大好きなお兄ちゃんと一緒に

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一 始まりは夢の中  初夏の海。どこまでも続く白い砂浜に、カラフルな色合いをしたビーチパラソルがあった。日差しを避けるパラソルの下にはサイドテーブルが置いてあり、トロピカルジュースに満たされたグラスが載っていた。  グラスに伸びる手があった。グラスに浮かべた氷が冷えた音を立てた。グラスに付いていた水滴がしたたり落ちた。 「きゃあ」  可愛らしい悲鳴が聞こえた。水滴が火照った身体に触れたのだった。グラスに差さっていたストローで、きんきんに冷えたトロピカルジュースを飲んだ。グラスをサイドテーブルに戻した。  サイドテーブルの横には、リクライニングされたビーチチェアーが置かれていた。サングラスを掛け、ハイビスカスの花の模様をしたビキニ姿で寝そべる女性がそこにいた。  おもむろに女性が上体を起こした。長い黒髪がきゃしゃな背中に掛かった。サングラスを外した彼女は、ビキニの容姿からは似つかない、幼い顔立ちをしていた。大きな瞳に鼻筋が通り、小さめな口元の左下には一点のほくろがあった。 「貴方、塗ってちょうだい」  女性から差し出された物は、小瓶であった。手を伸ばして取ろうとしたが、肝心の手は出なかった。  女性は口元を緩ませながら小瓶をねかせて、中に入っていた液体を手のひらに取った。首筋に手を当てて、ゆっくりと鎖骨に滑らせた。次に小瓶を胸元に持っていき、ビキニからあふれる胸にたらした。液体は胸の谷間のトンネルを抜け、くびれたウエストからおへそへと流れていった。 「さあ、いらっしゃい」  ビーチチェアーに寝そべって、女性が妖艶な微笑みでこちらを見た。液体に濡れた手で招いていた。生唾をごくりと飲み込んだ。一歩足を出そうとしたが動かなかった。今にも飛びつきたい衝動に駆られたが、何らかの力によって果たすことができなかった。  彼女を捕らえた視界の中に、突如毛むくじゃらな小型犬が出現した。犬はビーチパラソルの下に入って、女性の上体に乗っかった。小さな舌を出して、女性の首筋を舐め始めた。女性はくすぐられて、無意識に唇を開いた。頭を後ろにやって、しだいにあえいできた。 「あっ」  吐息をついた。 “それは日焼け止めのサンオイルだろ?”  声にならない音を出していた。犬は女性の胸元へと舌を這わせていった。本能に任せて行動する犬を止めたかったが、体が動かないでいた。ただ、この光景を見守る、観賞することしかできなかった。 「これは、蜂から採取したはちみつよ。私、昆虫が好きだから」  女性が真顔でいった。 “それじゃあ、バター犬ではなくて、はちみつ犬だぁ”  大声ですべてを否定したかったが無理であった。  犬の体はみるみる大きくなって、肥満たっぷりな大型犬となった。女性の上体に四本足で立っていた犬は、伏せた状態で彼女の上に覆い被さった。彼女の身体をペロペロしまくった。  歪ませた彼女の顔の表情やくねらせた彼女のビキニ姿が、脳裏にくっきりと焼きついた。 “止めてくれー、小次郎”  はちみつ犬は、はちきれんばかりになっていった。しまいには、パンッと弾けてくるくる回りながら、風船みたくどこかに飛んでいってしまった。  独り残った女性はビーチチェアーに横たわったまま、顔を背けて目を閉じていた。荒い呼吸を整えるように、口をわずかに開けていた。ハイビスカスの花の模様をしたビキニが、上下にうごめいていた。 「北川君、北川君」  誰かが自分の名前を呼んでいる声が聞こえた。この声は、畑内さんの音?  みさきは瞳を開けてみた。ぼんやりとした視界に二、三回瞬きをした。先程はちみつ犬と戯れていた、女性の童顔と目があった。 「なっ、何?」  みさきがつぶやいた。 「もうすぐ船が港に着くって、アナウンスがあったの。自然と起きるまで待っていたかったけど、そうもいかないから声を掛けたの」  畑内がはみ出した後れ毛を、耳の後ろに持っていきながらささやいた。 「いつの間にか眠ってしまったんだね。昨夜は遅くまでアルバイトをしていたから、寝不足だったんだ」 「だいぶ、疲れた様子だったもんね」  畑内が静かにいった。みさきは二つある小山の谷間から覗き込んでいる、逆さまな畑内の顔を間近に見てから、その先に垣間見える船内の天井を見つめた。  みさきは慌てて上体を起こした。そして、振り返って分かった。硬い二等客室の床に寝ながら、頭は彼女の膝の上に乗せていたことに。ようは、畑内の膝枕で、みさきは眠っていたのであった。 「あっ、ありがとう」  みさきは照れながらいった。 「どういたしまして」  畑内はにこりと微笑んだ。みさきは夢のワンシーンである、畑内が見せた妖艶な微笑みを思い出してしまった。みさきは頭を振って、妄想を払いのけた。 「ところで畑内さん、船内でずーっと麦わら帽子を被っていたの?」 「はい」畑内が麦わら帽子のふちを両手で持ちながらいった。「港を出てから、もう待ちきれなくて」 「そうなんだ」 「はい、ですから下船する準備を急いでしましょう」  みさきは頷いた。 「あーあ、楽しみだなあ。今日はどんな子達に会えるのでしょう」  畑内は船室から眺められる窓の外の風景に目をやった。小さな窓からは青空しか見えなかったが、胸の内は期待で大きく膨らんでいた。 二 お兄ちゃんの帰省  とある一軒家の門の前で、タクシーが止まった。タクシーの後部座席に乗っていた客が、運転手にお金を払って車から降りた。後ろのトランクを開けてもらい、キャリーバッグを取り出した。  門の前で人の気配を感じたのか、その一軒家の中から犬の鳴き声がした。太くて高い声で鳴く犬は、ほえているというよりも喜び勇んでいる鳴き方であった。周囲が田畑に囲まれているので、いっこうに近所の迷惑にならなかった。  みさきは自分のバッグを肩に掛けて、キャリーバッグを引いて一軒家の庭先に足を踏み入れた。一軒家は二階建てで、正面に玄関、左手には縁側があり、その奥に広間があった。右手には応接間らしき部屋が見えていた。二階にはベランダ越しに二部屋の窓があった。  一軒家の横には、軽自動車と軽トラックが駐車しており、その先に農作業で使用する耕運機や道具、その他荷物が収められている荷小屋があった。 「ただいまーっと」  玄関の引き戸を横にスライドしたとたん、大型犬が家から飛び出してきた。犬は背中から地面に倒れ込んだみさきの腹の上に乗っかり、長い舌で彼の顔を舐めた。 「わぁー、止めてくれよ」  犬の重みで身動きが取れないので、空いた両手で顔を隠そうとした。だが、犬の頭が割り込んで、ナメナメ攻撃を防ぐ手段はなかった。 「ちょっ、ちょっと待ってくれ。タイム、タイム」  秋田犬は舌舐めを止めようとはしなかった。犬に乗られていたみさきは目をつぶり、されるがままになっていた。 「小次郎、待てっ」  玄関先の廊下の方から、女の子の鋭い声がした。小次郎と呼ばれた犬は、動きを止めて振り返って見た。床を歩くスリッパの音が近づいてきた。 「お兄ちゃんから離れなさい、小次郎」  妹のほたるが玄関口で両手を腰に当てて、大きな犬を睨みつけた。小次郎は小さな唸り声を上げた。 「めっ!」  ほたるが一喝した。小次郎はみさきのお腹から渋々降りた。みさきの隣でお座りをして一鳴きした。 「クーン」  みさきがやっと立ち上がったところで、サンダルを履いたほたるがそばに立っていた。ほたるはリスをプリントした白のTシャツに赤のショートパンツをはき、髪型をショートボブにした活発な中学生だった。  ほたるは上目使いでみさきを見つめた後、思い切り叫んだ。 「お兄ちゃん、お帰り」  ほたるは勢いよく兄に抱きついた。みさきの胸元に顔を埋めて、両手を背中に回してぎゅっとした。両目を閉じて、しばらくの間そうしていた。 「ほたる、離れろよ」みさきが妹の頭の上からいった。「家の中に入って、休憩したいんだからさぁ」 「や~だもん。ずっとこうしているもん」ほたるは甘えた口調でいった。「だって、お兄ちゃんに会うの一ケ月ぶりだから、三十日の二十四時間分こうしていたい」 「兄としてその言葉はうれしいけど、今はいい」 「冷たいんだなぁー」  ほたるはふと目を開けてみた。みさきの足元にいつもの兄のバッグと、見知らぬキャリーバッグがあるのに気づいた。その横には、青いスニーカーがあった。  ほたるは視線を上げていった。細長い素足、しだいに淡色になる水玉模様のワンピース、ほっそりした二の腕、幼顔の女性が立っていた。  ほたるは驚きの眼差しでこの女性を凝視した。畑内は両手を胸元に当てて、うつむき加減にもじもじしていた。黒縁のメガネと麦わら帽子が目立っていた。  口をぽかんと開けているほたるに対して、畑内ははにかみながらいった。 「お兄さん思いの妹さんって、私憧れていたんです。北川君は本当にうらやましい限りです」  妹はあまりの恥ずかしさに顔を真っ赤に染めて、兄からぱっと離れた。みさきはほたるに突き飛ばされた形で、尻餅をついてしまった。 「いてっ」  上体はそのまま空を仰ぎ見て倒れた。青く澄み切った空の中に、ワンピースの下にある白いものが目に飛び込んできた。みさきは息を飲み込んで、ぱっと起き上がった。 「怪我はありませんか、北川君?」  畑内が心配して聞いてきた。 「……うん、大丈夫」  みさきは立ち上がっていった。黄緑色のポロシャツやベージュのズボンに付いた土を手で払った。 「おっ、お兄ちゃん。この人だれっ」ほたるは慌てふためいた。「何で勝手に家の庭に入ってきているの? 何でお兄ちゃんと一緒にいるの?」 「ほらほら、ほたる。落ち着きなさい」  家の中から声がした。淡い紫のシャツにジーパン姿の女性が、台所からやって来たのだった。みさきの母は、長袖のシャツを腕まくりしていた。 「早い時間に来れたんだねぇ。このお嬢さんが畑内さん、でしたっけ? みさきから電話で聞いていたんだけど」  早苗は先日交わした、みさきとの電話のやり取りを回想した。 「今日からこちらでお世話になります、畑内優子です。よろしくお願いいたします」  みさきに連れ添っていた畑内が、早苗にお辞儀をした。 「こちらこそ、大したお構いもできませんが、ゆっくりしていって下さい。申し遅れましたが、私がみさきの母です。そして、この娘が妹のほたる、この犬が小次郎です」 「よろしくね、ほたるちゃん」  畑内が微笑んだ。 「この人、お兄ちゃんの何なの?」  ほたるがご立腹な形相で、畑内を指差した。 「うーん、え~と、何だったけかなぁ。同級生、お友達、ガールフレンド」畑内が言葉を続けた。「一つ屋根の下で生活している同居人、同棲者」 「ガールフレンド、同居人、同棲者? それも一つ屋根の下で?」  ほたるがオウム返しに聞いてきた。 「何、変なこといっているんだよ」みさきが畑内にいってから、ほたるの方を向いた。「ただの女友達だよ、ただの」 「そうよ、いわゆるガールフレンドよ。それもみさきが初めてお家に連れてきたガールフレンドだよ」  早苗は満面な笑みを浮かべながらいった。 「はぁー」  ほたるは膝をがくりと地面に付けて、放心状態におちいった。母の他愛もない台詞で、生気を失ってしまったのだった。切れ長の瞳は、はるか彼方を見つめた。 「よろしくね、優子さん」  早苗がいった。 「こちらこそ、一晩お世話になります」  畑内は頭を下げた。 「お泊まりですって!」  ほたるが悲鳴にも似た声を張り上げた。 「小次郎はずいぶんとうれしそうよ」  小次郎は畑内の前でお座りをして、尻尾をやたらと振っていた。 「よろしくね、小次郎くん」  畑内がしゃがみ込んでそういうと、小次郎が彼女に飛びかかってきた。尻餅をついた畑内の上体に乗っかり、彼女の顔を夢中で舐め始めた。 「あはは……あいさつは、もういいから。小次郎くん、やめて」  畑内はざらつく舌から逃れようとして顔を背けるが、小次郎は必要以上に彼女の顔を追った。掛けていたメガネは外れ、被っていた麦わら帽子は落ちた。 「きっ、北川君。助けて」  畑内が叫んだ。大型犬に襲われる女性の光景が目の前にあり、“はちみつ犬と女性との戯れの再現がきたっ”と感激し、みさきは興味本位でこれを眺めた。 「おっと、小次郎。離れなさい」  みさきは我に返って、小次郎を畑内から引き離そうとした。小次郎は四つんばいになって、彼女から離れようとはしなかった。 「小次郎、駄目だってばぁ」  ほたるも尻尾を引っ張ったが、びくともしなかった。 「小次郎、いうことを聞かないのだったら、ご飯無しだからね」  早苗の一声で小次郎の動きが止まった。尻尾をだらんと垂らして、やっと畑内から離れた。 「いつまでも外にいるのも何だし、家に入ってちょうだい」早苗が手招きしながらいった。「この時間だとお父さんは畑にいるから、しばらくは家でくつろげるよ」 「お父さんがいると、変な意味いろいろ詮索してきて、話が長くなってしまうからね」みさきは畑内を立たせてやった。「電車や船の乗り継ぎで疲れていると思うから、中に入って少し休もう」 「ありがとう、北川君」  畑内はみさきから麦わら帽子を受け取った。メガネの位置を正して、みさきと一緒に玄関口へと向かった。 「みさき。昼食はどうする、もう食べてきたの?」  早苗が聞いてきた。 「フェリーターミナルの食堂で食べてきた」 「みさきはそこの料理が好きだもんね。子供の頃からいつも、食堂で食事をするのをねだっていたから」  みさきは咳払いをしながら、畑内の顔色をうかがった。畑内はスニーカーを脱ぐのに手間取っており、話を聞いていた素振りはなかった。 「船が遅れて港に着いたのがお昼時だったから、途中でご飯を食べて来た方が良いかなって。それに、昼食を用意しておいてとも、電話で話してなかったから」 「いいのよ、こっちも手間がはぶけて助かる」 「うん」 「まずは、みさき。お客さんを広間に案内してちょうだい」  早苗は二人を見送った後、独りうな垂れている妹にいった。 「ほたる。