あの夏

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 優しくて悪い男は、女の可愛がり方も要求の飲ませ方も女の躊躇いを消すのもまた会いたいと思わせるのもうまい。  それを私が痛感したのは、夏が近付いてきた頃だった。  研究室では内部進学の院生と仲良くなり学生の鞍馬とはほぼ喋っていなかった。今度一緒に飲みに行かない? と誘われても忙しいの一点張りでその場をしのいでいた私だが、ある日鞍馬から送られてきたLINEでその指を止めてしまった。  【花火大会行かない?】というシンプルな誘いの後ろに、割と新しくできた花火大会の写真が二枚続いていた。  ――どうしよう。行きたい。私は昔から、花火にだけは目がないのだ。毎年欠かさず行っていたし、それは今も変わっていない。  ちらりと遠くの椅子に座ってスマホ片手に他の同級生と話している鞍馬の方を見ると、視線に気付いたのか、私の方を見てにこりと手を振った。  軽く会釈をして自分の机に向き直る。正確には、鞍馬からの誘いが表示されている画面に、だが。十分ほどうーんうーんと悩んでいたが、悩むくらいなら行った方がいいと思った私は、【何日ですか?】とだけ返した。  負けた気分だった。正直花火大会に行きたいからといって鞍馬と行く必要はないのだ。それでもこの誘いに乗るのは、押しに負けたから――と、鞍馬が単純にタイプだからだった。  同じ研究室でしばらく見ているうちに、本当に他人の空似、偶然かもしれないとも思えてきた。顔が酷く似ていると思ったけれど、子供の頃の顔と大人になってからの顔なんて変わるもんだし。何より、鞍馬は私に心当たりがないようだし。  それらの“彼は私が殺してしまった鞍馬ではない”という条件が揃った時改めて見てみれば、鞍馬という人物は、私にとって性的に魅力的だった。  女慣れしすぎている男はタイプじゃないから付き合いたいとかは微塵も思わないけど、一度くらいはヤってみたいと思わせる容姿と雰囲気をしている。あの夜バーのカップルシートでヤっておけばよかった。鞍馬はどんなセックスをするんだろうって気になって、また二人で会いたくなってしまう。  ことりと鞍馬によってコーヒーカップが私の隣のデスクに置かれた。そこは鞍馬の席ではないのだが、そこに座る予定の院生は今昼食で出ている。いつの間に同級生との会話を切り上げてこちらに来たのだろう。私がぼうっとしすぎていたのか……。 「来てくれるんだ?」  鞍馬は椅子を引いて、私の隣に座る。 「嬉しいよ、釣れて。フラれてばっかだったし。花火好きなんだ?」 「……まあ。いつですか?これ」 「ずっと思ってたけど、何で敬語?俺学生だよ?」  それを言うなら年上相手で敬語を使ってないお前も可笑しいが?と思ったが、呑み込んだ。視線だけを返した私を見て、鞍馬はふふっと楽しそうに笑った。 「その花火大会は来週の日曜。今日の夜空いてる?予定決めない?」 「……夜は空いてないですね。晩ご飯作らないといけないので」  京之介くんと自分のために晩ご飯を作る日々が続き、今ではすっかり当たり前になっているのだ。 「晩ご飯ねぇ。彼氏に?」  ああ、そういえば彼氏いるって設定だったな。誘いを断り続けているいい口実になると思い、頷いて肯定した。 「明日でもダメ?」 「LINEで済ませられる話はLINEでしませんか?」 「……ふーん、別にいいけど。俺とご飯食べてくれる日はないってこと?」 「また機会があればって感じですね」 「機会は作るものだと思ってるけどなあ」  頑なな私が面白いのか、鞍馬はクックッと肩を揺らしている。そして、机に手をついて立ち上がり、私の耳元で囁いた。 