑みを浮かべる。泣きそうな顔でぎこちなく笑う迷子の渡り鳥は、もういない。 「うん、ただいま、琢真」  そう、これからは、ここが彼の帰る場所なのだ。
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