落ち込んでいないで、お客さんの荷物を持ってきて。頼んだわよ」  早苗は玄関口から顔を出して、庭先にいる犬にきつくいった。 「小次郎はしばらく外で反省していなさい。それができなければ、今日の夕食抜くからね。わかった?」 「クーン」  小次郎はお座りをしてうつむいてしまった。ほたるは隣にいた小次郎の頭を軽く撫でてやり、重い足取りでキャリーバッグを引いて、家の中へと入っていった。  早苗は廊下を通って、奥の台所に消えていった。 「みさき、飲み物はお茶がいい? それともコーヒーか紅茶にする?」  早苗はガスコンロにやかんを掛けながらいった。 「お茶でいいよ」 「分かった。しばらく休んでいてね」  早苗は明るくいった。ほたるがキャリーバッグを引きずって、縁側の奥にある広間まで運んできた。 「この中に何が入っているの、やたらと重いよ。お兄ちゃん、キャリーバッグ持ってきたよ」 「ありがとうございます」  畑内がいった。ほたるが瞳を大きく見開いた。 「何で服を脱いでいるんですか、それもお兄ちゃんのそばで!」  畑内が広間の中央で、着ていたワンピースを脱いでいたのだった。その隣でみさきがあぐらをかいて、テレビを見ていた。 「これから出掛ける準備をしていたのですが……ご迷惑だったでしょうか?」  畑内が戸惑いながらいった。 「若い女の子が男子の面前で裸になって、それもお兄ちゃんの真横で」  ほたるは泡食ってまくし立てた。 「下着は付けていますから、大丈夫です。それに、すみません」  畑内は一言謝ってから、ほたるからキャリーバッグを受け取った。 「お兄ちゃん、畑内さんに何かいってよー」  ほたるが広間に置いてあるテレビの前に座り込んだ。見ていたテレビが妹の顔アップに変わり、みさきは畑内がいる横の方に体をずらした。ほたるは兄を睨みつけた。  みさきは畑内の方に目をやった。 「お兄ちゃんは、見ちゃ駄目!」  ほたるはみさきの顔を両手で挟み込み、無理やり前を見させた。 「着ていた服はちゃんとハンガーに掛けてよ。そこいらに放り投げていると、しわくちゃになってしまうから」  みさきの声はくぐもっていた。ほたるにほほを押さえつけられていたのだった。 「だから服を畳んでいるのです」  畑内が答えた。 「下着姿のままいるんじゃなくて、何か上に服を着てから畳みましょうよ」  ほたるがいった。 「ワンピースを畳むよりも、ハンガーに吊るした方がしわにならなくていいんだよ」みさきがいった。「ほたる、縁側からハンガーを持って来てくれ」 「えー、やだよぉ。ここを離れるのは」  ほたるは膨れっ面をした。 「いいから早く着替えてよ。一休みしたら良い所へ連れていくから」  みさきがいった。 「は~い」  畑内は畳み掛けたワンピースを置いて、キャリーバッグの中から着替えの服とショルダーバッグを取り出した。 「良い所って、何処に行くのよ? 私も連いていくからね」  ほたるは口先を尖らせながら広間を出ていった。再度戻ってきた時には、畑内は黄色のシャツとカーキー色のズボンに着替え終えていた。 「畑内さん、ハンガー」  ほたるは彼女に手渡した。 「ありがとうございます」  畑内はワンピースをハンガーに掛けて、壁ぎわのフックに吊るした。 「お茶を持ってきましたよ」  早苗がお盆の上にお茶とお菓子を載せて、軽やかに広間に入ってきた。お茶を配って、どっかりと座卓の前に座り込んだ。 「先日の電話では“島を見て回る”っていっていたけど、観光に来たの?」 「島の観光巡りではないよ」みさきが答えた。「畑内さんの学業の一環」 「そうなの? 畑内さんは学校で、何の学科を専攻されているの?」  早苗が聞いてきた。 「農学部で昆虫学を専攻しています。今回こちらにお邪魔したのは、大自然の中たくさんの昆虫がいることを伺いましたので」  畑内はうれしそうにいった。 「ここが、大自然の中?」  ほたるがちゃちゃをいれてきた。 「島に生息する昆虫をいろいろ見てもらいたいから、すぐに出掛けようと考えているんだ」  みさきがほたるの発言を無視していった。 「えー、何時ごろ帰ってくる予定なのよ。みさきにはやってもらいたいことが山程あるんだけど。そのため、家に帰ってくるのを、心待ちしていたんだから」  早苗がみさきを見入った。 「そのやってもらいたいことって、何の用事?」 「家の中の掃除。いろいろと散らかっていたり、トイレとかお風呂とか台所とか、普段使っている所とかを、きれいにしてもらいたいの」 「そんなの、ほたるにやらせればいいじゃないか」  みさきが妹をあごで示した。 「ほたるはさぁ、みさきがいた頃は、みさきの手伝いをしていただけで、自分から掃除しようとはしないんだから」 「そうそう」  ほたるが発育途上の胸を張っていった。 「だからといって、家を出た俺が掃除してはいけないだろ」 「今度も私がお兄ちゃんの手伝いをするから、一緒にやろうよ」  ほたるは勢い込んでいった。 「じゃあ、こうしよう。俺は家の掃除をするから」みさきはほたるを見ていった。「お前は畑内さんをある場所に連れていってくれ」 「えー、やだよ~。だって私、車の運転できないもん。それに、私受験生だよ、今が一番大事な時期だよ」  ほたるが地団駄を踏んだ。 「俺に代わって掃除をする方を選ぶか?」みさきは二者択一をせまった。「ほたるは畑内さんの道案内をしてくれればいいよ、彼女は車の運転免許を持っているから。それに畑内さんを待っている間、勉強をしていればいいじゃないか」 「決まりね、今日の予定はそういうことでお願いするわ」  早苗は話をくくった。畑内は出されたお茶を飲んでいた。 「ほたるは出掛ける支度をしてくれ。俺の方も準備をすることがあるから、畑内さんは呼ばれるまでここで待っていて」 「はい」  みさきはお茶を飲み干して、広間を出ようとした。 「待ってよ、お兄ちゃん。私も支度する」  ほたるがみさきの後を追って、二人は広間からいなくなった。残ったのは畑内と早苗だけとなった。服を着替えた畑内を、早苗がつぶさに見つめた。 「唐突なんだけど、優子さん。うちのみさきはちゃんと学校へ行っていますか? シェアハウスというところはどんな所なんでしょうか?」早苗は矢継ぎ早に聞いてきた。「学校なりシェアハウスでも友達はできましたでしょうか? 食事はきちんと取っていますでしょうか?」  畑内は早苗の質問に頷いていた。 「最後に、うちのみさきとはどういうご関係で、どこまでいっているのでしょうか?」  早苗は真顔でいった。畑内は首を傾げた。  みさきは未だ玄関の前で、地面に伏せている小次郎を見つけた。 「何をしているんだ、小次郎」   小次郎はきちんと並べた両前足の上にあごを乗せて、上目使いでみさきを見た。 「そんな所で反省していないで、家の中に入りなさい。玄関の前にいられると、出口が塞がって、外に出られないんだけど」  みさきは腕組みをした。小次郎はやっと立ち上がって身震いをした。潤んだ瞳で、じっとみさきを見つめた。 「小次郎もほたる達のお供で、散歩でもしてくるか?」  みさきがいった。小次郎は輪を描きながら、庭の中央へと駆けていった。 「その前に、そこで待っていろよな」  みさきは玄関を出て、家の隣にある荷小屋に向かった。小次郎もその後に連いていった。  みさきは荷小屋に入ってすぐ横にあるとびらを開いた。そこは我が家の物置として使用している場所であった。みさきやほたるが使用した、子供向けの遊び道具とか自転車や勉強机等保管されていた。薄暗くてかび臭かった。  みさきは周囲を見回して、奥へと進んでいった。ほこりを被った箱とかバッグとかをかき分けて、お目当ての物を見つけた。 「よく、捨てられずにあったな」  みさきはそれを手に取っては荷小屋から出て、玄関へと歩いていった。 「おーい、ほたる。準備は出来たか?」  みさきは大声を上げた。ドタドタと二階から降りてくる足音が響いた。 「女の子の外出には時間が掛かるのよ。UVカットのクリームを肌に塗らないといけないし、虫除けスプレーも当てないといけないし、参考書は選んで持っていかないといけないし」  ほたるはそういったが、すぐさま出てきたところをみると、手抜きをした感があった。彼女はサンダルを履くと、みさきの脇をすり抜けて、手提げバッグを持って表に出た。 「畑内さんも出掛けるよ。持参する物とか持ってきて」  みさきがいった。 「北川君が呼んでいますので、失礼します」  畑内は早苗にいって、麦わら帽子とショルダーバッグを手にして出ていった。  みさきは庭先に置いた軽自動車の後部座席中央に、荷小屋から持ち出した虫取り網と虫カゴを入れた。小次郎が駆け寄ってきて、すたっと空いている後部座席のシートに乗った。 「こういう時には、すばやく行動するなぁ」  みさきは肩をすくめた。助手席に座っていたほたるも、首を横に振った。 「お待たせしました」  畑内が玄関から出てきた。 「運転席に乗って」  みさきは運転席側のドアを開けた。畑内は持っていた物を後部座席の足元に置いて、うきうきした足取りで運転席に乗り込んだ。 「それじゃあ、ほたる。畑内さんを例の場所に案内してやってくれ」 「了解」ほたるはいった。「行ってきまーす」 「安全運転で、よろしく」  みさきがいった。  畑内はこくりと頷くと、軽自動車を発進させた。両肘をぴんと伸ばした状態で、ハンドルを硬く握りしめていた。先程とは打って変わって、真剣な表情で前方を見つめていた。  車はみさきの横をそろり、そろーりと通り過ぎた。玄関前の庭まで来ると、がくっと止まった。  ほたるは思わずダッシュボードに両手をついて、上体が前のめりになるのを防いだ。 「ワンッ」  小次郎が後ろで不満げに鳴いた。 「大丈夫ですか?」  ほたるは恐る恐る聞いた。 「運転に集中したいから、話掛けないで……ください」  畑内は震えた声でいった。 「車が車道に出るまでに一言」ほたるが小さな声でいった。「畑内さんもシートベルトをして下さい」  二人してシートベルトをした。みさきは門の外に先回りして、道路に車の姿がないのを確認した。手招きをして、車が道路上に出るのを促した。やっと、軽自動車は一般道に出た。 「気を付けろよ」みさきは手を振って見送った。「さてと、家の中を片付けますか」  みさきは玄関に戻っていった。 三 島内で昆虫採集  ほたるは助手席で緊張していた。畑内が運転する車は左右行ったり来たりとふらつきながら、反対車線や歩道にはみ出さないように走っていたのだった。オートマ車だけあってエンストはしないものの、危なっかしい運転をしていた。 「前の信号を左、左に曲がって」  ほたるは早め早めに指示を出すことにした。しかし、畑内は運転に集中するあまり、曲がり角の直前でほたるの大声を聞いて、慌ててハンドルを切る始末だった。 「本当に大丈夫ですか?」  ほたるは付けているシートベルトを強く握り締めながら聞いた。 「たぶん、です」  畑内は前方を凝視しながら答えた。 「車の運転は慣れていますよね?」  ほたるが畑内の横顔を見た。彼女の強張った表情に、我が身の危険を感じた。 「免許を取ってから車を運転するのは、これが初めてです。それも実地試験を三回落ちた後にようやく受かりましたけど、運転のイメージトレーニングはしましたから万全です」  ほたるはめまいを覚えた。でも、ここで引き返す訳にもいかないので、せめて事故らないようにと策を講じた。ほたるはいつでもハンドルを持てるように、ブレーキが踏めるようにと、シートに浅く座って足の位置を変えた。   ほたるの強い願いが通じたのか、二人は無事目的地にたどり着くことができた。ここは四季折々の花が咲く公園で、島の住民の憩いの場として存在した。  畑内は車から降りると、長い黒髪をポニーテイルに束ねた。麦わら帽子をその上に被ると、虫取り網とショルダーバッグを持って、目前に広がった花畑へと入っていった。膝下くらいの草むらで、名も知らない花が咲き乱れていた。 「ワンッ、ワンッ」  車内で小次郎がほえた。ほたるが振り返ると、瞳をらんらんと輝かせた小次郎が目前にいた。小次郎は舌を出しながら、シートの上でお座りしていた。 「はいはい」  ほたるは仕方なく車内から降りて、小次郎のためにドアを開けてやった。小次郎は四本足で地面に足をつけると、大きく身震いをした。  ほたるも両手を空に向けて伸びをした。こんなに生きているのって素晴らしいと実感したことはなかった。ほたるは手提げバッグを持って、公園の木陰の下へと移動した。木に背をもたれ掛けて座った。  畑内が虫取り網をそーっと横に振って、花に集まった虫たちを取っていた。その光景を目にしたほたるは苦笑いした。手提げバッグから参考書を取り出してページをめくった。  小次郎はほたるの方を見ては、畑内がいる花畑に駆けていった。畑内は静かに周囲を動き回っていた。畑内は虫取り網を手元に寄せて、網に入った虫を注視しては放してやっていた。 「どうしてお兄ちゃんは、あんな娘を連れて来たんだろう?」  ほたるにはその答えが解ける訳でもなかったので、とりあえず勉強をすることにした。気が付けば、ほたるのそばに小次郎が寝そべっていた。畑内は公園の彼方まで行っていた。  ほたるは立ち上がって、両手をメガホン代わりにして叫んだ。 「畑内さん、次の場所に移動する時間ですよ」  ほたるは何度も繰り返して叫んだ。畑内は花畑にしゃがみ込んで、何やら熱心に下を見つめていた。ほたるの声は届いていないようだった。  ほたるは腕組みをしながら小次郎にいった。 「あの娘を呼んできて」  小次郎は立ち上がって、前足と後足を広げて伸びをしてから、さっそうと駆け出していった。小次郎は畑内に追いついて一吼えした。畑内はすくっと立ち上がった。  ほたるは両手を振って、もう一度大声で畑内を呼んでみた。  その頃北川家では、みさきが掃除機を持って、家中の床や畳のほこりを吸い取っていた。広間や縁側、反対側にある応接室や居間、奥にある台所を回った。更にトイレの掃除も念入りに行った。  