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防犯ブザー
『ここ最近、妙に不安になる事が多くて。』
晴美は手元のアイスコーヒーにささったストローを指でくるくる回し、時折口に含んでは、言葉を選ぶようにして、ぽつりと悩みを零した。彼女が手を添えているグラスはすっかり汗をかき、ぽたぽたと雫を机の上に落としている。
「不安って、具体的には?」
「う~ん…」
私の問いかけに晴美は小さく首をひねりながら、思い当たる節をなんとか言語化しようと目線を右上に泳がせた。
「なんて言ったらいいか…例えばさ、定番だけど、夜道とか。誰か後ろについてきてる気がする」
「まさかストーカー…とか?」
「いやいや、ストーカーまではいかないよ。ただね、会社の帰りに少しだけ人通りが少ない道を通らなきゃいけないんだけど、その…なんか、後ろから気配がしてさ」
「足音が…とか?」
「ううん、よくある怖い話みたいに、『自分の歩幅に合わせた足音が!』みたいなやつじゃなくてさ、ほんとに気配だけ。なんか、ついてきてる気がして」
「ふーん…」
私は晴美の主張を聞きながら、彼女と出会った学生時代の事を思い出していた。
晴美は性格もほどほどに明るく人付き合いもそこそこに良く、目立って素行が悪いこともなかったのだが、時々、「何かよくない事が起きるかも」なんて言っては、場の空気を悪くすることがあった。
虚言…とまではいかないし、所謂『霊感少女』的な言動こそハッキリ見せないものの、時々ふっと『一週間くらい、車には気を付けて』と言い出したり、友達が旅行に行くと言えば『観光名所の〇〇には近づかない方がいいかも』なんて言うことがあった。最初こそ私含め友人たちは晴美の不思議な言動にびびっていたが、結局何かが起こったことはなかったので、そのうち彼女の発言はスルーされるようになった。仲間外れにする、まではいかないけども、自然、友人たちは晴美に大事なことは話さないようになった。私もその一人で、元々彼女とは共通の趣味も話題もなかったから、社会人になってからは疎遠気味になっていた。それが何故今、こうして一緒に喫茶店で顔を突き合わせているのかというと、ある日久しぶりに晴美の方から連絡が入ったのだ。『悩みがあるから聞いて欲しい。どうしても香苗に聞いて欲しい』と、ご指名つきで。どう返事したものか迷っている間に、新たにシュポンと追撃連絡がくる。晴美が待ち合わせに指定した日付と場所は、偶然にも私に都合の良い内容で、旧友のよしみもあって仕方なく相談を受けることにした。そうして今に至る。
「こう言っちゃ悪いんだけどさ、後ろから気配がする…って、気のせいだったりするんじゃないの?なんか具体的に心当たりとか、人影を見たとか、そういうのはないの?」
「うーん…そういうのはなくて…うまく言えないんだけど、でも、気のせいではないと思う」
「そっかぁ」
私が誰かに誇れることが一つあるとすれば、スルースキルの高さだろうか。晴美のふわふわとした相談を受け始めて一時間ほど経つが、相談内容も期待外れというか、ある意味晴美らしい内容でむしろ感心すらする。私はチラリと腕時計に目をやってから、「あのさ、」と口を開きかけた。しかし先に晴美の方が「でね、」と強めに言葉を割り込ませてきて、私は思わずグッと言葉を飲んでしまった。
「不安なことを挙げ始めるとたくさんあるからその辺は端折るんだけど…今日香苗に来てもらった理由はコレなの」
晴美はやっとコーヒーのグラスから手を離し、濡れたままの手で脇に置いた大きめのトートバッグをまさぐると、机の上にコトンと何かを置いた。私は見慣れないそれに興味を引かれて、姿勢を前に倒す。晴美が取り出してきたのは、子ども向けの可愛いデザインの、防犯ブザーだった。
「なにこれ?防犯ブザー?」
「う~ん、ちょっと違うんだけど…まぁ、そんな感じで…」
「なんか煮え切らない感じだね」
「防犯というか…警告ブザーらしいの」
「らしい、って?」
聞いてみれば、晴美は自分の周りをウロつく不穏な気配に不安を覚え、時には怯える生活に疲れ果ててしまっていたそうだ。そんな折、学生時代とは違うルートで知り合った人から「お守り」としてこの”警告ブザー”を譲ってもらった、とのことだった。私は聞きなれない単語に遠慮なく眉をしかめながら、「警告ブザー…」と晴美の言葉を繰り返した。晴美は説明を続ける。
「使い方は防犯ブザーに似てるんだけど、機能がちょっと違うんだよね。ほら、ここの。紐を引っ張るとさ、防犯ブザーはすごい大きな音が鳴るけど、これはその時点では鳴らなくて。この紐を抜いて起動状態で持ち歩いてると、何か自分に大きな災いが降りかかりそうな時に、音を出して教えてくれるんだって」
