復讐

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復讐

「再来週やけどさ、俺旅行行けへんことになったわ」 京之介くんがそう言ったのは二月の始めだった。 京之介くん含む大学の同期メンバーはコロナが落ち着くかどうか様子見していたようだが、オミクロン株の感染急拡大は二月に入っても全く収まる気配がないし、県民割も停止になった。 更に一緒に行く予定だった同期の一人が医療従事者らしく、それも相まって中止に決まったらしい。 幸いなことに、まだ鞍馬との旅行のための飛行機の支払いはしていない。 今ならまだ引き返せる、とほっとした自分がいた。 「そうなんだ、残念だね」と京之介くんに笑って、鞍馬とのトーク画面を開く。 【ごめん、二月会えなくなったから泊まり三月でいい?私から言い出したのにごめん】 鞍馬との夜のドライブで旅行の予定を立てていた時はノリノリだったのに、実際に日が近付いてくるごとに行きたくなくなっている自分がいる。 これが断るいい口実になると思ってしまった。 バレンタインは京之介くんに何あげようかななんて考えながらお風呂に入っている間に、鞍馬からの返信が来ていた。 【え、許さん笑】 たったそれだけの短い文なのにぐらりと揺れてしまうのだから情緒不安定だ。 押しに弱いというほどではないのだが、この世で唯一鞍馬にだけは勝てる気がしない。 【彼氏の旅行コロナで中止になったらしくて、なのに私だけ遊びに行くのもどうかと思った】 水の滴る髪をタオルで拭きつつそう打つと、鞍馬からの返信はすぐに来た。 【そんなん彼氏放って俺のとこ来なきゃだめでしょ】 【瑚都の主人は俺でしょ?】 その文章を読んだ瞬間、子宮がきゅうっとなる感じがしてしばらく返信することができなかった。 画面を閉じ大きな溜め息を吐いて洗面所の上にスマホを置き、濡れた髪のまま排水口に流れていく水を見下ろす。 何度も見た動画の映像、鞍馬の逞しい体躯、体液の味、熱、タバコバニラの香りを思い出すだけでゾクゾクした。 「京之介くん」 髪を乾かしナイトパウダーを付けた後洗面所から出て、パソコンを使う時だけ眼鏡をかけている京之介くんに呼びかけた。 「十四日さ、どうせ京之介くんいないしと思って一人旅する予定立てちゃったんだよね。三泊くらいいないけどいい?」 京之介くんがMacの画面から顔を上げ、「へえ?」とあまり気にしていない様子で相槌を打つ。 「瑚都ちゃん、一人旅とか好きやったっけ」 「まあ、少しはね」 「迷子になれへんか心配やわ。どこまで行くん?」 「九州」 「えらい遠いとこ行きはるんやな」 「うん、だから飛行機の予約もう取っちゃってて……。京之介くんが居るなら家にいたかったんだけど」 演技がうまいな、と自分を客観的に見て呆れてしまった。 「ほな当日は空港まで送っていくわ」 京之介くんから次に出てきた言葉に、一瞬固まる。 「え、空港だよ?関空だよ?」 「まあ、俺も久しぶりに大阪行きたいしな。」 「……悪いよ」 内心焦りながらそう伝えるが、京之介くんが立ち上がって私に近付いてくる。 「三泊も会われへんの寂しいし、瑚都ちゃんとちょっとでも長くおりたいと思ったらあかんの?」 そして私の顔を覗き込みながら、甘えるような声で聞いてきた。 「俺に付いてこられるん嫌?」 間を置いた後、「や、……じゃない」とその色気に呑まれて思わず答えてしまっていた。  : 日々は飛ぶように過ぎ去り、十四日まであと少しという頃。 旅行に関して一度は承諾したものの、鞍馬が春休みに入って会えていないうちに、行くのが面倒だという気持ちが増してきた。 というのも春休みに入ってから鞍馬からの連絡はろくに来ず、おそらく今は別の女にハマっているであろうことが察せたからだ。 鞍馬と会っている時は楽しいのに、会っていないうえに連絡が来ない時は鞍馬が遠くなって、どんな人間だったか分からなくなる。 距離を置いて冷静に考えてみると怖くなった。 鞍馬はセックスありきで優しい男だ。