ほたると畑内が向かった所は、広大な海が一望できる山の頂上であった。ここは標高が低い上に、車で頂上まで行けるのであった。その頂上の駐車場の片隅に、雨よけ用の屋根がついたベンチが設けられていた。 「私はあのベンチで待つことにするから」  車から降りたほたるが、ベンチの方を指差していった。 「はい」  ほたるはベンチに歩いていった。その後を小次郎が連いていき、畑内も続いた。みんな、ベンチに横並びに座った。 「畑内さん、疲れたの?」  ほたるが聞いてきた。 「いいえ」  畑内は持っていたショルダーバッグに手を入れて、何やら中をかき回していた。 「どうしたの?」  ほたるが首を傾げた。 「ちょっと探し物を――たしか、ここに入れておいた筈なのですが……」 「家に置き忘れて来たとか?」 「いいえ違うと思います。いろいろな物が入っているので、見つけにくいと」畑内は眉をひそめていたが、ぱっと顔を輝かせた。「あっ、ありました」 「そう、よかった」  ほたるは手にした参考書を開いた。 「ほたるちゃん。はい、これっ」  畑内がいった。ほたるは横にいる畑内を見た。彼女が差し出した物は、銀紙に包まれたチョコレートだった。 「疲れた時とか、脳が働いている時とかに必要でしょ」  畑内はにこりと微笑んだ。 「ありがとう」  ほたるはチョコレートをもらった。 「クーン」  小次郎が甘えた声で要求した。 「貴方には、これがいいかもね」  畑内は小次郎にそういって、ショルダーバッグの中をあさり出した。出てきた物は、ビニール袋に入ったクッキーだった。  畑内がクッキーを取り出している間、小次郎は畑内の目前でお座りをしていた。小次郎の激しく振る尻尾が、コンクリートの床をきれいに掃いていた。 「どうぞ」  畑内が小次郎にクッキーをあげた。小次郎はぺろりとクッキーを食べてしまった。それを見たほたるは笑いながら、チョコレートを口にした。 「それじゃあ、行ってきます」  畑内はショルダーバッグから透明な折り畳み傘を取り出しては、山の中へと消えていった。 「何で、傘を? 雨も降っていないのに」  ほたるは疑問を覚えたが、これも訳が分からないので、再び参考書を見入った。  畑内は茂みをかき分けていった。大木の根っこから見上げて、幹や枝を見ては登ってみたり、茂みに隠れた地面に四つんばいになったりした。  畑内は持ってきた傘を広げて、その傘を逆さまにした。茂みの下に傘を持っていき、茂みを手で揺さぶった。茂みに潜んでいた虫たちが、逆さまにした透明な傘の上に落ちてきた。  畑内はその虫たちをじっくりと眺め、ショルダーバッグの中から何やら取り出した。次に、畑内はけもの道に沿って歩いていき、どんどん奥へと進んでいった。  いつの間にか、ほたるはうたた寝をしていた。小次郎もほたるの足元で寝入っていた。  その頃、みさきは台所を掃除していた。焼き魚や焼肉でこびり付いた、ガスコンロの汚れは念入りに拭き取った。電子レンジは水拭きで、換気扇は油取り洗剤で洗った。  冷蔵庫のドアを開けたが速攻で閉めた。雑に詰め込まれた食材を料理に使ってから、中を整理しようと考えたのだった。  そよ風がほたるのほほを撫でていった。太陽は既に傾き、夕暮れ時が近づいていた。  ほたるは子供の頃、兄とよく遊びに来ていた菜の花畑で、ちょうちょを追っていた。花びらに止まったちょうちょに手を伸ばしたが、さっと羽を広げて逃げられてしまった。ふと、葉っぱの下を見ると、てんとう虫が一匹いた。  ほたるは好奇心の眼差しで、てんとう虫を間近かに見た。しばらく眺めていると、突然てんとう虫が飛び立って、彼女の鼻先に止まった。 「きゃあー」  ほたるは悲鳴を上げて、思い切り後ずさって尻餅をついた。てんとう虫を手で払っては泣いた。ほたるに駆け寄ったみさきは、泣きじゃくる妹の頭を撫でてから、両手でぎゅっと抱きしめた。  ほたるははっとして、昔の嫌な思い出から目を覚ました。 「なーんだ、夢か」  ほたるは安堵の溜息をついて、周囲を見渡してみた。当然、畑内の姿はなかった。 「畑内さん、何処にいますか? もう、お家に帰ろう」  ほたるは大声で叫んだ。耳を澄ましてみたが、返答はなかった。 「小次郎、畑内さんを呼んできて」  ほたるはいった。小次郎は嫌々立ち上がって、鼻を上にやってくんくんさせた。困った表情でほたるを見た。 「畑内さんをここに連れてきてちょうだい」  ほたるは両手を腰に当てていった。小次郎はお座りをしたまま、そこを動こうとはしなかった。顔を上げて遠吠えをした。小次郎の鳴き声は彼方まで届いた。  小次郎は耳を左右に動かして時を待った。ほたるも聞き耳を立てて周囲を見渡した。  やがて、茂みをかき分ける“ガサガサ”という音と共に、畑内が姿を現した。何やら満足した顔をしていた。 「畑内さん。夕暮れ時だし、もうお家に帰りましょう」  ほたるは顔を背けて、両手で腕をさすった。虫カゴに入った虫たちを想像して、ムシズが走ったのであった。 「ほたるちゃん、たくさん取れましたよ」  畑内はカメラを高々と上げてみせたが、ほたるは見ていなかった。それよりも、ほたるが注視するものがあった。  畑内のほほには、土が付いていた。服は泥まみれだし、木の葉や草が付いていた。膝や肘の辺りはどす黒くなっていた。 「畑内さん、どうしちゃったの。ちょっとこっちに来て」  ほたるは畑内をベンチに座らせた。 「カメラをそっちに置いて、腕を出して見せて」  ほたるは彼女の上着の袖をまくって肘を見た。 「血がにじんでいるじゃない。どうしたのよ?」 「たぶん、どこかで転ぶかして擦りむいたんでしょう」畑内は恥ずかしそうにした。「でも、いつものことですから、平気です」 「何いっているのよ。あとが残っちゃうでしょ」 「例の物を持っていますから、待っていて下さい」  畑内はショルダーバッグの中を開けて、水を入れたペットボトル、ティッシュと大小の絆創膏を取り出して、ベンチに並べていった。 「いつもこれらを持ち歩いているの?」 「はい、もしもの場合のためにバッグに入れています。水で傷口を洗うんです」 「私に貸して、手当てしてあげる」ほたるはペットボトルを手にした。「痛いけど我慢して」  畑内は彼方を見ては身を任せた。ほたるは傷口を水で洗い、ティッシュで水分を取った。片方の肘に絆創膏を貼ったほたるは、もう片方も服をまくってみた。 「こっちも怪我しているわよ」  結局、ほたるは畑内の両肘、両膝に大判の絆創膏を貼った。両手には小判の絆創膏を巻いた。畑内を立たせて、彼女の服に付いたゴミを手で叩いて落とした。最後にハンカチで、畑内のほほに付いた汚れを取ってやった。 「はい、これでおしまい。じゃあ、帰りましょうか」  ほたるはそういって、畑内を連れて車へと戻った。  その頃、みさきは夕食の準備をしていた。野菜は家の外に出て、道路の先にある畑から取ってきた。冷蔵庫を開いて、必要な物はテーブルの上に置いていった。みさきは集めた食材を前にして、小さく頷いた。  帰りの車中、畑内は未だ真剣な面持ちでハンドルを握っていた。 「畑内さんって、普段からあんな調子なの?」  ほたるがぽつりと聞いてきた。 「何がですか?」  畑内は正面を見据えながら聞き返した。 「虫やちょうちょを捕まえている時は、夢中になれる人?」 「たぶん、変わった昆虫を見つけ出した時には、無我夢中になることもあるような、ないような気がします」 「猪突猛進っていうか、擦り傷つくろうが服が汚れようが、構わない人?」 「まあ、その時は意識していないのですが、後になってやり過ぎたなって反省しています」 「ふーん、自覚はあるんだ」ほたるはずるがしそうな笑みを浮かべた。「とにかく家に着いたらシャワーでも浴びて、きれいさっぱりになりましょう」 「はい」  畑内はこころよく返事をした。そして、ほたるのナビで家までたどり着いた。 「ただいま」  ほたるは玄関に入っていった。その後を小次郎が続いた。畑内は車から降りると、虫取り網と空の虫カゴを玄関口脇に置いた。  ほたるは廊下を進んでいき、奥の台所までいった。 「わぁ、いいにおいがするー」ほたるは台所に立つ兄にいった。「お兄ちゃん、今日は何を作ってくれるの?」 「あっ、おかえり」みさきが振り返った。「今晩のおかずはポテトサラダとかぼちゃの煮物、アジフライとイサキの胡麻和えなどなど」 「お兄ちゃんの手料理、期待しているよ」 「了解」 「汗をかいたから、私シャワー浴びるね」 「その前に、お風呂の掃除をしてくれよ」 「えー、お兄ちゃん。掃除していないの?」  ほたるが膨れっ面をしながらいった。 「それはこっちの台詞。今日は畑内さんが泊まるから、部屋やトイレをきれいにするのに手間取ってしまったし」 「分かったわよ。お風呂掃除は後でやる」  ほたるは渋々答えた。 「その代わり、食後にはデザートを出すから」 「やったー、うれしい」  ほたるは喜んで台所を後にした。みさきは夕飯の準備を続けた。  一段落したところで、みさきはテーブルの上を見回した。あらかた、おかずは出来上がった。ワカメ入りの味噌汁も出来ており、ご飯が炊けるのを待つだけとなった。  静けさが戻った台所にいたみさきの耳に、水の流れる音が聞こえた。 「ほたるの奴、ちゃんと風呂掃除しているのかなぁ。俺も手伝ってやるか」  みさきは濡れた両手をタオルで拭いて、風呂場へと向かった。脱衣所のドアを開けて、洗面台の下のとびらを開けた。みさきはカビ取りスプレーを取り出していった。 「換気扇を付けて、掃除してくれよ。それにこれカビ取りスプレー」  みさきは浴室のドアを開けた。シャワーを浴びている女性がいた。カビ取りスプレーを差し出していたみさきは、その女性の背中を見ると、すぐに浴室のドアを閉めた。 「んっ」  浴室の洗い場でシャワーを浴びていた畑内は、ふと振り返ってみた。メガネを外していた彼女にはぼんやりだが、そこには閉められた曇りガラスのドアがあるだけだった。  静かに脱衣所を出たみさきは、ドアに背中を当てて小さく吐息をついた。目を閉じると、先程の光景が浮かんできた。すらりと伸びた脚、きゅっとした桃尻、くびれたウエスト、背中に掛かった黒髪。雫が弾けるように飛び、白い肌を伝って落ちていた。  みさきは首を左右に振って、その場を去った。 「なんだ、こんな所にいたんだ」  みさきがいった。ほたるが居間に敷いた座布団に寝そべって、テレビを見ていたのであった。 「風呂の掃除はやったのか?」 「やってないよ。だって、畑内さんが先にシャワー浴びたいっていったものだから」 「……それでは、仕方ない」  みさきは空いている座椅子に腰を下ろした。 「畑内さんって、変わっているね」  ほたるがみさきにいった。 「んっ、何が?」 「だっていい年の女性なのに、草むらで虫を追いかけたり茂みに入ったり、泥だらけになって擦り傷つくって、まるで男の子のように」 「ふーん」  みさきが気のない返事をした。 「おしゃれとか化粧とかは無頓着だし、周りには気にしないっていうか」 「うーん」みさきが視線を天井にやった。「そういえば、畑内さんのニックネームは、たしかミス・ファーブルっていったかなぁ」 「なに、それっ」  ほたるが興味深そうに上体を起こして、みさきに身体を向けた。みさきは妹に話をした。 「大学にある森林の中で、畑内さんがしゃがみ込んでいたんだって」 「それで」 「二時間ばかりそうしていたんだけど、何をしていたかというと」 「うん」  ほたるがこくりとした。 「蟻さんの行列を、ずーっと眺めていたんだって」 「はーあ?」  ほたるが呆れた表情をした。 「いろんな昆虫を見つけては、時を忘れて観察していたりするんだよ。だから、付けられたあだ名がミス・ファーブル」 「ミス・ファーブルねぇ」    ほたるは想像してみた。せっせと食べ物を運んでいる蟻を、メガネの奥から瞳を輝かせて眺めている畑内の姿を。じっとそばにいて、蟻の行進を見ている彼女をイメージできた。  そんな彼女のどこがいいのだろうか、ほたるは不思議になった。 「お兄ちゃんさぁ、この前のゴールデンウィークには家に帰ってこなかったよね。でもって、今回普通の土日で家に帰ってきたんだけど、畑内さんを連れて」 「家を出てまだ一ケ月しか経っていなかったから、ゴールデンウィークは帰省しなかったんだ」 「お兄ちゃんが大好きな妹としては心底気になるもので、実際畑内さんとはどうなのかなって不安になる訳ですよ」 「畑内さんとは何もないよ、シェアハウスに住んでいるただの友達。畑内さんの趣味である昆虫採集の話がたまたま出て、この島の昆虫のことをいったら、訪れてみたいということになっただけ。ちょうどこの季節がいいかなと思ったから、今日連れてきたんだ」 「お兄ちゃんが女の人を連れて帰って来たから、私てっきり彼女を紹介しに来たのかと勘ぐってしまったじゃない」 「はは、それはないだろ。だってあの畑内さんだよ」 「そうだね」  ほたるは安心して、胸を撫で下ろした。 「でもね、お兄ちゃん……」  ほたるが話しかけようとした。 「北川君」  畑内の声がした。みさきは居間のドアの前に立っている彼女に目をやった。 「私の荷物は、どこに置きましたか?」  畑内は先程まで着ていた服を両手に抱えて、下着のみの姿で立っていた。 「広間の奥の壁際に置いてあると思うけど」 「それが見当たらないのですよ」  畑内が困り果てた様子でいった。 「探してみよう」  みさきは畑内を連れて居間から離れた。居間を出る時、みさきがちらっとほたるを見た。彼女は背を向けたままテレビを見ていた。ほたるが畑内の下着姿を見たら、何をいわれるかと心配したが、無事それは回避した。  広間には、畑内のキャリーバッグはなかった。 「本当に、どこにいったんだろう」  みさきは腕組みをしながら広間に入り、その奥へと進んでいった。閉じていたふすまを開けて、広間の奥の部屋を覗いた。見たことのある畑内のキャリーバッグの他、部屋の中央に二組の布団が並んで敷かれていた。 