あの夏

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 あの夏。  鞍馬を川に落としてしまったことを誰にも言えないままお盆が過ぎ去り、いよいよ関東へ戻るという日の前日の晩、私は家を抜け出して、必死に川を探したのだ。  暗さ故に昼間とは見え方が違うこともあり、方向音痴な私は川を見つけるまでにかなりの時間がかかった。川の近くに立って、か細い声で「鞍馬」と名前を呼んだのを覚えている。底の見えない真っ暗な水が酷く不気味に見えた。  鞍馬はこの川になってしまったんだろうか。私があの時、落としてしまったから。浅いところなら大丈夫だろう、と思い、私は靴を脱いで川へ入っていった。  しかし暗い川の中を思い通りに動くのは容易ではなく、私は足を滑らせて転けてしまった。浅い場所なので流されずに済んだが、服が水でびしょびしょになった。夏にも関わらず寒くなり、私はその体勢のまま声を上げて泣き始めた。  どれだけそうしていただろう。懐中電灯の光が私を照らし、顔を上げると、走ってきた様子の京之介くんが居た。怒られると思って体をビクつかせた私だが、京之介くんは何も言わず私に手を差し出した。  私は涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔をしたままその手を取り、引き上げられるようにして川を出た。 「……なんで、」 「昼間川の方ずっと気にしてはったから、ここにおるんちゃうかなと思って」 「……お姉ちゃんは?」 「寝とるよ。瑚都ちゃんがおらんようになったこと、俺しか気付いてへん」  一人で気付いて、探しに来てくれたのか。あれだけ怒られたのにまた川に近付いたこと、呆れているだろうか。  京之介くんは私の手を離さずに、土手に座らせてゆっくりした口調で聞いてきた。 「なんかおったん? 他に」 「っ」  ビクンと体を震わせた私の反応は肯定そのものだった。 「あ、あの、わ、わた、わたし……っ」 「うん」 「殺しちゃった……男の子を」 「……」  暗くて顔が見えないが、京之介くんが目を見開く気配がした。しかしそれも一瞬のことで、納得したように川の方を見る。 「やっぱり。あんだけ川を怖がってた瑚都ちゃんが、川に入るんはおかしいと思った」  震える私の濡れた冷たい身体を抱き締めて、京之介くんがいつもとは違う優しい口調で言った。 「大丈夫や、二人だけの秘密やから。俺もお前も言えへんかったら、だぁれも分からん」  京之介くんの温もりを体で感じて、私はまた泣き始めてしまった。 「俺も気付いとったしな」 「……え?」 「川の向こうで何かが動いてるん見えた。でも人間やとは思わんかったし、……瑚都ちゃんさえ助かればええと思った。瑚都ちゃんのことしか考えられへんかった、あの時。だから、」  ――――共犯やな、俺ら  まだ声変わりしているかしていないかくらいの掠れた声が、妙に耳に残った夏だった。  :  おばあちゃんが退院してすぐの頃が、私のマンションの入居日だった。引越し業者が出たり入ったりして、あっという間に8畳の1Kは私の家具で一杯になった。  その日は平日で、ベッドの組み立てをしていると、夜に京之介くんから連絡が来た。 【今日飯作るん?】  豚汁を一緒に食べた夜から、京之介くんは仕事が終わると私のおじいちゃんの家まで毎晩ご飯を食べに来るようになっていた。私が引っ越すことは伝えているから、もうおじいちゃんの家に居ないことは知っているはずなんだけど。 【私のマンション来るなら作るよ。家具の組み立て手伝ってほしいし】  引越し業者が組み立ててくれた部分もあるが、料金をケチって椅子と机とベッドは自分で組み立てすることにしていたのだ。本来ならば二人がかりで組み立てるものだし、そろそろ腰が痛くなってきたところだ。 【一人で組み立ててんの?】 【うん】 【俺がやるから置いとき】  え、来るんだ、って少しドキッとした。そのすぐあと、【七時くらいになる】とメッセージが送られてくる。  時刻は六時。私は慌てて財布を持って、最寄りのスーパーまで向かった。今日は疲れているし外食するつもりだったのだ。でも、私が引っ越しても京之介くんが晩ご飯を食べに来てくれることが嬉しかった。  その日から、京之介くんは仕事帰りに私の家に晩ご飯を食べに来るようになった。
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