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仕事を終え、会社を出てしばらく歩いたところで、安積に呼び止められたのだ。
「依子ちゃん」
馴れ馴れしく名前で呼ぶ安積は、片手を上げこちらへ歩み寄ってくる。
きっちりと三つ揃えのスーツを着こなし、ピカピカに磨かれた革靴を履いた彼は、やはり女たちが騒ぐのも無理はなく、スマートでカッコいい。
隣に立った瞬間、ふわりと良い香りが漂ってきた。さらりと髪をかき上げる腕にはブランドものの時計。
「飯、食いに行かない?」
「誘う相手が違うんじゃない」
眉をひそめて安積を睨み、依子は再び歩き出す。が、咄嗟に前に回り込んだ安積に行く手を阻まれた。
まなじりを吊り上げ、依子は安積を見据えた。
「何のつもり、どいて、邪魔よ」
安積はへえ、と眉を上げた。
「人って、こんなにも変われるもんなんだね。驚いたよ。あの井田さんがさ」
「だからなに?」
「今までそんな強気な態度とったことさえなかったのに。いつもおどおどして、みんなの顔色を覗っていた君が」
依子はふっと鼻で嗤った。
「言いたいことを我慢するのはもうやめたの。自分のやりたいようにやらなきゃ損だってことにも気づいた」
もう損をするだけの人生なんてごめんだわ。
誰かに振り回されるのも。
安積は口元に笑みを浮かべた。
「本当に変わったね。すごくきれいになったのは事実だし、今の君はとても魅力的だよ」
安積の甘い声が耳元に落ちる。
きれいと言われて胸が鳴る。
その言葉は依子にとって魔法の言葉。
何度聞いても気持ちを舞い上がらせた。
「いい店、知っているんだ。もちろん、ご馳走するよ」
慣れた手つきで腰のあたりに手を回してきた安積にうながされ、依子は断ることもできず歩き出した。
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