わすれもの

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夫は引っ越しをせずに、あのままマンションに住み続けている。目的地が近くなるにつれて心臓がバクバクする。まだ、あのスーパーがある。香織と二人で途方に暮れていた公園もそのままだ。 「ママ、落ち着いて。安全運転だよ」 「分かってるわよ」 私は深呼吸して、マンションの傍に車を停めた。 「じゃ、待っててね」 「香織」 香織はマンションの玄関に消えていった。追いかけなくては。そう思うのに、金縛りにあったように動けない。自分が虫のように小さく思える。あの頃と同じ気持ちだ。でも私は母親なのだ。香織を守らなくてはならない。 そこまで考えて、私は車を降りようとした。 しかし、香織がマンションから出てくるのが先だった。満面の笑みを浮かべて、胸にくまのぬいぐるみを抱いていた。 「お待たせ」 車に乗り込んだ香織は、ぬいぐるみを掲げてみせた。 「くうちゃんです。お久しぶりです」 くまのぬいぐるみはほこりをかぶっていたが、きれいなままだった。おそらく触れられることもなく、ずっとウォークインクローゼットに置かれていたのだろう。 「連れてきたのね」 「うん。くうちゃん、寂しそうだったもん。あたしもずっと会いたかったし。おじいちゃんに相談したら、パパと話をしてくれたみたい。おじいちゃんのことは、相変わらず怖いんだね」 私は言葉も出なかった。香織はくうちゃんの頭をなでながら続けた。 「それとね、ママ。ずっと言おうと思ってたんだけど、このバッグ、パパ活じゃないから」 「え・・」 「パソコンの検索履歴はちゃんと消しといてほしいな。見たら傷つくじゃん。これはね、ジジ活です」 「ジジ活?」 「あの時おじいちゃん言ったでしょ。香織の欲しいものなら、なんだって買ってあげるって」 逃げてくるときのことか・・・ 「ずっとね。ママに謝りたかったの。どうしてチョコレートソースなんて欲しがったんだろうって。あんなこと言わなければよかったのにって」 「パパと、暮らしたかったの?」 「ちがうよ。そうじゃないよ。あの頃は、少しでもママが怖い思いをしなくていいようにしてたのに、何でよりによってあんなこと言っちゃったんだろうって、ずっと思ってた。でも、ママだってもう少しあたしのことを見てほしかった。あのころは、くうちゃんしか話せる相手がいなかったから」 そう。あの頃、私は、香織がどんな顔をしていたか、全く覚えていない。ずっと一緒にいたのに、頭の中は夕食のことばかりだった。 「ほんとはママに話したかったことを全部くうちゃんに聞いてもらっていたの。だから、くうちゃんと、離れたくなかったの」 私が恐怖に耐えていたように、香織も孤独に耐えていた。私はようやくそのことに思い至った。 「ごめんね」 「もういいよ。くうちゃんと、また会えたから」 そう言うと、香織は空ちゃんの顔を私に向けて。ぺこりとお辞儀をさせた。 「これからも、よろしくね」
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