撤退交渉は黒い靄の中で

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撤退交渉は黒い靄の中で

「今のは解除呪文ではなかった。どうやって壊した」  大公がイヌエンジュの胸ぐらを掴むと、「これだ」とネヴィルがおもむろに剣を抜いた。漆黒の炎を纏った彼の魔力剣に、バンラードの魔術師たちは怯んだ様子で顔を歪める。 「下がれ」  大公が師団長と副師団長に命じた。 「魔剣士、おまえは火属性ではなかったか?」 「魔剣士は魔術師に対して不利です。手の内をすべて明かすわけにはいきません」  ネヴィルがニヤッと笑うと、あたしの肩でジゼルがブワッと毛を逆立てた。ノードはドレスの胸元に潜り込もうとする白猫を引っ掴み、あたしを抱き寄せて結界を構築する。 「ネヴィル殿、うちの猫を怖がらせないでください」 「ああ、そういえば聖獣とは相性が悪かったな」  ネヴィルはさほど悪いとも思ってない顔。マントを捲り肩に掛けると黒い靄が一気に溢れ出し、大公は頭を押さえてフラつく。師団長と副師団長は床に倒れ込んだ。  靄はあっという間に広間を埋め尽くし、視界が真っ黒になった中で時々バチバチと火花が散る。闇属性魔力を知らない三人が結界を張ろうとしているのだろう。 「おい、イヌ……! 貴様、最初からおれを暗殺するつもりで魔剣士を連れて来たか……」 「ち、違いますっ。おれは魔術師団にバルヒェットから撤退して欲しいだけで」 「われわれは交渉に来たのですよ」  闇の中から聞こえる会話にノードが加わった。闇属性魔力に包まれた魔術師の気配はあたしにはまったくわからない。リアクションがないと死んだのではと不安になるけど、ノードは淡々と話を続ける。 「バンラード大公、魔術師団を率いてただちにバルヒェット領から撤退して下さい。王国内には大公の座を狙う者がいるのでしょう? その不届き者に王国を明け渡し、ご自身はバルヒェットの新国王にでもなるつもりですか?」 「……ハハッ、盗み聞きしていたのか?」 「防音結界も張らずに喋っていたのはそっちだろう」とジゼル。 「大公、帝国軍はバルヒェット奪還のためニラライ河とリンデン城塞に集結しつつあります。バルヒェット新国王を宣言して帝国とバンラード王国の両方を敵に回すより、ただちに王国に戻り大公の座と王国民の命を守る方が賢明だと思いますよ」  ネヴィルが魔力の放出を止めたのか、黒い靄は少しずつ薄らぎ始めていた。靄の奥で影が動いたのはたぶんネヴィル。 「ノード、わざわざ説得する必要はないだろう。わたしが大公の腕を斬り落とせばバンラード最強の魔術師はいなくなる。魔力が使えなくなるのだから」  ようやく全員の姿が確認できるくらいに靄が薄らぎ、大公は床から引き剥がすように上半身を起こした。顔は血の気が引いて土色になっている。 「ようやく合点がいった。魔術師が四肢と魔力を失うと言えば魔術師の禁足地である闇の森。闇の森制圧計画など、おまえを師令官に据えた時点で意味がなかったのだな。まさか闇の森の住人が本当に存在するとは」 「わたしは闇の森の番人に過ぎません。今も昔も番人としてやるべきことをやっているだけです。大公もバンラード王国君主としてやるべきことをやってください」 「番人風情が君主を語るか」 「アル兄さん、魔術師団を連れてすぐ王国に戻るべきです」  ネヴィルの後ろにいたイヌエンジュが、膝をついたままの従兄に手を差し伸べた。大公は鬱陶しそうにその手を払う。 「断ると言えば、おれを殺してイヌが大公の座に座るのか?」  嘲るような口調は変わらない。イヌエンジュは口元を隠して詠唱し、氷槍(アイススピア)を作り出すと先端を大公に向けた。闇属性のものではなく普通の透明な氷柱だ。 「こんなもので殺せると思うのか?」  大公は結界を張ろうとしたようだけど、火花が散るだけで魔術は発動しなかった。黒い靄はまだ完全に晴れたわけではなく、漂う闇属性魔力が魔術の構築を邪魔している。   「イヌ、おまえはなぜ魔術が使える? なぜ平然と立っていられる?」 「平気なのはただの慣れです。魔術が使える理由は教えられません。