「……で?それが、私と、どう繋がるわけ?」
私は一字一句区切りながら、晴美に問いかける。心の中では、晴美の次の発言がある程度予想出来ていて、既にげんなりした気持ちになっていた。
「ねぇ、香苗。悪いんだけどさ、この警告ブザーが本物かどうか、ちょっとの間でいいから試してみてくれない…?」
「やだよ」
「お願いっ」
「自分で試しなって」
「試したよ!もちろん試した!でも上手く使えなかったのかな、全然反応なかったの。でもモノは本物だと思うの!だから香苗に試してもらいたくて!」
「ええー…」
「お願い!何もないならそれはそれでいいから!持ってるだけでいいんだよ?一週間くらい経ったら、香苗の都合良い場所まで取りにいくよ。だからお願い、ね?」
「……」
「コーヒーショップのチケットもつけるから!」
◆
晴美と別れた帰り道。私は『警告ブザー』なるものと、某コーヒーショップのギフトカードを見比べて、ため息をついていた。ギフトカードの中には、誕生日の時ですらチャージしないような金額が入っていて、つい目が眩んでしまった。晴美も晴美だが、私も私だ。反省もこめて深いため息をつきながら、私はどうしたものかと考えあぐねた。正直、晴美の言っていることは眉唾ものだし、その知人とやらも怪しさ満点だ。下手をしたらGPSが仕込んであるかもしれない。いや、それはないか。GPSだってレンタルしても高いし、購入すればもっと高い。その知人とやらが晴美に恨みを抱いているならまだしも、話を聞く限り、本当に親切で譲ったもの…っぽかったし。私は警告ブザーを上から下からまじまじと見て、どこか変なところがないか探る。けれど見た目は、どう見ても子供向けの可愛い防犯ブザーそのもので、素人の私には違和感を見つける事ができなかった。
私は帰りがてらコーヒーショップに寄り、早速ギフトカードを使って期間限定のドリンクを注文した。それは甘くて冷たくて、知らぬうちに渇いていた喉にスーッと染みて心地よかった。その心地良さを堪能していると、晴美の妄言なんてどうでも良くなってしまった。私はその勢いのまま、警告ブザーの紐をツッと引き抜いた。説明通り、大きな音は鳴らない。私は引き抜いた紐ごと警告ブザーをカバンに投げ入れて、今度こそ帰路についた。
◆
その日の夜。汗をかいてベタついた肌に若干の苛立ちを感じながら、シャワーを浴びた。私は夕食の前にシャワーを浴びるタイプで、頭をわしわし洗いながら、このあと何を食べようかなどと考えつつ、いつも通りの手順で体を清めていた。
一通り体を洗い終えたあと、バスタブに張ったお湯にざぶんと体を沈める。あぁ、気持ちいい。ガス代水代を考えると湯舟にお湯を張ることは贅沢の一種でもあるが、晴美と会った今日、なんだか気持ちがドッと疲れていて、今日ばかりは良いだろうと入浴剤まで使ってお風呂に入った。
ラベンダーの香り。私の好きな香りだ。目をつむり、温かな湯気の感覚とほのかに香るラベンダーに浸かっていると、ふと、聞きなれない異音が耳を掠めることに気付く。
ビィ、ビィ、ビィ
「…?」
ダミ声のような、電子音。外で誰か何かしているのかな?と風呂場の小窓に近寄るが、そうすると音が遠のく。なんだろう?気持ち悪いな…。私はバスタブから少し腰を上げた姿勢で、音の出所を探る。ビィ、ビィ。その音は風呂場のドアに近づくと、かすかに大きくなった。
「家の中からしてる…?」
しかし、思い当たる節がない。私は少しの名残惜しさを心に留めて、ザパンとバスタブから立ち上がり、いそいそと体を拭いて部屋に戻った。クーラーの効いた部屋の中、確かにビィビィと先ほどより大きく音が聞こえる。服を着るのもそこそこに、広くもない賃貸の部屋をぐるりと一周まわって、自分のカバンにいきついた。あっ、と思った時には、”警告ブザー”を手に取っていた。音の出所は警告ブザーだった。そして私は焦る。起動方法は紐を抜けばいいと教えてもらった。だけどそのあとの、音を止める方法を聞いていない。音はそこまで大きくないとはいえ、耳障りなことには違いなかった。私はブザーを手元でくるくる回しながら、何かボタンのようなものがないか探す。なかった。紐を戻せば止まる?と思ったが、紐は芯も通っておらず、まるで使い捨てのようで、どうやっても本体には戻せない仕様だった。どうしよう、地味にうるさいんだけど…。私は晴美にブザーの止め方を問う連絡をいれてから、返事を待つ間もなんとか音を止めようと四苦八苦した。しかしダメだ、方法が思いつかない。ブザーには型番すら書いておらず、ネット検索にかけようとも、求める結果が出てこない。当然ながら、私が今持つ”警告ブザー”と同じ商品を見つけることすらできなかった。ここでふと、思う。まさかコレ…手作り、ってことはないよね?
