わすれもの

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「くうちゃん、忘れた」 車が高速道路を走り始めたところで、娘の香織(かおり)が言い出した。 「くうちゃん、て?」 助手席に座っていた私の母、つまり香織の祖母が後部座席を振り返って聞き返した。 「くまのぬいぐるみよ」 香織の代わりに私が答えた。香織は小さな声でつづけた。 「パパが買ってくれたの」 とたんに、車内の空気が凍りついた。香織、いま私たちは、そのパパから逃げてきたのよ。 「くうちゃん、まだ、いすに座ったまんまなの」 戻ってほしい、と、香織は訴えている。思わず私は、香織のほおを叩いていた。香織に手をあげたのは、後にも先にもこの時だけだ。 でも、致命傷だったのかもしれない。 「ぬいぐるみなら、おじいちゃんが買ってあげよう。香織がほしいものなら、おじいちゃんがなんだって買ってあげるよ」 運転席の父が、わざとのんびりした口調で言った。香織はうなづいて、それっきりずっとうつむいていた。 私の足元には、小さなボストンバッグがひとつあるだけだった。夫と暮らしていたマンションから持ち出せたのはたったこれだけ。急いでいたからじゃない。私の持ち物が、これだけしかなかったのだ。 私は経済的DVを受けていた。自分でそのように思えるまで、離婚が成立してから一年かかった。 協議離婚するときは、そこが一番の争点だったのに、なんだか他人事のようだった。 だって、私はチョコレートパフェが食べたかっただけだから。
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