アル兄さんも第一魔術師団の二人も魔術が使えない今ならおれは負けない。お願いですから撤退してください」 「無理だ。明日にはバルヒェットの併合を宣言することになっている」 「中止してください。こんな状況でバルヒェットとバンラードの両方を治めるなんて、いくらアル兄さんでも無謀です。兄さんが撤退命令を出さないなら、おっ、……おれが兄さんの代わりに大公の座に就いて魔術師団を撤退させます」  語尾を震わせて強がるイヌエンジュに、ウケケッとジゼルが愉しげに笑った。つられるように大公もククッと声を漏らす。 「ウサギ一匹殺せないおまえが兄を殺すか。手が震えているようだが、いつになったらこの氷柱でおれを刺すのだ? 早くしないと氷が溶けてしまうぞ」 「大公、挑発はやめたほうがいいです」  ネヴィルが低い声で言った。 「イヌエンジュを甘くみない方がいい。ラフリクスを殺したのはイヌエンジュですから」  初めて聞く名前だったけど、バンラードの魔術師たちは心当たりがあるようだった。師団長と副師団長は顔を強張らせ、イヌエンジュを見る眼差しにわずかに恐怖の色が浮かぶ。一方、大公は「そうか」と愉快そうに口角を上げた。 「あれこそ魔力ばかりの愚か者だったが、まさかイヌが上級魔術師を手にかけるとは祝杯でもあげてやらねばいかんな。まあ、その魔剣士の力を借りたのだろうが」 「それは……」  言葉に詰まるイヌエンジュの肩を、ネヴィルがポンポンと叩く。 「今後もイヌエンジュには手を貸すことになるでしょう。この男は近々義理の息子になるのですから」 「えっ、あ、……今その話は」 「フッ、……ハハハッ。イヌ、なかなか楽しくやってるようじゃないか」  大公は降参の意を表すように両手を挙げ、ドスンと床にあぐらをかいた。ノードは結界を解き、まだうっすら残っていた闇属性魔力の靄を風で吹き飛ばす。 「浄化力を使わず属性無効化魔術と風魔法を組み合わせたか」  あたしの腕の中でジゼルが解説しながら感心している。 「バンラード大公。結論を教えてもらえますか」 「魔塔主、その前にひとつ教えてもらいたい」 「答えられることでしたら」 「わたしは六本テールと血の契約を結び、シドの魔力を越えたことで魔塔主に近づいたと思っていた。だが、わたしとそなたの魔力量は比べる気も起きないほどかけ離れている。一体どうすればそんな魔力を得られるのだ。なぜそれほどの魔力を持ちながらグブリア皇家の下についている」  その話ですか、とノードはどこか虚しげに微笑んだ。 「どれほど強い魔獣と契約してもわたしを超えることはできません。わたしは世界樹の精霊と魂の契約を結びました。グブリア皇家の下についているわけではないのですが、そう見せかけているのも、今ここにいるのも、すべては世界樹の精霊師としてなすべきことがあるからです」  大公は唖然とした顔で、目の前の黒髪碧眼美青年をジロジロ観察した。 「なるほど、世界樹をつまみ食いしただけのシドとは次元が違うわけだ」 「大公、わたしからも少し質問をよろしいですか? バンラードに帯剣している魔術師が多いのはシドの影響ですか?」  大公は腰に差した剣に手をやり、「ああ」とうなずく。 「シドの進言でわたしが魔術師団員に推奨した。しかし、それほど浸透していない」 「ではもうひとつ。大公に似た容姿の、アルストロメリアという若い女性の魔術師に心当たりは?」  ドキッと心臓が跳ねた。大公はこうして間近で見るとアルストロメリアには似ていない。ただ小麦色の肌とウェーブのかかった金髪が同じと言うだけだ。 「魔術師団員か? 大公家にはそのような者はいなかったはずだが」 「魔塔で生まれた魔術師で、両親はバンラード出身ですが大公家とはおそらく無関係です。アルストロメリアをバルヒェットに派遣した際にシドが接触したらしく、彼女は魔塔を裏切りシドの計略で世界樹跡地を襲撃しました」  大公は何を考えているのか、フラフラと宙に視線を彷徨わせた。 「シドは彼女をアルと呼んでいたようです」  ノードが言い足すと、彼はグッと眉間にシワを寄せる。たしか、大公とシドはサーカス船で親しげに「アル」「シド」と呼び合っていた。  