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5
どれくらいの時間が経っただろう。虫の声が、遠くのほうから聞こえてきているような気がした。でもよく耳を澄ましているうちに、その音はとても近くから聴こえていることに気がついた。慌てて遥香のほうに目を向けると、遥香は俯きながら両手で顔を抑えていた。崩れ落ちそうになるのをなんとか堪えるように、静かにすすり泣いていた。
僕は慌てて「遥香?」と声をかけた。
すると遥香は涙でぐしゃぐしゃになった顔を僕に向け、「あなたはなんにも分かってない」と震えた声で呟いた。「わたしがどんな気持ちでいままで過ごしてきたか、どれだけ苦しんできたか、あなたは何も分かってない」
「遥香、落ち着いて。一体、どういうことだい?」と僕は頭に散らばった言葉ひとつひとつを慎重に拾い上げるように、ゆっくりと穏やかな口調で訊ねた。遥香の敬語以外の言葉を久しぶりに聞いた気がした。
「手術が終わって初めのうちは、またあなたと一緒に居られること、これからも一緒に思い出を残せることが嬉しくて仕方なかった。頭の中に機械が入っていようが、わたしはわたしだもの。何も変わらない。これから先もあなたとの人生を大切に生きたいと本気で思っていた」
遥香はそう言うと、目の前にある缶ビールを一気に飲み干した。そして空き缶をテーブルに置いたあと、また涙ながらに喋りはじめた。
「でも、だんだんと怖くなっていった。いま楽しいと思っている自分は、幸せだと感じている自分は、本当にわたしなのかって。怒ってるわたし、泣いてるわたしは本当にわたし? それともAIが学習した心理表現? わたしをわたしだと思っているものは、本物のわたし? 自我ってなに? 全部AIによって作り上げられたものじゃないのかって。そう思いはじめたら急に怖くなって、夜も眠れなくなって、あなたの顔を見たら、あなたからも疑われているんじゃないかって疑心暗鬼になって、余計に怖くなって。せっかくまた一緒になれたのに、このまま心が離れていってしまったらどうしようって不安になって」
遥香は顔を真っ赤にしながら、嗚咽混じりにそう続けた。そしてまた新しい缶ビールをあけて、勢いよく喉に流し込んだ。
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