「まったく何を考えているのやら」  みさきは頭を抱え込んだ。どんどんと足音を立てながら、畳の上を歩いて部屋の中央にいった。敷いてあった布団のひとつの端を持って、よいしょと部屋の隅に押しやり、二つ折りして片付けた。 「畑内さん、こっちにキャリーバッグがあったから、部屋に入って服を着替えてね」  みさきはそういって、すれ違いに部屋を出ていき居間に戻った。 「ほたる、畑内さんが風呂から上がったから、風呂場の掃除をしてくれよ」 「んー、今日疲れちゃったから、また今度にする」  ほたるは座布団に寝転がったまま顔だけ反らして、ドアの前で立っている兄を見た。 「何で?」 「だってさぁ、畑内さんの車の運転怖かったんだから。一般道路での車の運転、今日が初めてだったんだって。それに一緒に乗っていて、初心者相手にナビするのも大変だったんだ」  ほたるは身震いしてみせた。 「初めて、なんだ」 「うん」ほたるはにこやかにいった。「ところで、畑内さんは今何しているの?」 「たぶん彼女のことだから、採集した虫たちに防腐剤を注入して、整理しているだろう」  みさきはそっけなくいった。 四 二人でほたる観賞  両親が畑から戻ってきてから、夕食時となった。 「いやぁ、こんな可愛いお嬢さんにお目にかかれて、その上一緒に食事ができるなんて、今日は大いにめでたい日だなぁ」みさきの父がいった。「なにもない所だけど、のんびりしていって下さいな」  ここは広間で、みさきの両親とほたるが横並びに、向かい側にみさきと畑内が座っていた。畑内はクリーム色のシャツにピンク色のワイドパンツをはいていた。 「みさきと同じ下宿先に住んでいるんだって。いいねえ、みさきには勿体無いくらいだ」  みさきの父は終始笑っていた。ビール瓶を持ってグラスに注いだ。冷えたビールを一気に飲み干して満足げであった。畑から戻って一風呂浴びた父は、紺の甚平を着ていた。 「それで、今日はあいさつに来てくれたのかな?」  みさきの父は話を勝手に進めては、一人ご満悦になっていた。 「最初に話したように、畑内さんは昆虫採集に来ただけであって、俺はその付き添いで帰省しただけだから」  早くも顔を真っ赤にしてほろ酔い気分となった父に、みさきがいった。 「えっ、そうなの? お嬢さんがこの家に嫁いでくれたらよかったと思ったのに……残念」 「同じ農学部だけど、畑内さんは農業をするタイプでもないし、力仕事は無理だよ」  みさきは口にした。 「実家では、たまに畑仕事にかり出されましたけど」畑内がぽつりといった。「子供の頃から草むしりとか水やり、種まきや収穫を手伝っていました」 「本当?」  みさきが驚いて聞いた。 「本当です」 「じゃあ、畑内さん。これからもみさきのこと、よろしくお願いいします」  みさきの父は頭を下げて、豪快に笑った。 「お父さん、みさきもまだ大学生なんだから、将来のことはこれからですよ」  早苗がきつくいった。 「はいはい。でもこの先が楽しみだなあ」父はみさきが作ったおかずを口にした。「んっ、うまい」 「さあ、食べよう」  父の早とちりが解決したところで、みさきがいった。 「みさきの手料理を久々に食べられて、お母さんうれしいわ」 「いつも食べていたいよ、お兄ちゃん」  ほたるもおいしそうにおかずを食べた。 「私達は一日中畑仕事で家を空けていたから、ついこの間まで家事や料理のことはすべてみさきに任せていたもんね。だから、みさきが家にいないと大変なのよねぇ」  早苗がいった。 「お兄ちゃんが作る料理は美味しいし、大好き」  ほたるも答えた。 「そうそう」  父も同意した。 「畑内さんも、みさきの手料理は食べたことあるの?」  早苗が聞いてきた。ほたるは動かしていたはしを止めて、畑内を睨みつけた。畑内は首を傾げて口を開いた。 「以前、手料理という程のものを、食べたような食べていないような、曖昧です。すみませんが、はっきりとは覚えていないです」 「いいのよ」  早苗は残念そうにした。ほたるはほっとした。みさきは自分が作ったおかずをほお張っていた。 「だけど……」畑内は言葉を続けた。「だけど、私が田舎から出てきて慣れない生活環境下で、疲れが溜まっていたんだと思います。風邪を引いて寝込んだ時、たしかお粥を作ってくれました。あの時は頭がもうろうとしていて味は分からなかったのですが、優しい気遣いは十分感じました」  ほたるは呆然とした。早苗はやたらと頷いていた。みさきはただ黙って、はしを動かしていた。当の畑内は思い出したかのように笑みをこぼした。 「そっ、それは何。ねぇ、どういうこと?」  ほたるが立て続けに聞いてきた。 「それは、何だったのでしょうか?」  畑内は口元に手を当て、視線を上にして考え込んだ。広間にいたみんながはしを止めて、彼女を見つめた。  みさきはあの時のことを思い出していた。 「畑内さん、入るよ」  みさきはドアをノックしていった。みさきは風邪で寝込んだ畑内の具合を見に、夜分部屋を訪れたのだった。  ドアを開けて、すき間から部屋の中を覗いた。部屋は蛍光灯が点いておらず、カーテンの掛かった窓からわずかな明かりが差し込むだけで薄暗かった。耳を澄ましてみたが、何も聞こえてこなかった。  みさきは部屋の中に入り、後ろ手でドアを閉めた。部屋奥の壁につけられたベッドまで、すり足で歩いていった。ベッドの上に掛けられた毛布はなだらかな膨らみがあり、人がいることを教えてくれた。 「畑内さん、調子はどう?」  みさきは小声で聞いてみた。返事はなかった。みさきはベッドのふちに腰を下ろして、そっと手を差し伸べた。畑内の額に手を当てて、体温を感じてみた。 「まだ、熱があるなぁ」  みさきが手を戻そうとしたところ、別の手が乗せられた。 “???” 「冷たくて、気持ちいい」  畑内の口からもれた。 「起こしてしまったかなあ。氷まくらでも持ってこようか?」  みさきがいった。畑内は目をつぶったまま黙っていた。畑内はみさきの手のひらの冷たさを味わっていた。  みさきがゆっくりと手を引っ込めようとした。すると、畑内がむくっと上体を起こした。 「あっつい」  一言そういって、畑内は上着のパジャマを脱ぎ出した。両手でパジャマの裾を持って、一気に頭の上へと持っていった。 「ちょっ、ちょっと、畑内さん」  みさきが畑内を止めようとしたが、彼女の脱いだパジャマがみさきの顔に押し当てられた。湿ったパジャマから畑内の香りがして、みさきの鼻腔をくすぐった。 「北川君、熱いよー。苦しいよ~」  焦点が定まらないとろんとした目つきで、畑内がみさきを見つめた。メガネを外した普段見たことのない、潤んだ瞳にどきっとした。生唾をごくりと飲み込んだ。  畑内が背中に両手を回して、ブラジャーを取ろうとしていた。 「ごめん、畑内さん。本当に待って」  みさきは畑内の肩に手を置いて慌てていった。何を謝っているのだろう、何を焦っているのだろうか。 「んっ、なーに」  畑内はみさきの腕を取って、上体を横たえた。みさきは畑内の胸元に顔を埋めた。彼女は抱き枕みたくして、みさきに抱きついた。たじろぐみさきを、畑内は気持ちよさそうに両腕で抱きしめた。 「あー、冷たいよ、北川君」  畑内はそのまま寝落ちした。みさきは戸惑ったけれども、畑内の安心し切った顔を見ると、しばらくこうしていようと思った。 「ところで、ほたるはどこの高校へ進もうとしているんだ?」  みさきは話の矛先を変えた。 「お兄ちゃんと一緒のとこ」  ほたるは即答した。 「やっぱり家から学校に通うのが一番だよなぁ、自転車で通えるし」 「でも、本島の高校も一応考えているんだよ」  ほたるははしを置いていった。 「ふーん、それは大丈夫なの? いろんな意味で」 「それにはもっともっと勉強して、いい点を取らなくっちゃねぇ」  早苗がいった。 「だから、がんばっているじゃない」  ほたるは鼻息を荒くした。 「ほたるは昔から本番に強いから、努力すればどんな高校にも合格するかもなぁ」 「うん、がんばる」 「ほたるがいなくなると、家も寂しくなるんじゃない?」  みさきが早苗に聞いた。 「まあ、その時はその時であって、お好きなように」  早苗が笑顔でいった。 「そうなんだ」  子供二人が同時にいった。 「お父さんは、寂しいぞー。ほたるもいなくなると、この広い家にお母さんと二人切りになってしまうじゃないか」  父親が泣きながら叫んだ。 「まあまあ、この歳で新婚生活を送ると思えばいいじゃない」早苗が父親をなだめた。「それとも、私と二人っ切りじゃあ、何か困ることでもあるの?」 「いやあ、ないです。今でも十分幸せです」  父が頭を下げた。 「畑内さん。早くご飯を食べて、出掛けよう」  みさきは未だ考え込んでいる畑内にいった。畑内は我に返ってみさきを見た。 「ねぇ、次はどこへ行くの?」  ほたるが聞いてきた。みさきは持っていた茶碗を座卓に置いて、左手でほたるを指差した。 「えっ、わたし?」  ほたるは兄の指先を見つめて、自分の指で自分を差した。みさきはこくりと頷いた。 「そっ、ほたるを見に出掛けるんだ。ここから車で十分から十五分の所。隣の島ではほたる祭りを例年やっているけど、落ち着いた所でのんびり観賞したいって」 「あっ、そっ」期待をしていた分、ほたるはどっと疲れた。「私、お家で勉強しとく」 「うわぁ、ロマンチックねえ。畑内さんとみさきの二人切りで、蛍を見てきてね」  早苗は喜びながらいった。 「うー。それじゃあ、私も連いていく」  ほたるは身を乗り出していった。 「はいはい」  みさきは溜息混じりに答えた。 「さぁ、さっさと食べるぞぉ」  ほたるはいった。畑内はもくもくと夕食を取っていた。 「よく、食べるねぇ」  プチダイエット中のほたるがつぶやいた。 「いいのよ、畑内さんはいっぱい動き回ったんでしょ。みさきの手料理をたんと食べてね」  早苗がにこやかにいった。 「うー、私だっていっぱい食べる」  ほたるがおかずをがつがつと取った。 「そんなこというから、また」  みさきはやれやれと首を横に振った。この三者の光景を、当の早苗は笑って見ていた。父は独り晩酌を終えると、さっさと寝室に消えていった。 「後片付けはお母さんがやっておくから、貴方達は行ってらっしゃい」  早苗が食事を終えた兄妹にいった。ちなみに食後のデザートは、よく冷えたメロンであった。 「夜道はヘビが出るかもしれないから、小次郎も連れていった方がいいよ」  早苗がみさきにいった。 「畑内さんは平気だと思うけど、用心のために連れていった方がいいなぁ」  みさきもほたるにいった。 「それじゃあ、小次郎にご飯をあげなくっちゃ」  ほたるは早速立ち上がった。台所の冷蔵庫脇にある大袋から、ドッグフードをお皿に盛った。山盛りにしたお皿を手にして、玄関へと向かった。 「小次郎、ご飯だよ」 「ワン、ワン」  小次郎の鳴き声が響いた。 「ところで、お母さん。広間の奥の部屋に敷いた布団、あれは何?」  みさきが親指を立てて、後ろの方を示した。 「今夜、貴方達が寝る所でしょ」 「俺は二階の自分の部屋で寝るから、問題ない」 「あらら、みさきの部屋はもう既にほたるの洋服置き場になっているよ。だから、畑内さんの隣にみさきの布団を敷いたのよ」  早苗は微笑みながらいった。 「大きな誤解だよ。だから、今日は居間で寝るから」 「それは、残念ねえ」 「ごちそうさま」みさきが席を立った。「畑内さん、そろそろいいかな?」  食後のデザートを美味しく食べていた、畑内も立ち上がった。 「出掛けてくるよ」  みさきはそういうと、畑内を連れて広間を出ていった。玄関口に行くと、ちょうど小次郎がご飯を食べ終えたところだった。 「小次郎、夜の散歩に行くよ」  みさきがいった。小次郎は尻尾を振って、みさきの横にいた畑内に抱きついてきた。尻餅をついた彼女に、小次郎は馬乗りになって顔を舐め始めた。 「すっかり畑内さんのこと、好きになってしまったんだねぇ」 「先に乗っているからね」  ほたるは庭先に置いた、軽自動車の助手席に座った。 「さぁ、小次郎も早く」  みさきがドアを開けて、小次郎に中に入るように手で合図した。小次郎は一瞬動きを止めたが、畑内の顔をペロペロした。 「北川君、なんとかして……」  畑内が悲鳴を上げた。みさきは頭をかいてからいった。 「小次郎、畑内さんから離れて車に乗らないと、明日のご飯は無しだよ」  小次郎はしゅんとして彼女から離れた。上目使いでみさきを見て、仕方なくドアの開いた後部座席に乗り込んだ。  安堵の溜息をついた畑内も、起き上がって小次郎の横に座った。  みさきは運転席に収まると、車のエンジンを掛けて家を出た。ヘッドライトに照らされた夜道を、みさきは車を走らせた。助手席にいたほたるは前方を眺めていた。 「やっぱり、お兄ちゃんの運転だと安心するね」 「ワンッ」  小次郎も高らかに鳴いた。 「免許を取ってからしばらく車に乗っていたのと、この車と道に慣れているからだろ」  みさきはハンドルに軽く手を添えながらいった。 「そうだろうけどさぁ」  ほたるはご機嫌にいった。車は両側が森林になっている、舗装された道路を進んでいった。  ほたるは次第に眠くなっていった。車の軽い振動に揺られながら、彼女の頭は舟を漕いでいた。みさきはほたるをちらっと見て、車の速度を少しばかり緩めた。  車は四つ角を曲がって、公園らしき入口へと入っていった。奥の駐車場に車を止めると、みさきは後ろにいった。 「着いたよ。ほたるは眠っているから、そーっとドアを開けて外に出てきて」  みさきと畑内と小次郎が車から出た。駐車場には屋外灯が点いており夜を照らしていたが、あまりに数が少なすぎて、周囲の景色がはっきりとしなかった。 「この先が蛍の生息場所になっているんだ」みさきが公園の奥の方を指差した。「暗くなっているから、慎重に進んでいこう。小次郎、前を歩いてくれ」  みさきは小次郎を先頭に立たせ、畑内と並んで歩き始めた。駐車場を過ぎて、小道へと入っていった。生い茂った木々が、小道を一層暗くしていた。 