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もう一つの顔
「あんた、最近食べる量減ってるわね」
弁当屋を閉めて二十一時頃に帰宅すると、夜勤に向かう母さんと玄関で出会した。今日、仕事だと言っていただろうか。
年甲斐もない、ギラギラ、テカテカした化粧に、膝丈の紫色のワンピース。うなじを大きく見せた、夜会巻き。昼間の「弁当売りのおばちゃん」姿からは想像もつかない。
にやけヅラのおっさんどもが、今夜も隣に座るのだろう。正直、こんな格好をしてほしくはない。俺がもっと稼げば、夜の仕事を辞めてくれるのか。
目を伏せて、脇を通り抜けた。
「気のせいだろ」
「店の仕事、頑張りすぎて疲れてない? すごく助かってるけど、学業優先でね。学校で友達はできたの?」
「余計なお世話。それよか、俺が別のバイトで稼いできた金、なんで使わないんだよ」
「あの茶封筒に入ってるやつ? あのね、子どもが稼いだ金に頼らなきゃ暮らしていけないほど、うちは困ってません。……タダ働き同然で店に立たせてるのに、エラそうか」
チャーハンあるから好きなだけ食べなさい、と言い残して母さんは出ていった。ボロくて狭いアパートの外階段を、カンカンカンカン、ヒールを打ち付けながら降りる音が響いてくる。
両隣からも、生活音に、お楽しみの声、色々聞こえてくる。薄い壁は、今日も仕事をしていない。
台所にある、ラップのかかったチャーハン皿を見ても食欲がわかないが、握り飯にしてショルダーバッグに放り込み、家を出た。
待ち合わせ場所へは、電車じゃなく、自転車を使えばすぐだ。
チャーハンむすびを頬張りながらゆったり漕いでも、約束の三十分前に公園に着いたが、それでもデビルの方が早かった。パツパツの黒いパーカー男が、電灯の真下にあるベンチに座っている。完全に不審者だ。
自転車を押して近寄れば、ヤツは「あっ」と声をあげた。真ん丸の白い顔が、ぬっと浮かび上がる。
「前田くん、大丈夫!?」
立ち上がって、デベデベ、砂を蹴るように走ってくる。顎でベンチを指すと、デビルは背中を丸め、すごすご戻っていった。
昼間と違って今は「餅」じゃなく、「マシュマロ」って感じだ。
ヤツは肩越しに俺を盗み見ながら、「今日、痛くなかった?」と尋ねてくる。舌が未だにヒリつくが、頷くのはシャクだ。
自転車をベンチ前に停め、サドルに股がったまま手を出す。
「まず、金」
「はい……」
デビルが、ぐしゃぐしゃの茶封筒を両手で渡してくる。封を破ると、三万円札出てきた。普段の倍だ。
「いつもより止めるのが遅くなってごめん……ちょっとだけど、割り増ししといた」
「へえ。次も多めに殴られてやろうか。金増えるなら」
「そ、それは……今月、もう結構使っちゃってるし……何より、痛いでしょ」
別に、さほど痛くはない。母方の祖父が柔術マニアで、子どもの頃は遊びに行くたびに受け身をとことん仕込まれた。だから打撃には強いつもりだ。
かわす、いなす、色々やりようはある。
「最優先は、稼げるかどうかだ」
せめて母さんが、弁当屋の仕事しかしなくて済むようにしたい。早朝から弁当を仕込み、俺が手伝いに入るまで弁当屋店主として動き回り、仮眠を挟んで夜勤。
あんな働き方、異常だ。
「一つ、お願いを聞いてくれたら……お金、割り増しする」
デビルがポツリ言う、「ケンカの仕方を、教えてほしい」と。
俺の答えは決まっていた。
「嫌だね。強くなられたら、俺の出番がなくなるかもしれない」
「な、なくならない、と、思う……やられ役も、まだお願いするつもりだよ」
少なくともしばらくは、とデビルは言葉を足した。
じゃあ、なぜ強くなりたい。考えたがわからない。向こうも口を割らない。女々しくて、脅せば金をほいほい出しそうなのに、意外と頑固。
出会った時もそうだった――三か月前の、高校の入学式。クラスは違ったが、俺とこいつは早々に上級生に目をつけられた。
俺は、下駄箱で待ち構えていた男集団に「なに睨んでやがる」と因縁を付けられ、下校前に屋上へ連れていかれた。先客が、デビルだったのだ。
実はこいつ、なかなかのボンボン。両親共働きで、毎月かなりの小遣いをもらっている。しかも親は月に数回帰ってくるだけで、ほぼ不在らしい。
ガキの頃からそういう生活なら、金目当ての連中から注目を浴びるのも納得だ。
"俺らの高校生活、お前のおサイフにかかってんだわ。お前のいない一年は張り合いがなかったぜ……また、よろしくなッ"
デビルと同じ中学で、当時から金を脅し取っていたと思われる金髪男が、ふっくらした腹を蹴り飛ばした瞬間が、焼き付いている――。
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