アル・ムカティ・バンラードとアルストロメリアは全くの無関係でも、シドはきっとアルストロメリアに大公を重ねたはずだ。それは接触を試みるきっかけとなったかもしれないけど、シドがアルストロメリアに対して情があるようには見えなかった。 「魔塔主、シドとその女は今も一緒に行動しているのか?」 「わかりません」 「あたし、シドは黒龍を狙ってる気がする」  会話に割り込むと、大公は自分の背後でぐったりしている黒龍を振り返り頭を撫でた。 「ギュウゥ……」  黒龍が苦しげな声をもらし、助けを求めるように頭をもたげてあたしを見る。ムクムクっと親心が湧いて、あたしはツンとノードのマントを引っ張った。 「大公。聖女が黒龍を治したがっているようですが、先に話を終わらせましょう」  大公は「治せるのか」と言いたげな顔をしつつ、素直に「ああ」とうなずいた。 「サラさん、シドが狙っているというのはその黒龍ではないですよね?」 「違います。あの二人が黒龍と九尾のキツネを船でリンデン港に運んでるって言ってたんです。その黒龍の使役魔術の優先者っていうのがシドだって」  なるほど、とつぶやきノードは思案顔になる。 「大公、その船は今どの辺りに?」 「早ければ明朝リンデン港に着くらしい」  あたしの頭の中に浮かんでるのは小説のクライマックス、魔獣討伐エピソードだ。 「ノード、なんか嫌な予感がする。災厄の登場人物がどんどんアルヘンソ領境に集まってるの。船には黒龍と九尾以外にも魔獣がたくさん乗ってるみたいだし、魔術師団も、帝国軍も、ナリッサもそっちに向かってて、ユーリックはもうそこにいる。シドとノードとジゼルが揃えば全員集合」  もちろん状況が完全に一致してるわけではない。小説では戦地に行かないカインも騎士団船で向かってるし、クラウスのオーラ騎士や魔塔の魔術師も待機している。魔獣の異常行動やマナ循環の停止も小説にはなかったことだ。 「魔塔主、聖女はいったい何の話をしている?」  大公が眉をひそめ、魔術師団の二人も訝しげにあたしを見ていた。 「聖女は未来を見たのです。サーカス船襲撃のときに聖女がいたのも、未来視で見た襲撃を阻止するためでした」 「未来視? では、聖女は本当に死霊ではなかったということか」  死霊だけどね、と心の中だけで否定する。ノードもあえて何も言わなかった。 「聖女は魔獣を引き連れたバンラード軍が帝国を襲うと予言しました。シドが巨大な黒龍の背に乗って現れると」 「あたしが黒龍の力を知ってたのは未来を見たからです」 「そうか」と大公は口にしたけど、未来視を信じてるかどうか表情からはわからなかった。   「大公。そういうことですので、早急に領境から魔術師団を退いてもらう必要があります。帝国側はバンラードとの全面戦争など望んでいませんし、そちらが撤退するのなら深追いする気はありません。ただ、万が一に備えて魔塔の魔術師と銀色のオーラの騎士がアルヘンソに待機していますし、帝国騎士団船もそっちに向かっています」 「全面戦争の準備は整っていたわけか」 「仕掛けて来られれば応じるしかありませんので。ですが、お互いそれどころではないはず。シドを孤立させ、早急に事態収束を図るべきです」 「そもそもバルヒェット併合をわたしに持ちかけてきたのはシドだった。辺境伯と接触し、独立宣言にこぎつけたのもやつだ。シドがバルヒェット領を欲しているなら王国が混乱している今が好機だろうな」 「シドがバルヒェット国王になることを望んでいると?」  ノードに問われ、大公は「ないな」と苦笑を浮かべた。シドが欲してるのは決して権力ではない。敢えて言うなら承認欲求。それも、ノードからの承認。 「シドが攻撃するのはアルヘンソです。わたしが帝国軍とともにそこにいると思っているでしょうから」 「二百年の因縁というわけか。わたしとシドの付き合いなど、それに比べればずいぶん短いものだ」 「付き合いの長さを比べるのは無意味です。わたしとシドの関係と、大公とあの男の関係はまったく別物ですから」  大公に向けた微笑が愛想笑いではなく、たまにナリッサやジゼルに向ける菩薩のような笑みだったのがちょっと意外だった。  