波はあるにせよ誰にでもおよそ平等に。 私は鞍馬を友達だと思っているが、鞍馬はそうじゃないかもしれない。 振り返れば鞍馬の言葉はどれもペラペラで、気持ちが籠もっていると思えたことは一度もない。 鞍馬にとって私は、煽てれば身体を差し出すバカで軽い女の一人でしかないのかもしれない。 そして、それを不満に思う自分がいることに驚いた。前はそれで都合が良かったのに、今は鞍馬と普通に友達になりたいなんて思っているのだ。 京之介くんへの罪悪感と鞍馬への不信感が同時に迫ってくる。 ……しかし一度約束したことだ。 飛行機の減便などはあったのものの、別の便に変更して概ね予定通りの日程で旅立つことになった。 もうキャンセルはできない。 結局京之介くんの同期メンバーは、旅行の代わりに京之介くんの家で宅飲みをすることになったらしい。 京之介くんは寛容な実家住みでリビングも広いので、みんなで集まるのに選ばれるのは当然だろう。学生時代もよく京之介くんの家に集まっていたらしい。 どうせ京之介くんが私の家に来ないなら、十四日に京都に居ても居なくても変わらない――そう思おうとしていた矢先、また京之介くんの元カノからフォローリクエストが来た。 見られて困るような投稿も特にないのでしつこさに負けて承認した。 するとその日の夜、DMでメッセージが来る。 【凪津さんですか?】 この人は私の名前が読めないんだろうか。瑚都と書いてあるはずだが。 でも、元カノがお姉ちゃんの名前を知っているのは意外だった。 返事をしないうちに、次のメッセージが送られてくる。 【また京之介と一緒に死ぬつもりですか?】 言っている意味が分からず、返す言葉が見つからなかった。 ……“また”? 【いい加減京之介を解放してあげてください】 【自殺仄めかして人の彼氏の気を引いて奪って、満足ですか】 【京之介はあたしといる方が幸せなんです】 【死ぬ気なんかないくせに。そうやって京之介に構ってもらおうとするんですね】 立て続けに送られてくるメッセージを見つめていたが、それ以上何か送られてくることはなかった。 こちらの返信を待っているのだろう。あるいは、一方的にこれを送ることが目的か。 何故この人がお姉ちゃんの名前を知っているのか、よく考えてみれば単純だ。 この人は京之介くんの大学時代の同期なんだし、お姉ちゃんが生きていた頃を知っていてもおかしくはない。 お姉ちゃんが死んだことを知らなくて、私のことをお姉ちゃんだと思ってる? 京之介くんはこの人に私のことを何と言ったんだろう。いとこだと伝えたなら、私をお姉ちゃんだと思ってもおかしくはない。 また京之介と一緒に死ぬつもりですか、か。 元カノからのDMを眺めているうちに、不意にお母さんに教えられたお姉ちゃんの遺書の内容を思い出す。  ごめんなさい  他の人との子を身籠りました  この子たちと一緒に死にます  本当にごめんなさい ――――……この子たち(・・)? 何だか背筋がゾッとしてInstagramを閉じた。 椅子に腰をかけ、頭を押さえて考える。 私が受験生だった夏。 お姉ちゃんが死んだお盆休み。 一人だけ私のおじいちゃんの家に帰ってきた京之介くんのあの表情を思い出す。  ――「瑚都ちゃんは、俺のこと置いていかんでな」 同時に、川の話をした途端に縋り付くようにああ言った京之介くんのことも。 ガタッと音がして顔を上げた。 京之介くんが部屋に入ってくる音だった。 「……どないしたん、そんな顔して」 私は余程変な表情をしていたんだろう。京之介くんが訝しげにこちらを見下ろしている。 「ううん。ごめん、今日晩ご飯まだ作ってないや。帰ってきたのさっきで」 「ええよそんなん。俺もなんも買って帰ってこれんかったし。外食行く?」 「いいよ、レンジであっためるだけでできるやつあるから食べよ」 冷蔵庫から味付きのお肉を出して、ラップをして電子レンジに入れスイッチを押し、中が熱されていくのをしばらく眺めていた。 京之介くんが、仕事の鞄を床に置いた京之介くんがコートを脱いでハンガーにかけている。 