〝きみ〟へ

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寝返りを打つと、傍らに誰かいるような気がした。 誰かが眠っている。 夢の続きなのかもしれないから、気にしないでいようと寝返りを繰り返すと、傍らの誰かも真似するみたいに寝返りを打つ。自分によく似たヒト型のようなものが、ぼんやり視界に映る。 「きみって、誰?」 タモツはとうとう、訊かずにいられなかった。 「きみって、誰、誰?」 返事がないので、やっぱり気にするだけ損だという気持になって、タモツはベッドから起きだした。 いつもの朝食。トーストにミルクコーヒー、目玉焼き。グラス8分目の野菜ジュース。 食べ終えたところで、あっと顔をまだ洗っていないことに気づいた。 アハハと笑って、洗顔。 洗ってすぐのカミソリを駆使しての髭剃りが、このところの朝のお愉しみなのである。 電気カミソリとかでなく、床屋さんが達者にプロ的にお客の髭を剃る、そんな一人前の始末の仕方。 1カ月ほど前、けっこうおもしろいよと友人から勧められ、DVDをレンタルして観た昔昔のイタリア映画の西部劇(マカロニ・ウエスタンとか言うらしい)で、主人公のならず者が劇中床屋に行く、そこでの理髪師のカミソリの使い方がかっこよくて、真似してみたくなった。コンビニ買いの安直なカミソリを使ってのことだが、いざやり始めると難しい。カミソリを握る手の先がちょっと揺れるだけでも、切り傷が付いてしまいそうでヒヤヒヤした。 それでも、数日後には何とか格好が付く剃り具合となった。 そんなわけで、今朝も首尾は上々、歌でも歌いながらの髭剃りタイムが楽しい。 顎からノド元へとカーブを描く箇所を、スイッと要領よく剃ったりするのがとりわけキモチいい。 ところが、あっと指先が一瞬ヘンな揺れ方をして、ひとすじの傷を拵えてしまった。さほど痛くはないが、みるみる血がにじむ。 「ごめんよ」と傍らから声が聞こえた。 誰もいない。だが、声は確かに聞こえる。 「さっきからいる〝きみ〟だね」 タモツの問いに、はい、そうだよとすなおな返事がすぐに来た。 あんまり楽しそうに、カミソリでスイスイと髭剃りをやっちゃうので、この自分のことはもう忘れちゃったかのかなって不安になって、こうしたイジワルをしてしまったのだと言い訳される。 「だから、ごめんなさい」 「イイよ、気にしてないよ」 タモツもすなおに返した。そうして、あれ、気味がわるいなんて思いもしないで、自分はこうして、姿の見えない誰かと言葉のやり取りをしていると思った。傍らには、やっぱり誰もいない。それは確かなことなのだけれど。でも、いないと言えない。 「ホントにごめんなさい」 もう一度謝られると、顎のひとすじの傷が、ススッと消えた。 「あ、もう、治っちゃった。〝きみ〟のおかげだね」 「そう言ってもらえると、助かります」 「いや、ホント。気にしてないから」 頷くタモツに、いえいえ、ごめんなさいと謝るだけではキモチがすまないのですとその〝きみ〟はタモツには見えない首を振るのであった。 その日から、〝きみ〟はいつもタモツの傍らにいた。 目覚めの寝床、洗顔――今朝の髭剃りはまたまた快調ですね、なんて褒めたりもする。 大学へと行く道にも、むろん同行。見えない〝きみ〟は時折、肩など組みそうなしぐさをしたがるが、あ、ごめんなさいとその馴れ馴れしさを自制する。 イイんだよ、組たけりゃそうして、とタモツが物分かりの良さを見せてやろうとすると、そこに暴走車が来て、危うく轢かれそうになった。 だが、心配ご無用。さっと身をひるがえし、〝きみ〟はタモツを体ごと覆い、護る。 暴走車は、あれ?と不思議がるようなカーブ走行をして、そのまま去った。 「助かっちゃった。〝きみ〟のおかげだね」 「エヘッ、まだ序の口ですよ」 〝きみ〟は朗らかにも言った。 〝きみ〟の言うことは本当で、以後、タモツは幾度もの幸運に恵まれることになった。 片思いの大学友達に愛を告白すれば、交際が叶う。宝くじを買えば、十万円など当たる。 故郷で暮らす父親が重病だと知らされ駆け付ければ、息子の顔を見た途端、医者もびっくりの回復振りを見せる。 あれよあれよと奇蹟のようなラッキー続きに、〝きみ〟のおかげだね、とタモツは傍らの見えない〝きみ〟に、お礼を言うしかない。 そのたび、軽い笑い声を響かせて、こんなの序の口、序の口ですよ、と見えない〝きみ〟は繰り返すのだった。 その後も、長らくと〝きみ〟は、タモツの人生というものを絶えず応援してくれた。 