あの夏

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 あれから十年以上経っているとはいえ、私が鞍馬の顔を間違えるはずがなかった。あの夏から何度も夢に出てきては、私を苦しめたのだから。その上、名前が同じ。偶然とは思えない。  鞍馬の姿を見てから何も頭に入ってこないまま、その日の研究は終わった。  研究室に残る院生も居たが私は程々に17時で切り上げ、差し入れのお菓子を一つ鞄に入れてこそこそとその場を後にした。美味しいメニューが多いと言われる学食でご飯を食べたいところだが、おじいちゃんに今日は私が夕飯を作ると伝えてあるので最寄りのスーパーへ向かう。  とはいえキャンパス内は広く、自転車で移動する生徒もいるくらいだ。迷ったら遅れてしまうな、と思いキャンパスマップをじっと見つめていると。 「瑚都ちゃん、この後ひま?」  服のポケットに手を突っ込んだまま、先程まで研究室内に居たはずの鞍馬が話しかけてきた。私が帰るのを見て追ってきたんだろうか。 「……用事があります」 「敬語使うんだ。てか俺のこと覚えてる?」  血の気が引いた。小さな鞍馬が水に落ちる音と自分にかかった水飛沫の光景がフラッシュバックして、息の仕方が分からなくなる。 「バーで会ったよね」  しかしその次に出された予想とは違う台詞に、私はようやく息を吸い込むことができた。 「……ああ……」 「すごい偶然じゃない?なかなかないよ、こんなこと」  そうだね、と言おうとして、声を出すことができなかった。取り繕うように髪をかきあげた自分の指先が震えていることに気付く。一刻も早くここを離れたい。 「すみません、用事があるので本当に失礼します」  早口でそれだけ伝えて、鞍馬の言葉を聞かずに走ってその場を去った。  ――気付いてない。そりゃあそうだ、十年以上経っているのだから。  その事実にほっとしながら、とりあえず鞍馬のことは忘れるように努めて、スーパーで豚汁の材料を買った。  その後、バスに乗って祖父の家まで揺られた。滅多に車酔いをしない私だが、今日ばかりは気分が悪くなった。 【京之介くん、今日晩ごはんどうするの】  京之介くんにメッセージを送って家へ入り、材料をキッチンで並べていると返信が来た。 【なんで?】  その短い文に安堵する自分が居た。京之介くんからの返信は酷くホッとする。 【うち豚汁作るから、食べに来ないかなと思って】  数分後、返信が来た。 【行く】  :  成人した私と京之介くん、そしておじいちゃんとで行われる食事は、昔と違って会話がなく、なかなかに気まずかった。おじいちゃんは以前より耳が遠くなっているためあまり話しかけてこようとはしない。ただ、「うまいうまい」と言いながら食べてくれるのが嬉しかった。  京之介くんは無言で食べている。中学生の頃の夏休み、京之介くんに慣れない手料理を振る舞い、「下手くそやな、味見くらいせえや」と歯に衣着せぬ物言いをされてから、私はきちんと母の料理を手伝うようになったのだ。  あの頃に比べて料理の腕は格段に上がっているはず……と思うけれど、京之介くんはおじいちゃんと違ってお礼も感想も言わないから少しムッとしてしまった。  ふと、おじいちゃんが、熱いお茶を口にした後、昨日は何をしたのかと聞いてきた。 「八坂庚申堂へ行ったよ」 「へえ。かわいらしとこへ行ったんやねえ」  おじいちゃんは嬉しそうに相槌を打った。 「今度はどこ行くん」 「もう十分遊んだからいいよ」 「嵐山はど。一泊くらいしてきたらええ。あの辺の宿は、おすすめやで」 「いいよ、別に。」 「まぁまぁ、そう言わんと」 「……何かあるの?」 「おお、よお分かったなぁ。宿の割引券の有効期限、切れかけとるんよ。おばあちゃんと行く予定やったんやけど、体調崩しがちやしなぁ。京之介とでも行ってきたらええわ」  そう言って十二月末までの割引券二枚を渡してくる。なるほど、まだ十分余裕はある。 「私は別に、京之介くんとじゃなくておじいちゃんと二人でもいいよ」  自分の足の不自由さを気にして、自分とでは満足のいく宿泊にならないと考えているのかと思い、それくらいサポートできるという意を込めてそう提案したのだが、一拍置いて、ちらりと京之介くんを見たおじいちゃんは「若い者同士で遊ぶとええ」と言った。 「ありがとう。おいしかったよ。わしゃもう寝るわ」  そして、しわくちゃの顔を更にしわくちゃにしながら笑って、ゆっくりと立ち上がる。  時刻は八時。いつものおじいちゃんなら眠っている時間帯だ。私の晩御飯のために起きていてくれたんだろうか。 「待っててくれてありがとう、おやすみ。お皿置いといていいよ」  おじいちゃんが使ったお皿とコップを流し台に持っていってから、また椅子に腰をかけ直す。  ちらりと前にいる京之介くんを見たが、京之介くんは黙って食べ続けるばかりだ。相変わらず、おしとやかな色気がある。 「俺とやったら不満なん?」  箸を置いた京之介くんが流れるような関西イントネーションで問うてきた。 「不満ではないけど……私と行っても京之介くん、楽しくないかなって」 「別に、瑚都ちゃんに楽しませてもらおとか、期待してへんけど」  ……何その言い方。 「いいよ、他の人と行くから」 「そんな相手おらんくせに」  ぐっと黙り込んでしまった。確かに京都へ来たばかりの私には、一緒に行く友達もいない。京之介くんは反論できずにいる私をしばらくじっと見つめていたが、くいっとコップの緑茶を飲み干して立ち上がった。そして流し台まで食器を持っていき洗い始める。 「え、いいよ」 「うちの家では作ってもろた奴が洗うねん。忘れたんか」  スポンジに洗剤をつけて皿を擦るその手が昔見たものよりもゴツゴツしている。言われてみれば、確かに京之介くんの家では洗い物をする人と料理を作る人は別だった。洗ってくれるならお言葉に甘えて任せるか、と思い残りの豚汁を自分のお椀にいれた。  その時テーブルの上に置いてあったスマホが震えて、視線だけをそちらにやると、ロック画面にLINEの通知が送られてきていた。 【鞍馬だよ】 【よろしくね】  おたまを持つ手が止まってしまう。スマホを持ってタップすると、LINEの画面が開いた。たった二つのメッセージで、心臓が嫌な鳴り方をしてくるのが分かる。  ……自分からは連絡しないって言っていたのに。  既読を付けてしまったことに後悔しながら、返信はせずに閉じた。 「誰?」  いつの間にか背後に来ていた京之介くんがそんなことを聞いてくるから、びくりと体を震わせてしまった。 「そんな驚かんでええやろ」 「いや、……友達から、LINE来ただけ」 「ふうん?」  京之介くんに疑問を覚えさせるほど、私は変な顔をしていたのだろう。ぎゅっとスマホを握り締めて、おそるおそる口を開く。 「ねえ、京之介くん」 「うん?」  ――――あの男の子の話を覚えてる?  そう言おうとして、色んな感情が溢れ返ってきて何も口に出せなくなり、「……私、もうお腹いっぱいかも」とだけ言って残飯を捨てた。  ご飯を残すことなんて滅多になかったはずの私を、京之介くんは無表情でじっと見ていた。
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