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薄暗い水路を青年が歩いていた。 青年の髪色は雪のように真っ白で、手足は長く、背は高いが線は細く、その顔色は青白く死人のようだった。 「フンフン、フーン……」 そこにいたネズミたちが鳴きながら彼を迎えても、気にもせずにただ進んでいく。 鼻歌交じりの青年の様子は、まるで花が咲き乱れる庭園の中を歩いているような――そんな軽やかさ。 この場所は、水の都アクアサレムにある地下水道――国中の人間へ聖水を与えるための貯水施設だ。 青年が住むこの国は、宗教によって治められていた。 教会のいう神の教義によって、その者の職業から結婚相手、さらには命日すら決められている。 平民や貴族など身分に関わらず、差別なく下される神の言葉は、この国に住む者たちとっては恩恵(おんけい)であり、(わずら)わしい悩みを消し去ってくれる救いだった。 この国では、一人ひとりにより素晴らしい未来を提示する神託(しんたく)により、運や間違いなどに影響されない人間の幸福が実現されていた。 「ここか……。(いつわ)りの神の水……」 白い髪の青年が足を止め、地下水道の奥にあった広がった空間の水源を見下ろす。 それから屈んで水に手を伸ばし、そっと一口飲む。 「これが聖水……? こんなもの、ただの水じゃないか」 白い髪の青年はクスッと上品に笑うと、すぐに立ち上がる。 青年はこの国が嫌いだった。 両親のいなかった彼は、赤子のときに孤児院へと入れられ、幼い頃から神の教義を学ばされていた。 同じく両親のいない子どもたちと共に、来る日も来る日も神の言葉を頭に叩き込まれた。 彼のいた孤児院は、けして裕福とはいえなかったが、確かな人の愛があった。 孤児院のシスターは、神の教え通りに差別なく、優しさと慈しみを持って子どもたちを育てていた。 この世界は神の愛によって、すべてが平等で平和になっている。 シスターの教えを受けた孤児は男女問わず、成人後に教会へと入り、立派な修道士となる。 だが、白い髪の青年だけがそうならなかった。 彼には違和感があったのだ。 幼い頃からずっと、シスターの教えに――。 神の言葉に――。 そして今、白い髪の青年は、この宗教国家を変えようとしている。 「これで皆、本来の姿に戻れる……」 青年はポケットからガラスの小瓶を取り出すと、それを眺めた。 うっとりしながら、彼は中に入った紫色の液体を見つめている。 小瓶の中身は毒だった。 なんの変哲もない、少しでも薬の知識があれば誰でも作れるようなもの。 その効果は、飲めば当然、少量でも肌に触れれば溶け、やがて死に(いた)るという猛毒だ。 国を統べる教会が与える聖水で人が命を落とせば、この国は大混乱に(おちい)る。 飛躍して考えれば、民衆たちはこれは神の怒りだと勘違いして教会へ訴え、最悪、暴動でも起きるだろうか? そうなればいいなと、白い髪の青年は肩を揺らし、その表情を(ゆる)ませた。 「ようやく見つけたぞ」 突然、青年の背後から声が聞こえた。 振り返るとそこには、修道服を着た男が立っていた。 その男の容姿は、短い黒い髪に、服の上からでもわかるほど鍛えられた体をしている。 年齢はその肌の(つや)精悍(せいかん)な印象から、白髪の青年と同じくらいに見えた。 「ヌンディー……」 「レイトナ……君か」 黒い髪の男は、白い髪の青年のことをヌンディーと呼んだ。 名を呼ばれた白髪の青年もまた、レイトナと黒い髪の男の名を呼び返した。 白髪の青年――ヌンディーには彼が現れることがわかっていたのだろう。 こんな人気(ひとけ)のない地下水道で、背後から声をかけられたというのに、全く動揺の色が見えない。 いや、むしろ嬉しそうにすらしている。 なぜならばヌンディーの表情が先ほどの微笑(びしょう)ではなく、まるで古い友人と再会したような穏やかな顔になっているからだ。 「ついにまがい物を捨て、本来の自分を取り戻したようだね。やはり君は、この国で唯一の人間だよ。……ああ、でも僕を入れたら二人になるか」 ヌンディーは小瓶をそっと床に置くと、レイトナのほうへと歩を進めた。 これから彼に抱擁(ほうよう)でもするかのような――そんな表情のままで。 「いろいろと談笑でもしたいところだけど、あいにく今は立て込んでいる」 「そんなこと知るか。この場で殺してやる」 レイトナが(にら)みつけながら殺意を吐いたが、ヌンディーはそれでも穏やかな顔まま、彼に近づいていく。 会話こそ交わし合っているものの、両者の表情は実に対照的だ。 「とても修道士の言葉とは思えないね。シスターが聞いたら泣いてしまうよ」 「シスターはもう泣くこともできない。おまえが殺したからな」 現れた修道士――レイトナは、ヌンディーと同じ孤児院の出身だった。 性格の違う二人だったが、院内では誰よりも仲が良かった。 しかし、ヌンディーは孤児院を出た後に姿をくらまし、レイトナは敬虔(けいけん)な修道士となった。 違う道を歩み始め、彼らの道は二度と重なることはないだろうと思われた。 だがヌンディーがシスターを殺したことで、二人の道は再び重なることになった。 幼い頃から親しくもずっと正反対だった彼らだったが、シスターの死によって、より互いを誰よりも理解するようになり、相手のことだけを見るようになった。 それはまるで、生まれたときからこうなる運命だったのだろう思うほどに――。
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