ノードにトンと背中を押され、あたしは全員の視線を集めつつ黒龍のそばまで行く。龍は大きな翼をパサッと力なく動かし、何か言いたげに「ギュウ」と鳴いた。マナ石の魔術が闇属性魔力で消えたおかげか敵意は感じられない。 「黒龍ちゃん、ちょっと触るね」  額の角を撫でると浄化した感覚があった。黒龍はムクッと頭をもたげ、鼻先をあたしの頬に擦り付けてくる。 「黒龍に触れるのだな。わたしは聖女に触れなかったが」  黒龍の隣で大公があたしの顔をのぞき込んでいた。  彼の言う通りサーカス船でやり合った時は触れなかったけど、あの時よりかなり霊力アップしている。大公の魔力はクラリッサとそう変わらないようだから、今なら触れそうな気がした。  好奇心のまま大公の金髪に触れると意外に柔らかな感触。大公にパッと手を掴まれ、驚いて手を引っ込めようとしたら逆にグイッと引っ張られた。幽霊だからコケたりしないけど。 「なぜ触れるのだ? 以前は触れなかったが」 「聖女の力が強くなったからですよ。大公も体が楽になったのではありませんか?」  いつの間にかそばに来ていたノードは、さり気なく大公の手を外してあたしを抱き寄せる。 「たしかに楽になったようだ。これが聖女の治癒の力か?」  ちょっと違うけど「はい」と力強くうなずいておいた。ジゼルがノードの肩でウケケッと笑っている。ついでに師団長と副師団長も浄化してあげたけど、残念ながら二人には触れなかった。 「聖女の力で元気になったようですし、撤退していただきましょうか」  ノードの恩着せがましい言い方に大公は苦笑しつつ、師団長に指示を出す。 「各魔術師団に撤退、即時帰国の合図を送れ。今すぐだ」 「全師団ですか?」 「ああ。王都ではなく中部のウェップス城に集まるよう、追って伝令を送れ。わたしが入城後すぐにウェップスへの遷都を宣言し、魔獣討伐も今後はそこを拠点とする。魔獣を乗せた船はニラライ河を下ってトウェス海へ出たあと、西部のランカス港に向かわせろ。撤退を決めた以上、バルヒェットに王国の魔獣を上陸させるわけにはいかん」 「承知しました。副師団長は伝令の手配を」  副師団長は慌ただしく広間から出ていき、師団長は服の下から引っ張り出したネックレスに火属性魔力を注いだようだった。 「即時帰国の合図を送りました。ですが閣下、王都の防衛はどうされるのですか」 「すでに王都警備隊に指示を出してある。今朝方受けた報告によると、コナー伯爵が我が物顔で王城警備を指揮しているというし、()王城は伯爵に任せることにしようではないか」  ニヤと笑う大公と「仰せのままに」と恭しく頭を下げる師団長の姿を、ノードは興味深そうに見ていた。 「遷都とは思い切りましたね」 「以前から考えていたことだ。魔獣生息域と王都との距離がかなり接近していたから、バルヒェットの件が片付いたら遷都を進めるつもりだった。反対する者も多いから非常時のどさくさで既成事実を作ってしまった方がいい」  なあ、と大公は黒龍に同意を求め、黒龍は首をかしげる。ファンタジー小説だと龍は人語を理解できたりするけど、目の前の黒龍には無理そうだった。 「魔塔主、言っておくが魔術師をバルヒェットに残すつもりはないぞ」 「構いません。魔獣生息域の魔獣がバルヒェットまで来ないよう食い止めてください」 「尽力しよう」  大公は黒龍の足枷を外し、前触れもなく魔術で壁をぶち抜いた。広間は城壁よりかなり高い位置にあるようで、見える夜景は黒のグラデーションとわずかな星。爆発で集まったのか、下の方から人の話し声が聞こえてきた。 「魔塔主はリンデンに向かうのか?」  大公は黒龍に手綱をつけながら問いかける。 「ここの段取りがつき次第向かいます。ところで、黒龍がいる船に直接乗り込んで状態を確認させていただいてもかまいませんか?」 「ああ、構わん。その代わり魔獣運搬船の帝国領航行許可をくれ。今は余計な問題を起こすわけにはいかないからな」 「わかりました。その件はどうにかしますので、トゥエス海に出るまでは寄港せず航行を続けて下さい。シドに隙を見せないように」 「シドが現れたら殺すのか?」  