「あっ!」  畑内が声を上げた。地面からむき出しになった木の根っこにつまずいて、転びそうになったのだった。みさきは畑内の手を取った。 「すぐに目が慣れると思うけど、足をすくわれないように気を付けて」 「……」  畑内はわずかに戸惑う仕草をした。  小次郎は地面のにおいをかぎながら、暗闇をどんどん進んでいった。時々立ち止まっては、みさき達が連いて来るのを待った。みさきは周囲に目を凝らしながら歩いていた。 「ここが、蛍がいる場所だよ」   やがて、みさきが畑内にいった。木造テラスの突き出た高台の下、湿原の茂みの中に小川が流れていた。小さな幾千もの光がきらめき、動き回っていた。  手すりに両手をついた畑内は瞳を大きく見開いて、蛍が飛び交う光景を見つめた。みさきは手すりに背もたれをして、夜空を見上げた。小次郎はみさきの足元に寝そべっていた。  風が野草を緩やかに揺らし、しーんと静まり返った夜を照らすように、光の群れがそこにあった。夜空に輝く星の明かりと、蛍が放つ光との調和に見入った。 「飽きるまで、眺めていていいよ」  みさきは畑内から離れて、高台中央にあるベンチに腰を下ろした。ポケットに入れておいた携帯ラジオを取り出し、スイッチを入れて耳にイヤホンを当てた。大学受験勉強の際、いつも聞いていたラジオ番組がやっていた。ポップな曲が流れる番組で、アニメチックな声を発するパーソナリティがよかった。  みさきはずーっと畑内の後姿を眺めていた。畑内はうれしさのあまり、瞬きをするのも忘れて蛍の光を追っていた。  駐車場への帰り道、小次郎、みさき、畑内の順で歩いていった。夜道に目が慣れたこともあって、畑内は両手を後ろに組んで、周囲を見回しながら歩いていた。 「ウウッ」  突然、小次郎はうなり声を上げて、茂みの中に入っていった。みさきは立ち止まって、小次郎が消えていった方を凝視した。小次郎が茂みを突き進む音が、暗闇の中に響いた。 「ワン!」  小次郎のほえる声がした。 「ネズミか野ウサギなどの小動物がいたのかなぁ」  遠くの方で小次郎が鳴く声が聞こえた。 「後から連いて来ると思うから、駐車場で待っていよう」  みさきがそういって歩き出した。畑内も続いた。駐車場にたどり着くと、車の前で小次郎がお座りをして二人を待っていた。 「ワン!」  小次郎が夜の散歩に堪能した表情をしていた。みさきが車の中を覗くと、まだほたるは眠っていた。 「相当疲れていたんだなぁ」みさきは畑内にささやいた。「静かに中に入ろう」  みさきは車の後部座席のドアを開け、小次郎と畑内を車内に入れた。みさきは車のエンジンを掛けて、来た道を戻った。  途中車が激しく揺れた所で、ほたるの上体ががくりと前に倒れた。シートベルトをしていたので、顔をダッシュボードにぶつけることはなかったが、目を覚ました。 「ふわぁー」  ほたるは欠伸をして、眠気まなこで前方を見つめた。ヘッドライトは暗い道路を照らしているだけだった。 「お兄ちゃん、後どれくらいで着きそう?」  ほたるが聞いてきた。 「後十分くらいかな」  みさきが妹の横顔をうかがい見た。 「そう……」  ほたるは半目を開けたままでいた。そして、車の揺れに誘われるかのように、深い眠りに入った。  みさきはほっとして、ルームミラーを見た。畑内も後部座席で眠っていた。 「小次郎」  みさきが小声でいうと、小次郎が小さく一鳴きして答えた。 五 おとなしく就寝 「どうして、起こしてくれなかったのよぉー」  家に着いたほたるの第一声であった。 「気持ちよく寝ていたし、畑内さんの面倒でだいぶ疲れていたから、そっとしておいたのさ」  みさきは居間の座椅子に座っていった。 「お兄ちゃんはそんな気を使わなくていいの」  ほたるはほほを膨らませた。みさきは肩をすくめるばかりだった。 「お風呂を沸かし直したけど、誰が一番先に入る?」  台所から早苗が姿を現した。みさきは畑内に目をやった。彼女は居間の座椅子に座るなり、寝入ってしまっていた。 「私、見たいテレビがあるから、お兄ちゃん先に入りなよ」  ほたるはみさきにいった。 「じゃあ、先に入ろうかな」  みさきはいったん広間へと向かった。ほたるは笑みをもらしながら、テレビを見ていた。  みさきは広間に置いたバッグから服を取り出して、グレイのジャージに着替えた。脱衣所に入って服を脱いだ。浴室の洗い場で掛け湯をしてから、湯船にゆったりとつかった。 「あ~あ」  自然と口からもれた。気持ちよく、目を閉じた。浴槽を出て、シャンプーで頭を洗った。ボディソープで体を洗おうとしたところ、背後から忍び寄る影があった。浴室の曇りガラスのドアがすっと開いた。 「お兄ちゃーん」  バスタオルを身体に巻いた、裸姿のほたるがいた。ほたるは浴室へと入って、後ろからみさきを抱きしめた。胸元のわずかな膨らみがみさきの背中に感じられた。 「なっ、何だよ。ほたる」  みさきが思わず叫んだ。 「この前まで一緒にお風呂に入っていたじゃない。今日も一緒に入ろうよ」  ほたるは笑顔でいった。 「この前までっていっても、ほたるが小学生の時じゃないか。今はもう中三だろ」 「そんなことはどうでもいいじゃない」  ほたるがささやいた。 「わっ、わかった、分かったから」  みさきは観念した。 「ほんと?」  ほたるは締め付けていた腕の力を緩めた。みさきは魔の手からすり抜けると、浴槽のふちに手を添えて勢いよく浴槽に飛び込んだ。お湯が洗い場にあふれ出した。 「お兄ちゃん(ハートマーク)」  ほたるは浴槽に片足を入れようとした。みさきはがばっと立ち上がって、ほたるの後ろへと回って浴槽から出た。 「あっ!」  ほたるが振り返って手を伸ばしたが、みさきの背中を捕らえることはできなかった。みさきは体を拭かないまま浴室を出て、脱衣所に置いた服を抱えて廊下へと出た。 「んっ、もう……」  バスタオルがはだけた後も、ほたるは去っていった兄の幻影を見つめた。みさきは廊下で服を着始めた。 「ほたるの奴、幾つになっても相変わらずだな。こちらが焦ってしまう」  みさきは一人愚痴をこぼした。居間に戻ってみたが、畑内はすやすやと眠っていた。 「こちらはこちらで、疲れているんだろう。まあ、寝かせておくか」  畑内の寝顔は幼ない女の子のように見えた。掛けていたメガネがずれて落ちそうになっていた。みさきは座椅子に歩み寄ってそれを取った。メガネを座卓の上に置くと、足音を立てずに居間を出た。 「とにかく、髪が濡れているのは嫌だな。でも今から脱衣所に戻るのもなんだかなぁ」みさきが向かった先は広間だった。「畑内さんのドライヤーを拝借して、髪を乾かそう」  みさきは畑内のキャリーバッグを広間の中央に移動して、キャリーバッグを開けた。キャリーバッグの中でまず目に入った物は、昆虫の図鑑であった。みさきは驚くこともなく、図鑑を三冊手にして畳の上に置いた。  次に姿を現した物は、標本ケースであった。同様に外へ出した。結局取り出した標本ケースは大小合わせて四ケースあった。 「気になった昆虫がいなかったのかなぁ? 一匹も標本ケースに入っていないし」  みさきは昆虫採集から帰ってきた畑内を思い浮かべてみたが、落胆した顔は思い出せず、満足した表情は鮮明に覚えていた。 「まあいいか」  みさきは再び手を動かした。やっと巡り会えた物は、無造作にキャリーバッグに入れた衣服の数々だった。みさきは押し込まれた服をひとつひとつ手で取っては、畳の上に並べていった。全ての服を外に出してみた。 「やっぱり、持って来ていない。予想通りだけど」  目的であったドライヤーはキャリーバッグの中に入っていなかった。みさきは畳に整列させた物を眺めた。 「さーて、やりますか」  みさきは独りつぶやくと、服をひとつひとつ丁寧に畳んでいった。青色のパジャマは、キャリーバッグには入れずに脇に置いた。シャツはキャリーバッグに入れ、下着も入れた。赤色の小さなルボンが付いた、白色のパンティを手にして目前にかかげた。 「純真な感じだけど、色気がまったく無いよなぁ」  みさきはしげしげと眺めた。みさきの背中で咳払いをする音がした。みさきはびくっと体を震わせた。 「あー、みさき。何しているの?」  みさきは恐る恐る首をめぐらした。手にしたパンティがぱらりと畳の上に落ちた。 「衣服が乱雑に入っていたから、整理しようと思って」 「よくやるわねぇ。我が家に来て、疲れて帰らないでね」  早苗がにこやかにいった。 「うん、大丈夫」 「早く片付けないと、ほたるがお風呂から出てくるわよ。みさきのその姿を見られると、大変なことになってしまうかも」 「そうだね」 「がんばってね、お兄ちゃん」  早苗は広間から出ていった。みさきは頭を左右に振って煩悩を払ってから、畑内の服をキャリーバッグにしまった。取り出した図鑑と標本ケースもきちんと揃えて、キャリーバッグの中に収納した。  居間に戻ると、未だ畑内が眠っていた。その横で、早苗がテレビを見ていた。 「お兄ちゃん、お風呂が空いたから、また入ってくれば」  ほたるが顔を出した。 「もう、いいよ」  みさきは答えた。ほたるは座椅子で寝入っている畑内を見てからいった。 「じゃあ、私は二階に上がって、勉強するからね」 「はーい」  早苗がいった。 「がんばりなよ」  みさきがいった。ほたるは手で応じて、居間から去っていった。母と息子はしばらくの間テレビを見ていた。 「お風呂、どうするの?」  早苗が聞いてきた。 「もう、入らない」  みさきは早苗を見ながらいった。 「貴方じゃなくて、畑内さんの方」  早苗はテレビを眺めたままいった。みさきは畑内へと視線を移した。 「どうするんだか」 「起こしてみれば。どうせこのまま、ここで寝てもらっては厄介だし」  早苗はみさきを見つめた。みさきは立ち上がって、畑内の肩をとんとん叩いてみた。 「畑内さん、もう起きて」  みさきはいった。彼女は目を覚ました。 「疲れているのなら、もう眠った方がいいんじゃない?」 「何、何ですか?」  眠気まなこな畑内は、状況が飲み込めていなかった。 「座椅子に座ったまま眠っていたから、起こしたんだ。お風呂に入るか、布団で眠るか、どっちにする?」  畑内は目をこすって小さく欠伸をした。焦点が定まらない眼差しで周囲を見回した。 「んっ、どうしたの?」  みさきが首を傾げて聞いた。 「私の、メガネは?」  畑内がいった。 「あっ、ここにあるよ」みさきが座卓の上に置いた物を手渡した。「眠っていたから、メガネを外しておいたんだ」 「ありがとう」  畑内はメガネを掛けた。 「お風呂どうする? 湯船につかって、今日の疲れを取る?」 「前にシャワーを浴びているけど」畑内は考え込んだ。「お風呂に入ってゆっくりします。服もパジャマに着替えたいし。それでは、失礼します」  畑内は早苗にお辞儀をして、ふらふらと出ていった。 「いい娘じゃないか、素直でみさきには勿体無いくらい」  早苗がいった。 「そうかなぁ」  みさきは畑内がいなくなった方を見つめた。沈黙が流れていった。 「ちょっと、トイレ」  みさきは気まずくなって、居間を出ていった。 「ふーん」  早苗は含み笑いをした。  みさきはトイレの後、こっそりと二階に上がっていった。階段が途切れた先に、みさきの部屋とほたるの部屋があった。  みさきは手前のドアを添い手で開けた。カーテン越しに月明かりが差し込んでいた。以前みさきが使用していて、今はほたるの洋服置き場になっている部屋である。  みさきは部屋の中に入って、後ろ手でドアを閉めた。部屋を見回すと、既に勉強机とベッドはなくなっており、洋服タンスや洋服掛けが部屋を取り巻いていた。  みさきは塞がれていない押入れに歩み寄り、そっと戸を横にずらした。そこは、まだみさきの私物であふれていた。  みさきはしゃがみ込んでは、押入れの下を覗き込んだ。奥の方にしまったダンボール箱を見つけると、手を伸ばして取り出そうとしたが止めた。 “次回来た時にでも、送ろう”  みさきはそう考えて、押入れの戸を閉めた。こっそりと部屋を出て、階段を降りていった。引越しの際置いていった、誰にも見られたくない大事な私物が、ガムテープで封印されたままであるのを確認して、ほっとしたのであった。    みさきが居間に戻ってくると、早苗が見つめてきた。 「……」 「何?」  みさきが早苗に聞いた。 「みさきは純白な下着を身に着けた、無垢な女性が好きだったの?」  早苗は聞き返した。 「はい?」 「優子さんみたいなタイプが好みだったなんて、お母さん知らなかった」  早苗は座卓に両腕を組んで、その上にあごを乗せた。にこやかな眼差しで、息子を見つめた。 「そんなんじゃないよ。それにタイプかというと、どちらでもないような気がする。ただのルームメイトなだけだから」  みさきは早苗の視線を感じながら、テレビを観賞している振りをした。 「本当の話、どうなの? 私はてっきり、彼女を紹介するために帰ってきたのかと喜んでしまったけど」 「その話は今日で三回目だけど、彼女とは何もないよ」 “ボーン、ボーン、――”  居間の壁掛け時計が十時を知らせた。 「みさきがそういうのなら信じるわ。その方がほたるにもいいからね」  時計が鳴り止んでから、早苗がいった。 「何だよ、意味深ないい方は」  みさきが早苗を見た。早苗は目をそらして、壁掛け時計を見上げた。 「優子さん、出てくるの遅いわねぇ。お風呂に入ってからだいぶ時間が経っているんだけど、一向に出てくる気配はないし。あーいったタイプの娘は、そんなにお風呂が長い訳ではないと思うんだけど」早苗は顔をほころばせていた。「貴方がその気じゃなくても、優子さんにはその気があったりして。それで、今夜のために念入りに身体を洗っているとか」 「それはない、絶対ない」みさきは座椅子から立ち上がった。「彼女の様子を見てくる」  みさきは急いで風呂場へと向かった。脱衣所の前の廊下で立ち止まって、聞き耳を立てた。お湯を使っている音もせず、ただシーンと静まり返っていた。