恋十夜

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■第一夜■■■■■■■■■■■■■■■■■  こんな恋をした。  明日も仕事だ、うるさいから泣き止ませろ。  不機嫌な声と散らかり放題の部屋に背を向けて、生後半年の娘を抱いて外に出た。     昼には汗ばむほどだった空気もすっかり冷えて、シャツ1枚の薄着で飛び出してきたことを後悔した。まだ泣き続ける娘の身体が冷えないようにおくるみでしっかり巻き直して、夜の住宅街をトボトボ歩く。  こんなことは初めてじゃない。でも決して慣れはしない。夜になると泣き喚く娘を持て余し、母性本能など微塵もない自分を呪いながら、数十分かけて外灯の下を歩くこともしばしばだった。  でも今はほんの少しだけ、この時間帯の外出を楽しみにしている自分がいる。何故なら―――。 「あ、上原さん、こんばんは。今日もお散歩ですか?」  後ろから近づいてきた車が静かに止まり、運転席の窓から知った顔が声をかけてきた。  近所の公園で知り合った西村マイちゃんのパパ。証券会社でバリバリ働きながらも、休みの日には子供を連れて遊具や砂場で遊ばせる子煩悩で優しいお父さんだ。  乗ります?と言われ、遠慮を口にしながらも、内心では喜々として後部座席に乗り込んだ。 「いつもすみません。なかなか夜泣きが収まらなくて……仕事終わりでお疲れなのに申し訳ありません」 「構いませんよ。ほんの数分このあたりを廻るだけですし。ウチも上の子の夜泣きが酷かったから他人事とは思えなくて」  半月ほど前、やはり泣き止まない娘を外であやしている時に、こうやって声をかけられた。夜更けに顔見知り程度の男性の車に乗るなんて普段の自分なら考えもつかない。しかし、慣れないワンオペ育児で心の底から疲弊しきっていた私には神の救いにも思えたのだ。車の振動が心地よいのか、盛大にグズっていた娘はあっという間に眠りにつき……それ以来、こうして夜道で出会えば、町内を一回りする距離を乗せてもらうようになった。いや、出会えるように時間をはかっているのだ、本当は。  後部座席から見える彼の横顔は穏やかで、唇の端には柔らかな笑みが浮かぶ。  仕事ができてイクメンでありえないくらいの優しさに満ちている……嘘みたいに出来過ぎな彼に惹かれるのはあっという間だった。  車内に薄く漂う、彼の体臭を載せたコロンの香をそっと吸い込んでから、知らぬ間に眠りについた娘の顔を見下ろす。  浮気したいわけじゃない。双方の家族を傷つけるつもりはない。第一、彼の方にそんなつもりかあるはずもない。休日の公園で見る夫婦仲睦まじい様子は、この深夜のドライブが100パーセントの親切心から生み出されていることを証明している。砂を噛むように潤いのない日々にほんの少し、きらめきを見たいだけ。そう、ただそれだけ。 「でも、ほんとに申し訳ないです。奥さんだってパパには早く帰ってきてほしいでしょうに」  形ばかりの遠慮を追加すると、彼はクスッと笑った。 「実は今、妻の母がウチに来てましてね。定年退職した夫と顔つき合わせているのがイヤだからって、ひと月近くずっと居るんですよ。僕が仕事で空けている間は子供の面倒をみてくれるし、妻も話し相手が出来て喜んでいるからいいんですけど、やっぱり気詰まりというか、くつろげないんですよね、自分の家なのに」  だから、このドライブはささやかな抵抗と気晴らしを兼ねているんです。  そう言って彼はバックミラー越しにイタズラ小僧めいた笑いを送ってよこした。  途端に胸が締め付けられる。キリキリと音をたてる痛みを隠して、共犯者めいた視線を返す。こんな小さなことがたまらなく嬉しく、何よりも切ない。  この恋を秘めておけるだろうか。いや、秘めなければならないし、第一、彼に受け入れられるはずもない。本来なら他人に心を移す資格すらないのだ。リストラで会社を辞めさせられたあと職探しもせず、産後間もない妻を働かせて糊口をしのぐ、いつまで経っても家事も育児も満足にこなせない、専業主夫と名乗るのもおこがましい、こんな自分には。 (了)      
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