大学を出れば、第一志望の会社に勤めることが出来たし、職場で知り合った女性とも、無理のない結婚が出来た。すぐに子供にも恵まれたし、会社での出世も早い。 「〝きみ〟のおかげだね」 タモツは、やっぱり、カミソリ使いの髭剃りなどしながら、言った。 社会人となってからも朝の洗顔後のその行いは続けていた。 ツルリさっぱりときれいな顔になったタモツに、 「ソンナコトはアリマセン」と〝きみ〟は謙遜し、 「みんな、タモツさんの実力、実力」とおだて、タモツを笑顔にさせる。 そして、こんなのは序の口、序の口、と変わらず、見えないままの〝きみ〟は繰り返すのだった。 タモツは、愛妻家だった。子煩悩でもあった。 家庭生活は平穏そのもので、我が暮らしぶりというものを、誰彼にとも自慢したくなるほどのもの――1年が過ぎ、3年が過ぎ、5年が過ぎる。 タモツはまた昇進し、第二子にも恵まれた。 二十代にして、一戸建ての家の購入も実現し、「あなたとケッコン出来て、ヨカッター」と元来陽気な妻は笑顔を絶やすことがない。 「〝きみ〟のおかげだね」 見えないままの〝きみ〟にお礼を言えば、 「実力、実力、みんなタモツさんのお力」と〝きみ〟は繰り返し、 序の口序の口と付け加えるのも、やはり忘れない。 ところが、その新居に移って、しばらくが過ぎてのこと。 妻の笑いが、日に日に目立って減っていくようで、、タモツは不安になった。 どうしたのだろう。 念願の一軒家住まいが始まったというのに、何か不満でもあるのだろうか。 「どうかした?」 「どうもしないよ」 「でも、この頃、なんだかヘンだ。いつものきみじゃないみたいだ」 そんな会話を交わすうちにも、妻の表情は翳りを帯びた。 「言いたいことがあるのなら、言ってほしい」 タモツは強い口調になった。 妻の顔が更に曇る。そして、言う。 「なんだか、あなたの他に、もう一人の誰かが、いるような気がするの。ずっと前から感じていたと言えば言えることだけれど」 「もう一人の誰か?」 「そう。そうなの。そんな感じなの、不思議なの……」 タモツは思わず黙って、ごめんとひとことだけ返した。 「ごめんって……どうして、そんなにすぐ、謝ったりするの。やっぱり――」 「やっぱり?」 「浮気、とか? わたし以外の誰かのことを思っているから、もう一人の誰かがいるって、わたしはそんな思いになるの?」 それしきのことであれば、自分はナントカカントカと笑って言い訳が出来そうな気が、タモツは咄嗟に思い、背筋が冷えた。 「そんな……浮気なんて、僕がするわけないだろ」 わざと焦った風の声を出して、こたえるのがやっとだったかもしれない。 「そうよね。わたしもホントはそんなこと思っていない。」 口ごもる妻は、しかし、 「ベッドで一緒に寝ていても」と決然とした口調で言った。 夫婦の営みの時も、そうなのだ。もう一人の誰かが、あなたのそばにいて、見張っていたり、何か言いたそうにしたりと、そんな感じがしている。 不思議なことを言うんだね。タモツは、半笑いの顔で返したが、背筋の冷えは、もっと募った。 その夜、タモツは、〝きみ〟にお説教をした。 「もう一人の誰か、なんて妻はもっともらしく言ってたぞ。勘付かれるようなことをしたのかよ」 ソンナコトしませんヨ。〝きみ〟はひとこと返して、バレちゃったかなと謝った。 「新居での新生活、ますますご夫婦仲がよろしいようで、ちょっとヤキモチなど焼いてしまいました」 「何を、した?」 「エヘヘ、やっぱりカミソリを使ってのことですよ」 「カ.カミソリ?」 「奥さまはね、時々、カミソリを使って、お顔をキレイにされます。その時にちょっとね」 女性も髭を剃るのか。 「いや、ムダ毛と言うべきかもしれませんね。その時に、わたしは、独身時代のあなたの時と同じ具合、ひとすじの傷など拵えさせてもらったのです。奥様の顎の下の辺りに、ちょちょいとイ・タ・ズ・ラ。エヘヘ、ごめんなさい」 明くる夜、タモツは寝床の中での愛撫の際に、妻の顎の下を確かめた。なるほど、ひとすじの傷がある。そっと指先で触れると、あっと妻は切なそうな声を出す。 「痛いかい?」 「そうでもないけど」 タモツは傷を二度三度と撫でてやり、舌先で、そっと舐めてやった。 「もう、だいじょうぶだ。すぐ良くなるよ」 ありがとう。妻はホッとしたように頷いた。 再び、円満な日々が戻った。 「もう、いたずらなんて、してくれるなよ」 タモツのお説教に、ハイハイと〝きみ〟は返事をし、それからしばらく沈黙した。 「ど、どうかしたかい?」 「いえ、どうもしませんが。