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 家に着いたのは、深夜二時過ぎだった。遥香はこんな遅い時間でもまだ起きていて、ソファーの上で文庫版の小説を読んでいた。  僕が帰ってきたことに気がつくと、遥香はソファーから立ち上がり、にこりとした笑顔を作りながら「おかえりなさいませ。遅かったですね」と言った。表情では笑っていても、言葉は最近のそれと(たが)わず、ひどく機械的に感じた。 「ご飯を温めますか?」 「いや、ごめん。もう遅いし、食欲はないんだ」 「では、今晩の夕食は冷蔵庫に入れておきますね。明日の朝、またお召し上がりになってください」  遥香はそう言うと、ダイニングテーブルに並んだチキンステーキとポテトサラダにラップをかけて、パタパタとスリッパの音を立てながら、キッチンに向かった。まるで給仕ロボットのような動きに見えた。  AIに支配されてしまった妻に、何を言っても無駄ではあるが、こんなに遅い時間に帰ってきた非常識な夫に対して文句一つ言わないことに、少しばかりの苛立ちを感じた。昔の遥香なら、顔を真っ赤にして、怒り狂い、おもいっきりふてくされていたに違いない。少なくとも、夕食の準備をして待っているなんて考えられない。  僕はすこし意地悪な気持ちになり、キッチンにいる遥香に向かって「お酒も飲んできた。まっすぐ帰る気がしなくて」と正直に伝えた。  遥香はこちらのほうに顔を向けると、ふたたびにこりと笑って「そうですか。でも、そういう日もありますよね」と言った。 「女の子とふたりきりで飲んできたんだ。黒いサマーワンピースがよく似合う、きれいな子だった。とても素敵な時間を過ごせた」 「それはとてもよかったですね。素敵な夜には、素敵な出会いがあるものですね」と遥香は言った。  その遥香の言葉を聞いて、結局、僕はひどく淋しくなった。いま目の前にいるのは、やはり遥香ではない。ただのAIだ。僕の言葉に対して、適切な言葉を返してくるだけのマシンだ。僕を怒らせないように、傷つけないようにプログラミングされた機械だ。こんなことになってしまったのは、僕のせいではあるのだけれど、これではやっぱり、日々、哀しくなるばかりだ。  僕はキッチンでまだ作業をしている妻の姿をした機械を見つめながら、遠い過去に思いを馳せた。それから大きく深呼吸をして「ねえ、遥香」と声を掛けた。「ひさしぶりにさ、ベランダで缶ビールでも飲まないかい。ふたりきりで」  べつにそれで遥香が帰ってくるなんて、思ってもいなかった。ただ、どうしてもやるせなくて、歯がゆくて、気づいたらそんな言葉が口から出ていた。  遥香は心配そうな表情を作りながら「もう深夜の二時を過ぎてますよ。寝なくて平気なんですか」と言った。 「たまにはそういう日も大切さ。それに明日は休日だよ。僕たちにはまだまだ時間がある」  僕がそう言うと、遥香は優しく微笑み、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。それから冷凍の枝豆を取り出して「おつまみもご用意しますね。すぐにお持ちしますので、先にベランダでお待ちになっていてください」と言った。  僕はカーテンを開いて、ベランダの窓を静かに開けた。もう七月の中旬だというのに、夜の風は不思議と心地よく、涼しかった。
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