風の花束

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 "赤い……鮮烈なまでの赤"  青白い月明かり差し込む……薄暗い窓辺。  廃墟を思わせる古めかしい古城は無数の紅の薔薇に囲まれ……その溢れ出る鮮血の如くに濡れた色は、散っていった命の慟哭(どうこく)にも似て、ただ妖美な残酷さを湛え、ひっそりと寂しげに闇の中に浮かび上がっていた。  それは、鮮やかすぎる赤だった。  古城にたたずむ美影。  濡れたように艶やかな長い髪が、冷たく乾いた風に揺れている。  漆黒の長衣に、黄金の細工物を絢爛(けんらん)(まと)い……それでも男の姿は、どこか遠い時代の忘れ形見のように悲しく寂れて見えた。  髪も、瞳も、その長身に纏った衣も全てが闇色をしているのに、美しい青年からは赤すぎるほどに赤い香りがした。血の滴るようなその唇のせいだろうか。皮肉げな笑みを微かに浮かばせた、その赤の……。  硝子(がらす)でできているようなその手に、彼は花瓶に生けられていた真紅の薔薇を一輪取った。  しかし、薔薇は恥らうように身悶えると、その手の中で音も無く崩れ落ちる。  もうすぐ、何もかも消えるだろう。  この城も、薔薇も……。  青年は優雅な足取りで窓辺へと寄った。  月明かりが、長く長く濃い影を引いた。  長衣の裾をはためかせて、優美に(きびす)を返す。  今にも壊れそうな音を発てる重い扉を開き、青年は部屋を出た。  延々と続く階段と、崩れた柱の群れ。壊れ堕ちた天井から月明かりが差し込み、石畳を蒼白く照らしていた。  手を伸ばせば、そこには薔薇が咲いている。  その中でも特に美しい数本を手折ると、それに清楚な宝石のついた銀の指輪を留めた。  永遠に続いているかのような長い階段を、彼は下りていった。  硬い靴音が、静かな孤城に響き渡る。  この世界には永遠の夜と、朽ちかけた城と、薔薇と、そして彼しかいないはずだった。  そうして世界の終わりを見届けるのが、彼の務めだったから。  やがて1つの扉の前で立ち止まると、青年は月の光を跳ね返すように鋭く、低い美声を響かせた。 「入っても良いか?」 「どうぞ……」  中から微かだが、女の声が返ってきた。  まるで蜉蝣(かげろう)のように儚げなその声。  青年は静かに、音をたてぬようにゆっくりとその扉を開いた。  そこには、外の暗黒とはまるで違った世界があった。  細工の凝った純白の調度品。  小さな窓には、白いレースのカーテンが揺れている。  そのすぐ傍に置かれたベッドの上に、白いドレスの少女がいた。  蜂蜜色の巻き毛が、その細く儚げな身体を覆うように長く長く腰まで包み込んでいる。  あどけなく可憐な顔はまるで雪のように白かったが、頬にはほんのりと淡い赤みがさしていた。(つぼみ)のように清楚な唇が、青年の来訪を喜ぶように微笑んでいた。 「これをお前に」  そう言って、青年は真紅の薔薇を差し出した。茎に銀の指輪が煌いていた。 「綺麗……」 「ここには、それしかないのだ。この部屋には……鮮やかすぎるかもしれないが」  差し出された手に、少女は小さなそれをそっと重ねた。  青年が微笑む。  それは限りない慈愛に満ちた、しかしとても悲しげな微笑だった。 「貴女の手は暖かい。こんな俺の心にさえ、優しく染み渡るようだ」 「それは、貴方にもその心があるからです」  少女は訊ねた。 「貴方様は、いつからここに?」 「最初の一輪が咲いた頃であろう」  延々と続く、夜空と薔薇。  それ以外、何も無いはずの世界だった。  そして全てが無に還っていくのを、見守ることだけが彼に与えられた仕事だった。  いつか彼自身が消えるときまで……それは定められた運命のはずだったのに。 「貴女は、何故ここに来たのだ」  気がついたらここにいたのだと、繰り返される問いに少女は何度も答えてきた。  強い風が窓を押し開け、吹き込んできた。舞うように揺れる淡い金色の髪。白いドレスが、夢のようにはためく。青年ははっとして少女の顔を覗き込んだ。瞬きをすれば幻のように消えてしまうのではないだろうか。  いや……何もかも、最初から全てが幻覚だったのではないか?  この城も、この世界も……この俺自身も、全て。  少女はただ微笑んでいる。  どこかで、澄んだ水の弾ける音が聞こえたような気がした。 「風のような人よ、貴女は突然現れて、俺の心に嵐を起こした。そうして去ってしまうのか。気まぐれに留まり、だが決して捕らえることのできない風のような人よ。貴女を、この薔薇のように束縛したい。どうか消えないでくれ」  青年が少女を抱きしめても、少女はどこか遠い所を見つめていた。  その先にこそ、唯一つの真実があるのだというように。  どこかで、何かが壊れる音がした。星々が消え、薔薇の花が一斉に散り始めた。朽ちかけていた城の柱が消え、階段が消え……白いレースのカーテンが消え、やがて世界は彼らと彼らを照らす月のみとなった。 「私、何故ここに来たのかわかります」  と、少女は言った。 「破壊と終焉しか知らない貴方……。貴方のその孤独と哀しみを、私は知っていました」  月が消えても、彼らは光の中にいた。  荒廃と滅びの王、終焉を司る破壊の神――。  少女の腕の中で、青年の姿が消えた。  そして最後に、少女が消えた。  そして世界はしばし眠り、次の目覚めを待つ。  新しい風の吹く、その日まで――……。
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