たぶん、湯船につかっているのだろうか。 「畑内さん。お風呂長いけど、何かあった?」  みさきは戸口で声を掛けた。返事はなかった。  みさきは脱衣所のドアを開けてみた。彼女の脱いだ服が、無造作にカゴの中に入っていた。曇りガラス越しに人影を見ようとしたが、分からなかった。 「畑内さん、どうしたの?」  みさきが声を高めていった。やはり返事はなかった。 「ドアを開けるよ」  みさきは浴室のドアの取っ手を持って、しばし迷った。目をきつくつぶったまま、ドアをそっと開けた。湯気がみさきのほほに触れた。  悲鳴も叫び声もなかった。そろりと目を開けてみた。そこには、湯船にどっぷりとつかっている彼女の姿があった。 「畑内さん」  みさきは浴槽の前で膝をつき、畑内の肩をつかんで上体を揺すった。ほほを叩いてみた。 「畑内さん、しっかりして」  みさきは彼女の耳元で呼んだ。畑内はかすかなうめき声を上げて、顔を背けた。みさきはほっと胸を撫で下ろした。 「畑内さん、立てる? 浴槽から出られる?」  畑内の意識はもうろうとしていて、動ける状態ではなかった。みさきはすぐさまお風呂の栓を抜いて、お湯を流した。  畑内は浴槽の中で、膝を曲げて入っていた。みさきは浴槽のわずかな隙間に足を入れた。畑内と対面する形で彼女の腕を自分の首周りに回し、わき腹に手を差し入れて持ち上げようとした。が、いかんせん、狭い浴槽の中無理な体勢では、彼女を持ち上げることができなかった。 「手伝おうか?」  みさきの脇で声がした。みさきは飛び上がらんばかりにびっくりした。脱衣所の戸口に立っている早苗がいた。 「なーんだ、お母さんか。ほたるかと思って、どきっとしたよ」  みさきは吐息をついた。 「そんなに似ていたかい、ほたるの声に」  早苗が喜んでいった。 「うん、まあまあかな。それよりも、早く畑内さんをここから出そう」 「分かったよ。それに、こんな所をほたるに見せられないからね」  早苗は靴下を脱いで、浴室へと入っていった。 「まずは彼女を浴槽から出してあげないとね。こういう場合は、一人は背中から両脇に手を入れて、胸元で手を組んで持ち上げる。もう一人は太ももの間に入って、両手で太ももを持ち上げて移動させる」早苗はいった。「みさきはどっちにする?」 「重たい方を持つよ」 「密着度合いからすると、みさきは背中から彼女の胸をさわる役ね。私は視覚的に正面からみさきの顔が見られる方にするわ」 「そのいい方、やめてくれないかなぁ」 「今いったことと、これからやろうとすることは同じでしょ」 「……」 「いいわね」   早苗は畑内の足の隙間に両足を割り込ませ、太ももの下に両腕を入れた。みさきは体を滑り込ませて、畑内の背中へと回った。 「せーのでいくよ」みさきがいった。「せーの」 「待って」  早苗が叫んだ。みさきは込めていた力をいったん緩めた。 「どうしたの?」 「何で、優子さん。両膝に大きな絆創膏をしているの?」  みさきは早苗にいわれて、畑内の膝を見てみた。 「昆虫採集で怪我をしたんだろう。彼女にとってはいつものことだよ」 「ふーん」 「それじゃあ、いいね。せーのでいくよ、せーの」  二人は腰に力を入れて、畑内を持ち上げた。彼女を浴槽から出して、脱衣所の外の廊下でいったん床に降ろした。畑内の頭ががくっと垂れて、頭に巻いていたタオルが取れた。長い黒髪が床に広がった。 「ふー」  二人は廊下に座り込んで、口を開いては荒い呼吸を整えた。  早苗はやっと立ち上がって、脱衣所からバスタオルを持ってきて、それを横たわった畑内の身体に掛けた。 「お風呂で二度寝してしまったんでしょう。のぼせているかもしれないから、お布団に入れてあげなよ。膝を曲げて頭を冷やしてあげるといいよ」早苗がいった。「私は疲れたから、このままお風呂に入るからね。後はよろしく」  早苗は脱衣所へと入っていった。 「畑内さんをこのまま床に寝かしておくのか?」 「みさきがこの娘を抱いて、広間まで運ぶんじゃない」 “???”  みさきの頭の中は、何も考えていなかった。思考が止まった。 「だからさあ、貴方がお姫様抱っこをして、彼女を連れていくんだよ。女の子の憧れでしょ」  早苗はウインクをしてから、脱衣所のドアを閉めた。 「もう」みさきは両手を腰に当てた。「お母さんも憧れているのかなあ」  とはいうものの、こうしている訳にもいかないので、みさきは畑内の横にしゃがみ込んだ。片方の膝を曲げ、もう片方は床につけた。だらんとした畑内の片方の腕を自分の首の後ろへと回し、膝の下と背中に手をやった。 「よいしょ」  掛け声と共に力を入れて、彼女を抱き上げた。浴槽から出した時とは違い、身体が軽く感じられた。それでも、慎重に足を進め、どこにもぶつからないようにした。畑内の温もりがダイレクトに感じられた。  みさきは広間にたどり着き、その先の部屋のふすまを足先で開けた。客用の布団の横で、掛けていたタオルケットを足先でずらしていった。一瞬ふらついてしまったが、どうにか持ちこたえることが出来た。  畑内を布団の上に降ろして、みさきは大役を果たした。 「疲れた~」  まくらを外して、それを畑内の膝の下に敷いて、膝を曲げるようにした。バスタオルを掛けたままタオルケットを身体に被せ、台所へと向かった。  手ぬぐいを水で濡らしてはきつく絞って、彼女がいる部屋に戻った。手ぬぐいを畑内のひたいの上に置いた。  みさきは布団の横であぐらをかき、畑内の寝顔をぼんやりと眺めた。 「畑内さんが風邪で寝込んだ時も、看病したっけ」  みさきは昔を懐かしんで目を細めた。みさきは時々手ぬぐいを手にしては裏返すなりして、濡れた箇所を畑内のひたいの上に置いた。  いつの間にか、みさきもうたた寝をしていた。上体が舟をこいで二、三回揺れて倒れそうになったが、無意識に姿勢が元に戻っていた。 「畑内さんの具合はどうなの?」風呂から上がった早苗が部屋にやってきた。「あらまあ、我が家の王子様にも困ったもんだねえ」  早苗はみさきがいる方の反対側に座り込んで、畑内と息子を交互に見た。タオルケットの端から、畑内の胸元が覗いていた。片方の膝があらわになり、白い太ももも見えていた。  早苗はタオルケットをかけ直した。持ってきたうちわで、彼女にそよ風を送った。  みさきは夢を見ていた。うたた寝しているみさきに、畑内が抱きついていたのだった。後ろに回された手がみさきの頭を撫で、もう片方の手は背中にあてがわれた。うつろな意識の中で目を開けると、パジャマ姿の畑内がいた。 “大丈夫なんだなあ”  みさきはほっとした。 “ありがとう”  みさきの耳元でささやく声が聞こえた。畑内の胸元の膨らみを感じた。みさきは目をつぶり、自分の高鳴りを抑えようとした。だらんとしたみさきの両手が動いて、畑内の背中に回った。みさきは上気した肌から漂う香りを鼻腔で感じ取った。 「おっ、お兄ちゃん、苦しい」  みさきの耳元で、はっきりと声が聞こえた。みさきは眉をひそめて、目を開けた。上目使いで見つめてくる、ほたるの顔が真近にあった。  なぜか布団の上に横になって、妹のほたると寝ていたのだった。みさきの両手はほたるの背中に回っていて、夢にあったように抱き合う形になっていた。 「お兄ちゃん」  ほたるの吐息がみさきにかかった。 「うわぁー」  みさきは思い切りのけぞり、布団から飛び出した。勢いよく壁に背中を打ちつけた。 「ほたる、ここで何をしている?」  ほたるは上体を起こしながらいった。 「何って、お兄ちゃんと添い寝」  ほたるが着ていた花柄模様のパジャマの第二ボタンが外れていて、胸の谷間が見えていた。 「いっ、いつからそこで寝ていたんだ?」 「真夜中かなぁ。勉強を一通り済ませてからだから」 「じゃあ、まだ眠たいだろ。だったら、自分の部屋でもう一度寝てくれ」  ほたるは身体を動かして、兄の正面でうつ伏せになった。両肘は畳に当て、手のひらの上にほほを乗せた。 「前みたく、一緒に寝ようよぉー」  ほたるは甘えた口調でいい、両足をばたばたさせた。 「静かにしてくれ。畑内さんが目を覚ましてしまうだろ」  みさきは覗き込むようにして、ほたるの先にいる畑内の横顔を見た。 「なーに、それっ。今まで私に抱きついていたのに」  ほたるがほほを膨らませた。 「それは、誤解。勘違いだよ」 「だって、お兄ちゃんから抱きついてきたんだよ」 「変な夢を見ていたんだ」みさきがいった。「谷底に落ちて、何かにつかまらなくっちゃと思って、とっさにしがみ付いたんだ……と思う」 「そうなの?」  ほたるは兄を睨みつけた。 「うん」  みさきは苦笑した。 「じゃあ、私を畑内さんと勘違いして、襲った訳ではないんだね?」 「襲う筈もないだろ。ほたるに対しても畑内さんに対しても」 「そうだね」「そうだよ」  兄妹そろって笑った。ふと、ほたるは真顔になった。 「私だったら、お兄ちゃんでいいのよ」  ほたるは仰向けになり、パジャマの第三ボタンを外そうとした。 「ちょっ、ちょっと待て」  みさきはそばに落ちていたタオルケットを手にして、横になっているほたるの上に掛けた。 「お兄ちゃん」  みさきは下からほたるに抱きつかれ、彼女の上体に被さってしまった。みさきの目前に、畑内の寝顔があった。 「お兄ちゃん、大好き」  ほたるはいった。その声に反応してか、畑内が寝返りを打って、みさき達の方へ身体の向きを変えた。掛けていたタオルケットから、彼女の鎖骨が見れた。  畑内がゆっくりとまぶたを開いて、人の気配を感じていった。 「あっ、おはようございます」 「おはよう」「おはよう」  ほたるがにこやかにいった。みさきは戸惑いながらいった。 「畑内さん、よく眠れた? 気分はどう?」  畑内は小さな欠伸をして、瞬きを二、三回した。 「はい、ぐっすりと眠れました」畑内はすくっと上体を起こした。「昨日の疲れもないようです」  掛けていたタオルケットがずれ落ちた。ほたるは大きく目を開いて、畑内を見た。畑内が両手を上げて伸びをした。その下にあったバスタオルも胸元から落ちた。 「なっ、何?」  ほたるの顔が瞬時にして真っ赤になった。視線を上にやると、みさきも畑内を見ていた。みさきは彼女のあらわとなった胸元を凝視していた。 「お兄ちゃん、どこ見てんのよ」  ほたるは仰向け状態で、兄にパンチを繰り出した。みさきはみごとに倒れた。 「まあ、すごい音がしたのですが、何があったのでしょう」畑内は口元に手を当てて、兄妹を眺めた。「ところで、私のメガネはどこでしょうか?」 六 がんばって勉強  なんだかんだで、朝食の準備をするために、みさきは逃げるようにその場を離れた。ほたるは畑内のメガネを探しに、家中を歩き回った。結局それは、脱衣所に置いてあった。ほたるは台所のテーブルの席について、朝食の準備をする兄の後姿を眺めた。  畑内は昨日と同じ、クリーム色のシャツにピンク色のワイドパンツをはいて、玄関口から表に出た。すたすたと歩いていき、家の前の道路を横切って畑の中に入っていった。  朝食がテーブルに並び、北川家の家族がテーブルについた段階で、畑内の姿がないのに気づいた。小次郎も畑内の捜索に加わり、広大な野菜畑にいることが分かって、北川家の家族と畑内がやっと朝食を取ることができた。  その後、みさきの手料理を食べ終えて一息ついた。一人だけ、腕組みをしながらぶすっとしているほたるがいた。オフホワイトの半ズボンに赤色のTシャツを着て、ほほも赤くしていた。 「何度もいっているように、畑内さんが風呂場でのぼせていたから、そのままの状態で布団まで運び込んだんだよ」  ほたると向かい合って、椅子に座っているみさきがいった。 「細腕のきゃしゃな私も手伝ったんだから、確かよ」  みさきの隣にいる早苗もいった。 「だったら、私を呼べば良かったじゃない。そうすれば、こうはならなかったのに」 「勉強の邪魔をしたくなかったんだよ。ほたるには昨日、畑内さんに十二分付き合ってもらったんだからさあ」 「ほたるのためだったんだよ。貴方がみさきと同じ本島に行くためにがんばっているから、無駄な時間を取らせたくなかったの」 「なーんだ、お兄ちゃん。私のためだったんだ」  ほたるは上目使いで兄を見た。 「当たり前だろ」みさきはいってのけた。「だから、今日の午前中はほたるの勉強を見てやろうと考えていたりして」 「ありがとう、お兄ちゃん」  ほたるはうれしそうに叫んだ。 「夕方には本島に帰るから、それまでの間な」 「うん」 「でも、みさきには今日もやってもらいたいことが、残っているんだ・け・ど」  早苗が遠慮がちにいった。 「久々にお家に帰ってきた、お兄ちゃんをこき使わないでよ。それじゃなくても、私と一緒にいる時間がないんだから」  ほたるがいった。 「まあまあ」  早苗が両手を上げて、噛み付くほたるをなだめた。 「それは家でやること、それとも外でやること?」みさきが早苗に聞いた。「家でやることだったら、ほたるの勉強の合間にすればいいことだし」 「あ~」早苗は天井を見上げて、声をしぼり出した。「畑でやってもらいたいの」 「それじゃあ、駄目じゃないの?」  ほたるが席を立っていった。 「まあ、そのようね」  早苗は肩をすくめて答えた。 「今回のところは仕方ないかなぁ」  みさきも諦めた。 「あのー、私がほたるちゃんの勉強を見ましょうか?」  ほたるの横にいた畑内が、片手を上げながらいった。みんなの視線が彼女に集まった。畑内はメガネの縁を上げた。 「実は私、アルバイトで家庭教師をしてまして、今高校受験生を担当しています」 「本当、それはちょうどよかった。そうしてもらえるかしら」  早苗は満面の笑みで、畑内が上げていた手を握った。 「んっ、もうー」  ほたるがそっぽを向いた。 「まあ、仕方ないかなぁ」  みさきが面白げにいった。 「今日の予定も、またそういうことで」早苗は両手を叩いて家族会議をお開きにした。「農作業用の服を準備するから、待っててね」 「ほたるはちゃんと畑内さんに勉強を教えてもらえよ」  みさきは椅子から立ち上がっていった。