ガタン!!!!!バサバサバサ!!!!!
「ヒッ!」
突如響いた大きな音に恥ずかしいくらい驚いて後ろを振り向くと、カラーボックスに仕舞っていた本が床に散らばっていた。本が、床に、散らばってる?地震…なわけないよね?何?は?どういうこと?
バリン!!!!!
「ぎゃっ?!」
今度は部屋の隅に置いてあった姿見が割れ、鏡面に縦に大きくヒビが入っていた。そこには部屋着を適当に着たままの、私の姿が映っている。偶然だろうか、ヒビは綺麗に私の姿を縦に割くように入っていた。
気味が悪い。何?何が起こってるわけ?
混乱した頭で部屋をぐるぐる見渡す。心なしか警告ブザーの音がさっきより大きい気がする。スマホを見る。晴美からの返信はまだない。晴美、早く返事しろよ!私は八つ当たりのように内心で悪態をつく。すると不意にスマホが震えだして、驚いて足元に落としてしまった。画面を見れば非通知の着信。非通知?このタイミングで?私は気持ち悪さを覚えて、スマホをただ見下ろした。早く切れろ早く切れろ。気持ち悪い!動くこともスマホから目を離すことも出来ないまま、足元を見下ろしていると、非通知の着信は一分ほどで切れた。よかった…とホッとした、矢先。
『ヴァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー』
「????!!!!!!」
机の上に置いてあった外付けの小型スピーカーから大きな唸り声が鳴りだし、私は言葉を失った。反射的にスピーカーを手に取り、床に投げつける。電源はオフになっている。他に繋いでいる機器もない。なのに、止まらない。止まらないよ何でだよ!!!!
ヴァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ヴィィーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
唸り声に呼応するように警告ブザーがついに大きな音を立て始めた。私は気持ち悪くて仕方なくてブザーも力いっぱい投げた。ブザーは引き出しのついた小さな棚に当たると、カツンと軽い音を奏でて跳ね返り、机の下に転がりこんだ。混乱に頭がおかしくなりそうだ、いやそのまえに、苦情がくるかもしれない、いや違うそんなことを考えている場合ではない、どうにかして、どうにかして唸り声もブザーも止めないと…!!!!!!
私はキッチンに走り、慣れない手つきで引き出しを探った。普段料理はあまりしない。だけど時々凝ったものを作りたくなって、道具から何から揃えて一度だけ使うことがある。あった。肉を叩いて伸ばす棒。小さなハンマーのような形で、頭部分の左右側面には大きさの違うトゲがついている。これなら。私は肉叩きの棒を引っ掴んで部屋に戻り、スピーカーを壊れるまで殴った。ヴァッ、ヴァー、アッという謎の声を聞きながら、頭の片隅で「安物で良かった」と思った。スピーカーの中身が見えてきた頃、気味の悪い唸り声は止まった。私はそのまま踵を返して、机の下に頭を突っ込んで、いまだうるさく鳴るブザーを引っ張り出して、容赦なく叩いた。バコ、バゴンと何度か叩くと、スピーカーに比べて造りが甘かったのか、ブザーはあっという間に壊れた。時折ヴィッ、ビ、と音は鳴るものの、それもしばらくすれば止んだ。
やっと訪れた平穏に、私は思わずへたりこんだ。
…どれくらい座り込んでいただろう。私はぼんやりとした視界のまま、散乱した本、壊れたスピーカー、粉々になったブザー、割れた姿見を眺めていた。なんだったんだ、今の…。スマホを見れば、晴美からの返信はまだなかった。アイツ…今度会ったら絶対許さねぇからな、と舌打ちをかまして、スマホをベッドに投げる。とりあえず部屋を片付けなければ。何よりこの気味の悪いブザーをさっさと捨ててしまいたい。そう思い、コンビニ袋を片手にブザーの前にしゃがみこんだ。我ながら派手に壊したな、なんて苦笑をしつつ破片を拾っていると、ふと、破片の中に小さな紙が混ざっている事に気付く。
「何これ?」
小さく、丁寧に畳まれたそれは、比較的新しい色合いをしていた。防犯ブザーの中身なんて開けたことはないが、こんな紙が入っているものなのだろうか?私はなんとなしに紙を広げた。
【呪】
赤黒いインクで書かれたそれを見て、全身から一気に温度がなくなった。
「な…」
ヴァーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
両耳の真横で唸るソレに、私はただ、前を向いて耐える事しかできなかった。
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