わすれもの

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「ねえ、マリちゃん。この人が、養育費を取るだけ取って、娘に面会もさせずに遊び歩いているように見える?」 私とその女の子は、何をどう言葉にしていいか分からずに、ずいぶん長いこと見つめ合っていた。 夫は、理不尽に娘を連れ去られた悲劇の夫の話を紡ぎあげていた。娘に会うためには養育費を言われるがままに渡すしかない、それでも面会日にはいつも理由をつけてあわせてもらえない、誕生日プレゼントも受け取ってもらえない、クリスマスの日には家の前まで行って部屋の灯を眺めてから帰って一人でワインを開けた・・・・ 「家に来たの? いつ?」 私は思わず声をあげた。言葉が次々に出てきた。 「養育費は娘の権利だからもらっています。でも私だって働いているし、遊びまわる暇なんてないです。そもそもあの人は、娘と面会したいなんて一度も言ってきてないんですよ」 本当に、夫は娘に会おうとしなかった。両親が止めていたということもない。父が、何の連絡もないとつぶやいていたことがあったから。 もはや私も香織も、思い通りにならなくなったアクセサリーなのだ。 「あの、すみません。私、分かりました」 彼女は小さい声で言った。私の言葉よりも、私の姿に納得をしたのだと思われる。 歯科医の受付だから、清潔感と笑顔は欠かせない。化粧は丁寧にしている。でもネイルは形を整えているだけだし、髪は後ろで一つ結びにしているから、毛先をカールすることもない。 生活感あふれる四十代の女の姿に、彼女は納得をしたのだ。 「でしょ。見てもらえれば分かると思ったの。養育費使い込んで遊び歩いてるようには見えないでしょ。乗り込んでいかなくて良かったわね。 うふふ、この子ったら、あなたの家に乗り込んで抗議するつもりだったのよ。せめてお子さんに会わせてあげてくださいって。だから、あたしが仲介したの」 吉野さんの言葉に、彼女は顔を赤くして、そのあと青白くなった。 「すみませんでした」 そう言うと、彼女は喫茶店を飛び出していった。おとなしくて真面目そうな子。二十代の頃の私も、あんな感じだった気がする。 私が夫に惹かれたのも、昔の彼女から受けたてひどい仕打ちに同情したからだった。思い出したくもなかった。 「相変わらずなのよ、彼。困ったもんだわ」 吉野さんが、つぶやいた。 「困りますね」 ウェイトレスが注文を取りに来た。 「チョコレートパフェを二つ」 吉野さんが注文した。 「こういう時は、甘いものがいいのよ」
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