みさきと早苗は台所を後にした。残されたほたるは、畑内をうかがい見た。畑内はにこにこしていた。 「どこで何の勉強をしますか?」 「私の部屋は嫌だから、広間でやろう。私は数学と理科が苦手なので、それを教えてもらいましょう」 「分かりました」  畑内は椅子に座ったままだった。ほたるは溜息をついてから、力なく腰を上げた。  畑内は伸びをしてから席を立った。広間に行って座卓の前に座った。ほたるが両手に教科書や演習テキストを持ってやってきた。 「こっちに座ってください」  畑内は自分の席の右側の座布団をぽんぽんと叩きながらいった。畑内の反対側に座ろうとしていたほたるは躊躇したが、いわれるがままに彼女の隣に腰を下ろした。 “思ったより大きい。着やせするタイプ?”  ほたるは畑内の横に座る際、彼女のクリーム色のシャツの胸の膨らみと谷間を見てしまった。ほたるは口をあんぐりと開けて呆然とした。 「まずは、どこが分からないのか教えてください」  ほたるの小さな胸の内を知らない畑内が聞いてきた。ほたるは我に返って、照れ笑いをした。 「えーと、ほとんど全部」 「じゃあ、大筋の所、ポイントを押さえていきましょう」  畑内は教科書を受け取り、ぺらぺらとめくった。 「よろしくお願いいたします」  ほたるは素直に頭を下げた。畑内は教科書を座卓の上に置いて、説明をし始めた。ほたるは耳を傾けるようにした。畑内は時折シャープペンを手にして、教科書に書き込むなりノートに書き込むなりしていった。 「私の説明で分からない、理解できない所があったら、その都度いって下さい。もっと例え話をしたり、細かく話したりしますので」 「はーい」  畑内は教科書に書かれたことを、かみ砕いて説明していった。肩に掛かった髪が邪魔になるので、キャリーバッグから黒色のシュシュを取り出しては髪を束ねた。  ほたるは畑内の横顔を見ては、“きれいだなぁ”と思った。  二時間はあっという間に経った。 「少し休憩しましょう」  畑内が区切りのいい所でいった。 「私、飲み物を持ってくるから」  ほたるが席を立って台所にいった。冷えた麦茶を注いだコップをお盆に載せて戻ってくると、畑内が昆虫図鑑を眺めていた。 「よっぽど好きなんですねぇ、虫たちが」  ほたるが座布団に座っていった。畑内が顔を赤らめながらいった。 「子供の頃から好きでした。いつも私の周りにいましたから」 「私はこんな所にずーっと住んでいるけど、やっぱり虫は苦手だなぁ。私の名前が“ほたる”なのにねぇ」 「きれいな名前ですよ、ほたるちゃん。それに、他の虫たちもずーっと見ていると、可愛くなるものです」 「畑内さんは、やっぱり変わっているよ」  ほたるはずるがしい目つきでいった。 「そうですか?」  畑内は首を傾げてみせた。 「畑内さんの生まれ育った所はどこなの?」 「東北の田舎です。座敷わらしで有名な所」 「ふーん、だから肌が白いのか」 「これでも、日焼けした方ですよ」 「屋外で昆虫ばかり追いかけていたら、こうなるよね」 「それで、シェアハウスの人達に注意されます。“日焼け止めのクリームを塗りなさい”って。だけど、すぐ忘れてしまいます」 「畑内さんらしいなぁ」  それから一時間ばかり、ほたるは畑内の支援を受けながらも、自分の力で勉強をしていった。その間、畑内は昆虫図鑑を熱心に眺めていた。 「きゃあー」  突然、ほたるが教科書を投げ捨てて、畑内にすがりついた。畑内は何が起きたのか分からなかった。 「畑内さん、むし、虫」  ほたるは目をつぶったまま、座卓のすみを指差した。畑内がそちらの方を見ると、小さなバッタが一匹飛び乗っていた。 「私が連いていますから、平気ですよ」  畑内は怖がるほたるの頭に優しく手を添えた。ほたるは身体を震わせていたが、しだいに治まってきた。ほたるは畑内の胸元に顔を埋めて、彼女の鼓動を耳にした。 「バッタを逃がしてきますので、待っててもらっていいですか?」畑内がほたるにささやいた。「ほたるちゃんはここにいて下さい。いいですね」  ほたるは黙って頷いた。畑内は自分の首に巻かれた、ほたるの腕を離して立ち上がった。  バッタは座卓の中央、ほたるが投げ捨てた教科書の上に乗っていた。畑内はそっと両手を差し出した。手のひらで包み込むようにして、バッタを捕まえた。指の隙間からバッタがじっとしているのを見届けて、両手を上げて座卓から離れた。 「バッタを捕まえたので、これから逃がしてきます」  畑内はバッタを両手で包みながら、広間を出ていった。畑内が玄関でサンダルを履く音を耳にして、ほたるはやっと目を開けて、深呼吸をした。  畑内は家の庭先に出ると、いったん周囲を見回した。畑内はすたすたと歩いて、家の門を出て道路先にある田畑にいった。家から離れた所まで行って、バッタを草むらの上に放った。 「ほたるちゃんの近くに寄っては駄目ですよ」  畑内はバッタに話し掛けた。バッタが動くのを確認してから、回れ右して歩いた。 「ワンッ」  小次郎が家から出てきて、畑内に駆け寄ってきた。 「迎えに来てくれたのですか? さぁ、戻りましょう」  小次郎は畑内の周囲を回っていた。畑内は小次郎を従えて家に戻った。畑内はバッタを包んだ手を見つめて、“手を洗おう”と思った。そうしないと、ほたるが嫌がるだろう……  昼遅くなって、畑から母兄が戻ってきた。 「今から昼食を作るのも大変だし、島名物のうどんを取りましょう」  早苗の提案で、うどん屋に出前を頼むことにした。 「ところで、お父さんは? 朝食後、姿が見えないけど」  みさきが早苗に聞いた。 「町内会の寄り合いに出掛けているよ。それで、みさきに畑仕事をお願いしたの」 「ふーん」 「じゃあ、電話してくるね」  早苗が広間から出ていった。 「畑内さん、昼食後一緒に連いてきて欲しい所があるんだけど、いい?」  勉強の後片付けをしていたほたるが、ぽつりと彼女にささやいた。 「いいですよ」  畑内は楽しそうにいった。 「午後四時には家を出るから、その心積もりでいて。帰りはお母さんが車で送ってくれるって」  みさきが畑内にいった。 「はーい」 「私昼食を取ったら、畑内さんの運転で行きたい所があるんだけど」  ほたるがみさきにいった。 「俺はまだ畑の仕事が残っているから一緒に行けないけど、車を借りることはお母さんに話しておけよ」 「うん、分かった」ほたるは早速広間を出ていった。「お母さーん」 「畑内さんは、帰れる準備をしてから出掛けて」  みさきはいった。 「分かりました」 「お母さーん、午後畑内さんを連れて車でドライブしたいんだけど、いいでしょう」  早苗に相談するほたるの声が遠くで聞こえた。 七 ほたるの決意 「ごちそうさまでした」食後、ほたるがいの一番にいった。「さあ、畑内さん行こう」 「はい、ごちそうさまでした」  畑内も一緒になって立ち上がった。そして……みんながいる前でシャツのボタンを外し始めた。広間を出ようとしていたほたるが慌てていった。 「畑内さん、何しているの?」 「着替えようとしていました」  広間でブラジャーをみせた畑内に、みんなの視線が集まっていた。 「その服のままでいいよ」ほたるは畑内に歩み寄った。「お兄ちゃんはあっちを見ていて」 「問題ないだろ」  みさきがいった。 「それでも、見ちゃ駄目」 「ふ~」  みさきは畑内から目をそらした。 「畑内さん、早く服を着てちょうだい」 「……また、ほたるちゃんが野山に連れていってくれると思っていましたので、つい」  畑内はがっかりしたような表情をみせた。 「ごめん、今度は野山じゃないのよ。だから早く服を着てちょうだい」  ほたるは両手を合わせてごめんをした。 「私も早合点してました」  畑内はシャツのボタンを留めた。 「じゃあ、出掛けて来るね」  ほたるは畑内を連れて、広間を出ていった。玄関で靴を履いていると、どこからか小次郎がやってきた。 「小次郎も行く?」  ほたるは聞いた。 「ワンッ!」  小次郎は玄関前で元気にほえた。ほたるは車の後部座席のドアを開けて、小次郎を中に入れた。  ほたると畑内が、それぞれ軽自動車に乗り込んだ。 「それでは、出発しましょう」ほたるはいった。「今度は海を見に行くの」 「はい」  畑内は車を発進させた。 「私のお気に入りの場所で、昔うちのおばあちゃんに教えてもらったんだ。自転車に乗って行ける程の距離なんだけど、時間がないから今回は車でね」 「分かりました」 「お兄ちゃんもたぶん知らないんじゃないかなぁ。有名でも観光スポットでもないし、ただ海が見渡せるだけの岬」ほたるは口元を緩めた。「でも、見せておきたいんだなぁ、これが」 「とてもいい所なんですね」 「それ程でもないんだけど」ほたるは両手を頭の後ろに組んで、背もたれに身体を押し付けた。「落ち着くっていうか、気持ちが安らぐっていうか。勉強に疲れた時や気分転換したい時、たまに家を抜け出して、そこで一休みするんだ」 「やっぱり、いい所なんですね」 「そうかも、知れない」  ほたるは頷いた。ほたるの案内で、車は舗装されていない道を登って、とある岬へと到着した。 「さあ、畑内さん。降りて」  ほたるは急かすようにいって、後部座席のドアを開けた。小次郎は喜び勇んで草むらへと駆けていった。  ほたるは畑内の手を取って、人がやっと通れる程の小道を進んでいった。茂みの先を抜けると、視界が開けた。  空は青々として、眼下には一面の海の青さがあった。そこは飛び込み防止の手すりがあるだけの岬であった。 「これを見せたかったんだ」  ほたるが手すりに手を付きながら、身を乗り出した。 「素敵な見晴らしですね」  畑内はほたるの隣に並んでいった。ほたるが顔をほころばせながらいった。 「ここでうちのおばあちゃんが、おじいちゃんにプロポーズされたんだって」 「そんなことが、あったのですか」  畑内はほたるの横顔を見た。 「うん。二人ともこの島で生まれて、子供の頃からずっと一緒にいて、幼馴染の縁で結婚して、子供を生んで、この島から出ていくこともなく、亡くなっていったの。だから祖父母のお墓はこの島にあるんだ」 「……」 「でもプロポーズの話はお兄ちゃんにいわないでね。このことを知っているのは、私と畑内さんだけ」 「どうして、私なんかに教えたのですか?」  畑内は首を傾げて聞いてきた。 「なんでだろうかなぁ。私にも分からない」  ほたるは笑って、海を見下ろしていた。畑内も海を見渡した。 「この島は昔と何も変わらないからなのかなぁ。今も今後も、いつまでも好きでいられるのかも知れない」 「私もこの島は好きになりそうです。山や草原、そして海も大好きなんですよ」 「そういってくれると、私もうれしい」  ほたるはいってから、頭の中に幾つものクェスチョン・マークが浮かび上がった。それは“海の中にも昆虫っているのだろうか?”ということだった。 「畑内さんがいう、海が大好きっていうのは、海に住む昆虫のこと? ミジンコ、ウミホタル、カニ、三葉虫とか」  ほたるは聞いてみた。彼女には海に住む昆虫についての知識がまったく無かった。 「三葉虫はもういません」畑内はくすりと笑った。「いいえ、私が好きといったのは、この広くて大きな海を眺めていることです。なんだか心が清らかになるような感じ」 「そうだよねぇ」  ほたるは苦笑いをした。  小次郎は鼻を地面に近づけて、においを追っていた。いろいろな茂みに潜り込んでは、探検を繰り返していた。 「先程と同じことをいうけど、この場所のことは、お兄ちゃんには内緒にしていてね。でも、もし畑内さんがお兄ちゃんを連れてここに来たいと思ったら、その時は連れて来てもいいよ」  畑内はほたるの顔をまじまじと見つめた。ほたるは両手をぶんぶん振り回して、自分の思いを話した。 「もしもだよ。もし畑内さんがうちのお兄ちゃんを好きになって、どこかデートでもしたいと考えた時、ここを選んでもいいっていう話」 「たぶん、全然それはないと思います。だって、あの北川君だもの」  畑内が即答した。 「はあ?(私の大好きなお兄ちゃんなのに)」  ほたるはほっとするやら、がっかりするやら、複雑な心境になった。 「あっ、お船」  畑内は遠くを指差した。ほたるは指し示した方を見ていった。 「あの船は本島から来た船だよ。畑内さんは昨日あの船でこの島に来たの。そして、今日の午後にあの船に乗って、本島へ帰っていくの」  ほたるは手すりに肘を付いて、その上にあごを乗せた。 「私も本島に行きたいなぁ」  ほたるはぽつりといった。 「本島の高校を目指しているんでしょ」  畑内は記憶をたどって口にした。 「だけど、試験に合格するかが心配で。なんたって合格ラインにほど遠い位置にいるものだから」 「自分を信じてがんばってみるしかないですよ。合格するかしないかは、時の運もありますから」畑内は笑顔をみせた。「ほたるちゃんは将来何になりたくて、高校を選んでいるのですか?」 「将来のことは、まだ何も考えていないかなあ。ただ、この島で一生を過ごすのは勿体無い気がするだけ」 「北川君が本島にいるから?」  畑内は声に出した。 「お兄ちゃんのことは、どうかなぁ……」  ほたるはうつむいた。  二人が見ていた船はしだいにその姿を大きくして、島に近づいていた。 「そろそろお家に戻りましょうか。帰る支度もしないといけないし」  ほたるは胸を張っていった。 「はい、本島で待っています」畑内はいった。「でも、その前にちょっと」  畑内は背後を示した。そこには、来た道の茂みや草むらがあった。  家にたどり着いた二人を、みさきが玄関で待っていた。みさきは帰り支度を整えており、青色のシャツにベージュのズボンに着替えていた。 「もう遅いぞ、どこに行っていたんだ」みさきが腕組みをしながらほたるにいった。「すぐに出掛けないと、帰りの船に乗り損ねてしまうぞ」 「だって、畑内さんが途中でいなくなっちゃうんだもん。こっちも焦ってしまったよ」 「目を離す方が悪いんだよ。