「京之介くん。変なこと聞くから、笑ってほしいんだけど」 電子レンジの中の熱いお皿を取り出してテーブルに置きながら、聞いた。 「京之介くんってお姉ちゃんと心中しようとしてた?」 ネクタイを外そうとしている京之介くんと目が合う。 京之介くんは感情が剥がれ落ちたかのように無表情だった。 「あの日もしかして、京之介くんだけが生き残ったの?」 違う。時系列的に辻褄が合わない。 あの日川で溺れているお姉ちゃんを誰かが見つけて救助活動が始まった時、京之介くんは家に居たはずだ。そんなことは分かっていて事実を確認するために聞いた。 「ちゃうよ」 京之介くんが誰にそんなこと言われたとか何でそう思ったとか何も聞いてこないから不安が増す。 「あの日ぃやない。凪津と死のうとしたんは、あの日の前日の晩やった」 室内が酷く寒かった。帰ってきてから暖房を入れることを忘れていたな、と今更思った。 「でもできひんかった。俺にそんな度胸がなかったから」 ネクタイを解いた京之介くんが、ベッドに座って私の両手を握って引き寄せてくる。 「心中しようとして、途中で俺が止めた。もうやめよう全部俺が責任取るからって。結婚しようって言った。両親にも土下座して金もらうからって。俺の人生滅茶苦茶になってもええからお前の腹の子育てるって。凪津が冷めた目ぇしてるんも分かってたけど、無理矢理引っ張って連れて帰った。その翌日――俺と心中する予定やった川で、凪津は一人で死んでいった」 京之介くんが私を見上げる形で問いかけてくる。 「軽蔑する?」 「……」 「俺はお前の姉ちゃんの自殺に加担しようとしたし、結局止められへんかった」 「何で一緒に死ぬって話になったのか、理由を知りたい」 「凪津に泣きながら一緒に死んでくれって頼まれた」 「頼まれたからって心中するの?」 「凪津はもう無理やったんよ。相当精神的に参っとって……でもああいう性格やから、俺にしか弱音吐けへんかった。内容的にも誰かに言えるような話ちゃうかったし、秘密を共有したことで俺らだけの世界ができて、俺はずっと電話で凪津の泣き声聞いて、ズルズル引き摺られて……俺も病んでた。あの時」 ――その精神的に参った原因を作ったのも、京之介くんじゃないの? そう責めてしまいそうになって口を結んだ。 代わりに出てきたのは涙だった。 「俺やったら止められた」 「……」 「あの日、俺が凪津の傍におればよかった」 「……」 「憎んでくれてもええよ」 何で勝手に二人で死のうとするの? 何で誰にも相談しなかったの? ――何で、という言葉が何度も頭に浮かぶ。 もうどうしようもないことを分かっていて。 「お前を好きになってごめん」 色んな感情で頭の中がぐちゃぐちゃになって、ぼろぼろと涙を流して崩れ込む私を、京之介くんが強く抱き締めた。 「あの時何もできひんかった俺に、瑚都ちゃんを抱き締める資格ない。ずっと後ろめたいよ」 「……っ」 「ごめんな、でも傍におりたい」 「私、何も、知らなかっ……」 「ごめん」 謝ることしかしない京之介くんの様子を見て、京之介くんだって謝る以外何もできないことを感じた。 そう、どうにもならないのだ。今どんなに泣いたところで過去は変わらない。 何時間そうしていたか分からない。 私の涙が落ち着いた後、京之介くんがゆっくりと私を離した。 私は鼻水を啜りながら、「お肉冷めちゃったね」と何も聞かなかったように笑った。 それ以降、京之介くんとこの話はしていない。 一緒に死んでもいいと思えるほどお姉ちゃんを愛していたこの人を、 一度はお姉ちゃんをあの世へ連れ去ろうとしたこの人を、 お姉ちゃんとの秘密をずっと隠し持っていたこの人を、 全て知っていながらお姉ちゃんを救えなかったこの人を、 お姉ちゃんが自殺する原因を作ったこの人を、 私はこれまで通り好きでいられるんだろうかという不安だけが残った。
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