19人が本棚に入れています
本棚に追加
「くうちゃん、忘れた」
車が高速道路を走り始めたところで、娘の香織が言い出した。
「くうちゃん、て?」
助手席に座っていた私の母、つまり香織の祖母が後部座席を振り返って聞き返した。
「くまのぬいぐるみよ」
香織の代わりに私が答えた。香織は小さな声でつづけた。
「パパが買ってくれたの」
とたんに、車内の空気が凍りついた。香織、いま私たちは、そのパパから逃げてきたのよ。
「くうちゃん、まだ、いすに座ったまんまなの」
戻ってほしい、と、香織は訴えている。思わず私は、香織のほおを叩いていた。香織に手をあげたのは、後にも先にもこの時だけだ。
でも、致命傷だったのかもしれない。
「ぬいぐるみなら、おじいちゃんが買ってあげよう。香織がほしいものなら、おじいちゃんがなんだって買ってあげるよ」
運転席の父が、わざとのんびりした口調で言った。香織はうなづいて、それっきりずっとうつむいていた。
私の足元には、小さなボストンバッグがひとつあるだけだった。夫と暮らしていたマンションから持ち出せたのはたったこれだけ。急いでいたからじゃない。私の持ち物が、これだけしかなかったのだ。
私は経済的DVを受けていた。自分でそのように思えるまで、離婚が成立してから一年かかった。
協議離婚するときは、そこが一番の争点だったのに、なんだか他人事のようだった。
だって、私はチョコレートパフェが食べたかっただけだから。
最初のコメントを投稿しよう!