昨日で畑内さんのことは分かっているだろ」 「うーん」  ほたるは反論することができなかった。家に帰る前になって、岬の後ろ側にあった茂みに入っていった畑内を、“トイレかな”と思った程度だった。しかし、畑内はしばらくしても戻ってこなかった。  小次郎に探させると、畑内は昆虫を観察している最中であった。ほたるは頭を垂らしたという次第であった。 「畑内さん、荷物をまとめてもう家を出るよ。服はそのままで、着替えは船の中でして」  車を降りた畑内に、みさきが矢継ぎ早にいった。 「はい」  畑内はそそくさと家の中に入っていった。 「お母さん、車の運転よろしく。港まで送っていって」  みさきは台所にいる早苗に大声でいった。 「もし船に乗り損ねたら、もう一泊していけばいいじゃない」  早苗が廊下を歩いてきた。 「そうだよ。もう一晩泊まっていきなよ」  ほたるがいった。 「みさきには、まだやってもらいたいことがたくさんあるし」 「畑内さんに勉強を教えてもらうと、助かるんだけど。すっごく分かり易くていいんだ」 「今日中に本島に戻りたいんだよ。明日、大切な講義があるんだって」  みさきが言葉をはさんだ。 「そんなに勉強熱心だったかしら」  早苗がほほに手を当てて、考える仕草をした。 「俺じゃなくて、畑内さんの方なんだけど」  みさきは小声でいった。 「ふーん」  ほたるは腕組みをしながら、みさきを鋭く睨んだ。 「仕方ないだろ」  みさきが頭をかきながら答えた。 「実際のところ、畑内さんはお兄ちゃんの何なの?」  ほたるがみさきに詰め寄った。 「ただの女友達だよ。一緒のシェアハウスに住んでいる友達」 「それが嫌なんじゃない」  ほたるがほほを膨らませながら、本音をいった。 「まあ、そういうことだから今日は帰る。だけど、ほたるのために夕飯のおかずを作っておいたから、後で食べてくれよ」 「んっ、もう」  ほたるは口をつぐむしかなかった。畑内がキャリーバッグを持って、廊下を歩いてきた。 「本島に帰ろうか。畑内さん」  みさきは畑内からキャリーバッグを受け取り、自分のバッグと合わせて車へと運んだ。 「さあ、見送りに行くわよ」  早苗が玄関へと出て、ほたるにいった。 「ん、もう」  ほたるは首を振って、渋々頷いた。 「お父さんは?」  みさきがいった。 「午後は、農協主催のイベントに参加してるよ」早苗がいった。「元気で何よりでしょ」 「まあね」  みさきは荷物を軽自動車の後部荷台に乗せ、畑内と共に後部座席へと座った。畑内がドアを閉めようとすると、小次郎がすばやく車に乗り込んできた。 「あっ」  小次郎は畑内とみさきの膝の上で伏せをした。早苗は運転席へ、ほたるは助手席に座った。 「忘れ物はないね」早苗はルームミラーを見た。「あったとしても、宅配で送ればいいよね」 「そうして」 「OK。シートベルトをして、じゃあ行くよ」  早苗は猛スピードで軽自動車を走らせた。  助手席にいたほたるは、過ぎ去っていく風景を眺めながら、“あっという間の慌しい出来事だった”と感じた。畑内は小次郎の背中を撫でながら、外の風景を眺めていた。みさきは車に取り付けられた時計を凝視していた。  早苗の運転で、一行は無事故で港にたどり着くことができた。 「よかった。出港まで間がある」  港に停泊した船を目の前にして、みさきはほっとした。  ドアを開けると、小次郎が名残惜しそうに車から降りた。畑内とみさきは車から降りて、高々と伸びをした。小次郎の重みで、太ももの血行が悪くなっていたのだった。 「それじゃあ、またね」  早苗が手を振った。 「ほたる、勉強がんばれよ」  みさきがいった。 「自分なりにやってみる」 「また今度、休みが取れたら遊びに来てちょうだいね」  早苗が畑内にいった。 「はい、喜んで」  畑内はキャリーバッグを車から降ろしながら答えた。 「じゃあ、行くよ」  みさきと畑内は船に乗り込むため、桟橋の方へと歩いていった。早苗とほたるは車のそばに立って、二人を見送っていた。畑内がキャリーバッグを引きずって、左右ふらつきながら緩やかな登りを歩いていた。 「あっ!」  畑内がよろけた。とっさにみさきが畑内の腰に手を回して、体勢を整えた。  「大丈夫?」 「ありがとう、北川君」  畑内は身体をみさきに預けた。その光景を見ていたほたるが、苦々しく一言いった。 「あんなにくっついちゃって……」  二人は無事、船に乗り込むことができた。畑内は着替えるため、女子トイレに入った。みさきは甲板に上がり、見送っている二人を見つめた。船は警笛を鳴らして出港した。 「お兄ちゃん」  ほたるは大声で叫びながら両手を左右に振った。みさきは軽くこれに応じた。 「もう、帰るよ」  早苗がほたるに声を掛けた。 「お母さん、私一生懸命勉強して、本島の高校に入学する」  ほたるは一大決心をしていった。 「はいはい」  早苗は後半の台詞は聞き流した。母妹は車に乗って、家に帰っていった。  みさきは遠ざかる港を、思い深げに眺めていた。 「今回はありがとうございます」  みさきの背中に畑内の声がした。みさきが振り返ると、畑内が通路に立っていた。島に来た時の水玉模様のワンピースを着ていた。ただ、麦わら帽子はキャリーバッグの中に収まっていた。 「お疲れ様」  みさきがいった。 「お疲れ様です」畑内がみさきの横に並んだ。「ご実家に連れてきてもらって、ありがとうございます」 「何もない所だけど、自然だけは昔のまま残っているから」  みさきは苦笑いをした。 「それが大切だったり、心が休まる場所だったりします」 「港に着くまで、ゆっくり休もう。久々の里帰りで疲れてしまったよ」みさきがいった。「船内に戻っているからね」 「私はもうしばらく外にいます」  みさきは船内へと消えていった。 「本当に、ありがとうございます」  畑内はみさきの背中につぶやいた。島の方を眺めていると、畑内は手を振った。彼女の視線の先、午後出掛けていった岬に、ほたるの姿を見つけたからだった。 「ほたるちゃーん、さようならー」畑内は大声を上げた。「ありがとうございまーす」  ほたるも船に向かって、手を上げていた。船は本島に向かって舵を取り、島から離れていった。 八 エピローグは始まりの予感  季節は三月になり、春らしい青空が広がっていた。ほたるはバッグを肩に掛けて、軽やかな足取りで歩いていた。時々立ち止まっては、電柱に貼られた街区表示板の住所番地とスマートフォンの地図を確認していた。とある路地へと入り、幾度か角を曲がっていった。  やがて、一軒の家の前で立ち止まった。 「ここがそうか」  ほたるは二階建ての家を見上げた。石段をすたすたと登り、玄関のインターホンを鳴らした。 「はーい」  しばらくして、声が聞こえた。 「私、北川みさきの妹で、ほたるといいます。今日は兄を訪ねてきました」  ほたるは早口でいった。 「はーい、伺っています。鍵は開いていますから、中に入ってください」 「分かりました」ほたるは玄関のドアを開けた。「お邪魔しまーす」  玄関口の廊下からやって来たのは、グレイのふわふわニットにジーパンをはいた女性だった。畑内優子とは違って、大人の女性っぽかった。 「ようこそ、シェアハウスへ」女性はにこりと微笑んだ。「さあ、上がって」  女性は廊下を先導して、奥にあるドアを開けた。リビングとキッチンが見渡せた。 「ソファに座って、待っててね」  女性はそういうと、リビング中央にある三人掛けのソファを示した。ほたるはソファにちょこんと座ると、きょろきょろと周囲を見回した。女性はキッチンへと入っていった。 「ほたるちゃんは、コーヒーと紅茶どっちにする? ホットそれともアイス」  ほたるは居ずまいを正して、上体をキッチンに向けていった。 「あっ、えーとホットで紅茶をお願いします」 「了解」女性はカップに紅茶を注いだ。「私、速水千歳。よろしくね」 「はい」  リビング奥のドアが開いて、別の女性が姿を現した。 「あーあ、さっぱりした」  その女性はタオルで頭髪を拭きながら、リビングに入ってきた。フリルが付いた黒色の下着姿がほたるの目に入ってきた。 「あー、お客さん?」女性はほたるを見つけていった。「もしかして、北川君の妹さん?」 「はい」  ほたるはソファから立ち上がった。 「あやねさん、その格好は可愛いお客さんに失礼ですよ」  速水がお盆にカップを載せて、リビングに戻ってきた。 「ランニングから帰ってきて、シャワーを浴びたところだったのよ。二階に上がって、服を着てくるわ」 「そうしてください」 「千歳さん、私にもホットミルク作っておいて」  津沼あやねが玄関へと続くドアを開けて、リビングから出ていった。 「何よ、騒々しい」  黄色とオレンジ色のチェック柄パジャマを着た女性が、入れ替わりにリビングに入ってきた。 「あっ、カオルコさん、お目覚めですか? おはようございます」  速水がいった。 「昨日遅くまでゲームをやっていたから、眠いったらありゃしない」  カオルコが目をこすりながらいった。 「お疲れ様です。カオルコさんも何か飲みますか?」 「私はコーヒーにして。それも苦くて熱いやつを」 「インスタントしかないですけど」速水はいった。「ほたるちゃん。座って紅茶を頂いてね」 「この子がほたるちゃんね、北川君の妹さん」 「兄がいつもお世話になっています」  ほたるはパジャマ姿の女性にお辞儀をした。 「いいのいいの。こちらこそいつも北川君には親切にしてもらっているから……あっ、私大森カオルコ」  大森は手をひらひらさせながら、ほたるの隣側にある一人用のソファに座った。ほたるもソファに座った。速水はキッチンへと消えた。 「ところで、兄はどこにいますか?」  ほたるは周囲を見回しながら聞いた。 「えーと、北川君は今度ここを出ていく田口さんの、引越しの手伝いをしている最中かな?」  キッチンから声がした。 「そうですか」  ほたるは出された紅茶を一口飲んだ。 「今夜は、その田口直美さんの引越し祝いをするから、ほたるちゃんもどう?」 「いいんですか?」 「大勢いた方が楽しいじゃん」  大森がいった。 「ありがとうございます」 「ほたるちゃんは、今中学三年生?」 「はい、四月からは本島の高校に通います。だから、兄のそばに部屋を借りようかと思っています」 「それは、おめでとう」  大森はいった。速水が戻ってきて、大森にインスタントコーヒーを手渡した。 「北川君に妹さんのことを話してきたよ。田口先輩の引越し、まだ当分終わりそうにないって」  津沼が緑色のジャージ姿で、リビングに戻ってきた。 「分かりました。あやねさん、ホットミルク」  速水が津沼にカップを渡した。 「サンキュウ」  津沼がソファに座った。リビングのソファには、出迎えてくれた速水千歳、シャワーを浴びてきたジャージ姿の津沼あやね、先程起きてきたばかりの大森カオルコとほたるが座り、カップを手にして飲み物を飲んでいた。  ふと、ほたるに疑問がわいた。 「あのう、みなさんはうちの兄と一緒に、この家に住んでいるのですか?」 「そうだよ、ここはシェアハウスだもん」  津沼がいった。 「兄が家を出てから約一年になりますが、その間みなさんと過ごされた訳ですよね?」 「私達も実家から離れて、それぞれ学校にいっているからね」  速水がいった。 「いつも、下着姿とかパジャマ姿でここを歩いているのですか?」 「いつもじゃないけど、風呂上りとか朝起きた時は、こんな服装で家にいるよ」  津沼がいった。ほたるはうつむいて、頭を抱え込んだ。 「兄の前でも、ですか?」 「そうだよ。北川君ってどちらかといえば、男として見ていないから」  シャワーを浴びて先程まで下着姿だった、津沼が笑いながらいった。 「それはいい過ぎ」  ほたるを出迎えた速水がいった。 「ただいまー」  リビングのドアが開いて、畑内が姿を現した。白色のブラウスの上にグレイのカーディガンを肩に掛け、ベージュのスカートをはいていた。今日も麦わら帽子をきちんと被っていた。 「どうしたのですか、みなさん集まっちゃって」畑内がソファに座っているほたるに気づいた。「ほたるちゃん、こんにちは。来てくれたんだ」 「畑内さん」ほたるは立ち上がって、彼女に抱きついた。「お兄ちゃんは、お兄ちゃんは大丈夫なんですか?」  畑内は首を傾げた。 「女性ばかりの家にいて、お兄ちゃんは平気なんですか?」ほたるは涙目で聞いてきた。「下着姿やパジャマ姿の若くて綺麗な女性が、お兄ちゃんと一つ屋根の下にいて、お兄ちゃんはおかしくなっていませんか?」  畑内は人差し指をあごに当てて、天井を見上げた。しばらくして、ぽつりといった。 「ほら、住めば都っていうでしょ。北川君はちゃんとこの環境に順応していますよ。私達とのこの生活を、大変気に入っているみたい。それに近所からは、ハーレムとかいわれていたりして随分と評判になってますし、このシュアハウスに入居を希望する男性が多々いるみたくて――」  ほたるは話の途中から、両手を畑内の肩の上に乗せてうな垂れた。彼女の話が終わると、意を決したように正面を見据えていった。 「私も、この家に住む。お兄ちゃんと一緒に」 「まあ、うれしいわ」  畑内は明るい笑みをした。 「そして、お兄ちゃんを守る。みなさんから」 「素敵な兄妹愛」  みんなで声を上げた。 「うるさいんだけど」みさきがリビングに入ってきた。「みんないるんだったら、田口さんの手伝いをしてくれよ。下着類とか洋服とか箱にしまうのを手伝って欲しいんだが……」 「お兄ちゃん」  ほたるがみさきに抱きついてきた。 「あっ、ほたるか? ちゃんとここに来れたんだな」みさきがいった。「高校入学、おめでとう」 「お兄ちゃん、私この家に引越しするから。お兄ちゃんとここに住む」  ほたるはぎゅーっとみさきを抱きしめた。                                   完
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