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PROLOGUE
──理想と現実。
その狭間で大抵の人間は苦しんでいる。
今自分が立っている場所は、幼い頃に憧れていた世界からは程遠い。けれど私は未だに夢見がちな自分を捨てきれないから、結局何も諦めきれないままだ。
「あ、あれが噂の氷の女神?」
声を潜めながら囁かれる噂話を勝手に耳が拾って少し辟易した。変な呼称を付けないで欲しい。胸の裡で小さな文句をこぼしながら、その声には気付かないふりを決め込んだ。
丸の内のど真ん中に聳え立つ巨大なオフィスビルの23階。事業部ごとに分かれたフロアを抜けて自分のオフィスに向かうだけの間に、何故だか無数の視線を感じる。これが自意識過剰ならどんなによかったか。
窓の向こうに見える東京の景色は曇り空なせいか酷くくすんで見えた。鈍色の空からは今にも雨が降り出しそうだ。毛先だけ巻いた髪がほんのりと湿気を含んでくたびれている。
鈍感なふりには慣れているから平気だ。それに私の顔は表情筋を動かすのが他の人よりも下手くそらしい。だから、今まで誰にも気づかれたことのない小さな秘密が妙な期待を孕んで、ずっと私の首を絞め続ける。
──氷の女神って、あの?
──なんか随分と凄いらしいじゃん
──まあ、あの見た目だし確かに興味あるよな
「お、戻って来た、氷樫さんこれさー」
ほんの少し浮ついた声の先輩は、少し前に上司に昇格した。同じ事業部でも、元々購買担当だった私は営業部門の人たちとはほとんど会話をする機会もない。
それでも、彼のことは知っている。
社内ではちょっとした有名人だ、色んな意味で。
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