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結婚してもうすぐ十年というあたりから、遥香は少しずつ壊れていった。最初のうちは、なんてこともないような変化で、たいして気づきもしなかった。外に出るのに鍵を忘れたり、買い物に行って何を買うつもりだったのかを忘れたり、そんな些細なものだった。
日曜日の午後に電話がかかってきて「わたし、何買いに来たんだっけ?」ととぼけた声で聞いてくる遥香の声がなんとも可笑しくて、可愛らしくて、僕たちはお互いに笑いあいながら、買い物リストを読みあったりした。そのうちに段々、ひとの名前が思い出せなくなったり、簡単な計算ができなくなっていった。
「ちょっと、最近のわたし、ヤバくない?」と白い歯を見せて恥ずかしそうにしていた遥香の姿を今でも思い出す。でも、その頃まではまだ平凡で、幸せな日常が続いていた。ありきたりな言い方だけど、ずっとこんな幸せが続くものだと勝手に思っていた。
おかしくなってしまったのは、それから数日もしないうちにだった。昨日のことや、今日のこと、ほんの数時間前の出来事も思い出せなくなり、次第に僕のこともわからなくなった。夜に起きて外に出ていこうとしたり、いきなり両親のもとに帰ると言い出したり、もう手のつけようのない状態になった。
遥香が施設で暮らすようになり、僕たちはお互いに離れ離れの生活を送ることになった。空っぽになったキャンディ缶のように淋しい気持ちを抱える僕を他所に、施設での遥香は毎日、明るく元気で、楽しそうに過ごしていた。僕だけがこの世界にひとり取り残されてしまったようで、いつの間にか遠くに置いていかれてしまったようで、心にぽっかりと大きな穴が空いたような気持ちになった。それから、遥香がこの世界にいないのなら、いっそ僕のほうもいなくなりたいと思うようになった。遥香のいない世界など生きる価値もないと本気で思った。
そんなときに担当の医師から勧められたのが、脳の一部機能への人工知能の移植だった。
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