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「AIというやつです。脳には大脳辺縁系という場所があるです。そこに海馬というタツノオトシゴのような場所があるです」と先生は言った。 「タツノオトシゴ?」と僕は訊ねた。でも小声だったからなのか、耳が遠いからなのか僕の声は聞こえていないようだった。 「日常的な出来事や覚えたことを一旦置いておく場所なのです。パーソナルコンピュータでいうデスクトップのような場所なのです」  パーソナルコンピュータという言葉を久々に聞いた気がした。そして、僕はどのようなファイルであれ、デスクトップに一旦置いておくようなことはしないため、いまいちその説明がピンと来なかった。 「海馬で整理されたデータは、最終的に大脳皮質という場所に保管されるです。圧縮データのようなものです。つまりアーカイブです。奥さまはこの海馬の一部と、大脳皮質との間のバイパスが損傷しているです」  僕は、タツノオトシゴが水槽のなかで土管の形をしたオブジェをくぐりぬける姿を想像した。タツノオトシゴはしっぽの先(そもそもあのくるくるが正しくしっぽなのかは知らないけれど)を怪我していて、泳ぎづらそうにしていた。土管は古くなっていて、ところどころにひびが入っていた。その水槽の上には、僕との思い出や計算の仕方、昨日の献立のようなものがぷかぷかと浮いていた。 「ちょっと前の時代だったら、これはもう修復不可能だったです。でも今の時代ならもう治せるです。医療は日々、進化しているです。AIの技術を応用するです」と先生は誇らしげに言った。 「もっと前の段階でその治療法は試せなかったんですか。なんでいまになって」 「損傷がステージ4にならないとAIは使用禁止です。今の国際法ではそうなっているです」  先生は顔を真っ赤にしながらそう言った。詳しくは知らないけれど、医者がそう言うのだからきっとそうなのだろう。こんなところで技術やら法律やらを疑っても仕方がない。 「じゃあ、妻は治るんですね」と僕は言った。 「ですです。元通りです」と先生は言った。  だけど遥香は戻らなかった。手術が終わり、しばらくして、我が家に帰ってきたのは、やはり想像していた通り、遥香の形をした別の何かだった。
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