唐突な質問にノードはフイと視線をそらした。 「シドはわたしが殺せる唯一の人間かもしれません。そして、シドはわたしに殺されたがっているのかもしれない。二百年という年月は人が生きるには少々長過ぎます」 「死にたいのか?」 「いえ、まったく」  大公は本心を探るようにジッとノードと視線を合わせ、ひとつ息を吐くと亜空間から何かを取り出して投げ寄越した。ノードがキャッチしたのは赤銅色のバッヂ。バンラード王国の紋章であるクロスした杖と炎が描かれている。 「上級傭兵用のバッヂだ。それがあれば乗船できる」 「助かります。すべて片付いたら新王都まで返しに行きますね」 「いらん。必要なくなったら付与魔術を破壊して捨てておいてくれ」  大公は自分の背に風翼をつけると黒龍の背に跨った。龍は翼を畳んだまま大公が開けた穴まで歩いていき、大公の風魔法でバルヒェット邸から飛び立つ。バサッ、バサッ、と豪快な羽音をさせ、巨大な影が遠ざかっていった。  壁の穴から地上を見下ろすと、兵士たちが呆然と龍の行方を眺めていた。慌ただしく駆けているのは魔術師。副師団長が馬魔獣を駆って城外に出ていくのが見えた。 「イヌエンジュ」  声をかけたのは広間に残っていた師団長。イヌエンジュは彼が話しかけてきたことに心底驚いている様子だった。 「兵站担当の第六師団は他の隊より撤退準備に時間がかかる。一日か二日はバタフライ通りに留まることになるだろう。第六の師団長はラグウォートだ」  それだけ言うと、師団長は穴から飛び降りた。 「第六魔術師団を残してくれるってことでしょうか?」  イヌエンジュが自信なさそうにノードに聞く。 「意外ですが、そういうことでしょうね。ありがたいことです。ネヴィル殿とイヌエンジュは先にラグウォート殿のところに向かってください」 「ノードはどうするんだ?」 「バルヒェット邸の方々に状況を説明してから追いかけます」  ノードは床に転がったままになっていたバルヒェット辺境伯の首を木箱に戻し、その箱を抱えて人々が集まる前庭に飛び降りた。あたしも一緒に降りたけど、屋敷に残っているのは魔力のないバルヒェット兵と使用人ばかり。彼らの目に映っているのは見知らぬ魔術師一人だけだ。 「わたしは帝国の魔塔主です。皇太子殿下の命で独立宣言撤回の交渉に来たのですが、バルヒェット辺境伯はすでに事故で亡くなっていました」  警戒心を露わにする人々の前にノードが木箱を置くと、ヒソヒソと囁き声が聞こえてくる。この邸内の人たちは、辺境伯が死んだことも、それが逃亡の末に間違って銃撃されたためだということも知っていたようだった。  声をあげたのは一人の兵士。周りの人に小突かれて仕方なくといった様子だ。 「あの、……バルヒェットはどうなるんですか? 魔術師団はどこに?」 「バンラード軍は撤退することになりました。バルヒェットは次の領主が決まるまで暫定的にグブリア皇家直轄領となるでしょう。じきに帝国騎士団が到着しますので、その指示に従ってください」 「そうですか」  兵士は何の感慨もなさそうに答え、「では持ち場に戻ります」とどこかへ歩いていく。兵士も使用人もみんなくたびれた顔で、主のいない屋敷の、それぞれの持ち場に戻っていった。  ニラライ河沖に停泊中だった東部騎士団船がバルヒェット港に入港したのは早朝。指揮官であるトッツィ男爵の話では、ザルリス商会からハンター派遣の申し出があったらしくじきに商会船も到着するということだった。  黒龍の乗った魔獣運搬船がリンデン港付近に到着するのは「早くて明朝」と大公が言っていたから、すでにリンデン港を過ぎた可能性もある。バルヒェットのことはトッツィ男爵に任せ、念のためネヴィルとイヌエンジュとエリを残し、リンデン港へはあたしとノードとジゼルで行くことにした。  その前にまず向かったのは中部騎士団船だ。ナリッサとカイン皇帝が乗船しているその船は、昨夜のうちにバルヒェット港沖を通過してアルヘンソ方面へと航行中ということだった。  
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