いえ、やっぱり、どうもします、かな」 〝きみ〟はヘンな言い方をして、また黙る。 タモツは、ハッとした。怖くもなった。〝きみ〟が、もしかしたら、タモツが最も聞きたくはない言葉を、不意にも今、言ってしまうような予感がしたのだった。 「まだ、お別れしたくないよ」 タモツは先回りするよう言っていた。 「それは、わたしも同じですが」 「じゃあ、まだ、ずっとそばにいてくれ」 また、沈黙が来た。〝きみ〟は、それからおもむろに口を開いた。 「潮時かなって、そんなことを思うのです。あなたは、もう、わたしなんぞがおそばにいなくても、おシアワセに生きて行ける、暮らしていける。わたしはお役御免というところかもしれません」 ソンナコト、言わないでおくれ。タモツは泣くようにして縋った。 「そうだよ。〝きみ〟は今までいろんな幸運を僕にくれたけれど、そのたび、まだ序の口序の口って、そんなことも言ってくれてたじゃないか。そうだよ、序の口、序の口。まだまだ、ずっとずっと言い続けておくれよ」 タモツは、見えない〝きみ〟の体の全てを触って、引き留める。ここが〝きみ〟の頭だ、ここが手だ足だという調子、すぐ傍らの宙を手探りする。 「――パパ、どうしちゃったの?」 気付けば、いつの間にやら、我が子の長男長女が傍らで、不思議そうに父親を見ている。 我に返ったタモツは、何でもないよと照れ笑いをするしかなかった。 しばらくの日日が過ぎる。 タモツの暮らしは、やはり平穏そのものである。 妻が不安そうな表情を見せることもなくなったし。長男長女も元気に学校に通っている。 「ピクニックにでも、行こうか」 ある日曜日、タモツの方から誘って、家族で出かけた。 歩を進めるたび、春の快い日差しが照り、そよ風も吹く。 キモチイイ、イイキモチ。家族そろって、言い合い、アハハと笑う。 ピクニックと言っても、目的地である菜の花がいっぱいに咲く高台のパークは、さほど遠くはない。 「もうじき着くね」 「着いたら、お弁当だね」 長男長女は両手を振って、楽しそうに歩く。 高台に向かう坂道を、もう上がっていく。 「あッ」 そのうち、長女がカン高い声を上げた。 「ちょうちょだ。モンシロチョウさんだ」 菜の花がいっぱいのパークが近づいている証拠だろうか。 あッともう一度、声を上げる間もなく、長女の周りは、モンシロチョウだらけになった。 「スッゲー」 感嘆する長男の周りにも、モンシロチョウは飛んできて、彼をも囲む。 「ホント、凄いわ」 妻も、自分が大人であることを忘れたような無邪気なハシャギ方をして、スキップをしながら、子供二人と手を繋ぐ。 ああ、三人そろって、モンシロチョウだ、とタモツはその光景を見た。 ヒト呼吸した後、 「ホント、凄いなぁ。なんだか、イイことが起こりそうだなぁ」 思わず呟くタモツだったが、その言葉を、長男が受ける。 「そうだよ、パパ。ぼくも、なんだかそんな気がするよ」 「わたしも、そう思うよ」と長女。 ママもそうだよね、と子供二人に訊かれる前にも、妻は、ウンウンと目を細めて頷く。 そして、三人そろって、 「でも、こんなのはまだ序の口。もっと、イイコトがきっと起こる。うん、こんなのは序の口序の口」とコーラスでも歌うように口を合わせた。 序の口? 序の口? ハッとせずにいられないタモツは、しかし次の瞬間、全身をヒト息で引き裂かれるような恐怖にかられた。 坂道を猛スピードで、軽トラックが爆走して降りてくる。 あ、あ、危ない。あの暴走車は、愛しい家族を一度に轢いてしまう。 思わず駆け寄り守ろうとするタモツより先、しかし、救いの神がいた。 モンシロチョウの群れは、何事もなくといった軽やかさで、飛び交いのさまを濃くして、長男長女、そして妻にと、純白のガードを施し、軽トラックの暴走から身を躱させる。 妻、長男長女、彼らは何事もなかったように、手を繋いで、坂道を上る。 序の口、序の口。 言葉は本当に歌になって、タモツの耳に届く。 「序の口、序の口」 タモツも歌うように呟きながら、先を行く家族を追った。 やがて、呟きは歌そのものになった。 ♬序の口 序の口♬  口ずさむ今一つの声が、タモツの耳には聞こえてくる。 ああ、とタモツは嬉しくなるだけなって、 〝戻って来てくれたんだね。これからも、また、どうぞ、よろしくね〟 妻、長男長女の上を行くほどのモンシロチョウの取り囲みを享けている、その歌声の主に向かって、語り掛けていた。
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