「瑚都ちゃんなかなか俺と会ってくれないから、花火の日はぐちゃぐちゃにするね」  女をぞくりとさせる色っぽい声が鼓膜を震わせる。去っていく鞍馬の背中を見つめながら、自分が身体であの男を求めていることを痛感した。  自明の理だけども、鞍馬という人間はかなり遊んでいる男だ。  それは振る舞いを見ていても分かることだし、研究室の学生から話を聞く限りでもそうだった。所属する学科には女が少ないにも関わらず女に困っていないその姿から、同学科の男たちからかなり反感を買っているらしい。この研究室に配属されているあの女学生も、たまに研究室に鞍馬を迎えに来る新入生女子も、みんな鞍馬の現在進行形のセフレだという話だ。見境なく食ってる男のようだし、私とどうなっても気まずさなんて感じないだろう。同じ研究室とはいえあの男なら後々の関係にヒビが入ることもきっとない。ワンナイトしたところでいつもの調子で話しかけてきそうだ。  カレンダーアプリを開き、来週の日曜の予定に“花火大会”と入力した。その後、LINEを開いて鞍馬へ短く返信する。何時に集合するかという質問だった。 【早い分には全然アリ。その分一緒にいれるし】  すぐに返ってきたので、既読だけ付けてトーク画面を閉じた。スーパーで買ってきた材料の袋からお肉と野菜を取り出し、京之介くんが置いていったマーシャルのスピーカーで音楽をかけて料理を始める。  割り切ってしまえば楽しみになってきた自分に気付いた。  鞍馬に性的な興味がある。それはあの夜からずっとだったから。  :  当日は伏見稲荷駅に午後3時に集合した。鞍馬は駅最寄りのコンビニの近くに車で迎えに来てくれた。後ろの座席に荷物を置いて助手席に乗ると、鞍馬は軽く私にキスした。 「瑚都ちゃんって煙草大丈夫?」 「……大丈夫ですよ」  本当は苦手だったけど、間を置いて嘘を吐いた。鞍馬はPeaceと書かれた黒い煙草の箱を手にとって中から一本取り出して火を付け、吸い、白い煙を吐く。煙草を吸う人を間近で見るのは初めてだった。鞍馬の香水の香りに、煙草の匂いがよく似合っていた。 「俺普通にスモーカーなんだよね」  長時間一緒に居ると健康を害しそうだな、と思った。普段煙草を吸っている人の前を速歩きで歩いているような私なのに、不思議とやめてくれという気は起きない。 「いつもそれ吸ってるんですか?」 「色々吸ってたけど、常習的に吸うならこれしか無理かな」  鞍馬の吐く煙が少しだけ開けられた窓から出ていくのをぼうっと眺める。運転するその横顔を見ていると、その首筋に派手なキスマークが見えた。 「キスマーク見えてる」 「ん? ……ああ、ついてる?」 「遊んでるんですね」 「まあ、それなりには。ちょっと前は遊んでなかったんだけどね。数ヶ月前に再開したって感じ」 「再開?」 「彼女が俺に遊ばないでって言うからやめてたんだけど、向こうがこっそり浮気してたから俺もしよ~って思って」  意外だった。彼女とか、特定の相手作るタイプなんだ。 「勘付いてんのか最近やけにキスマ付け始めたんだけど、バカなんじゃないかなと思って。俺と遊ぶ子がキスマなんか気にするわけないじゃん」  ねえ? と可笑しそうに聞いてくるから、曖昧な作り笑いしか返せなかった。  私の知る限り甘い言葉しか吐かない鞍馬が、“バカなんじゃないかなと思って”なんて言い方をすると思わなくて少し怖かったのだ。でもそんな風に言うってことは彼女の浮気に対して多少の怒りがあるわけで――ああ、こいつもまともな人間だったのか、なんて場違いな安堵を覚える。 「ま、今日は瑚都ちゃんが俺のカノジョだからこの話はもう終わりね。どっか行きたいとこある?」  言葉に詰まった。鞍馬の目的は分かりきっている。女を抱きたいだけだ。その目的は私と同じだし、花火の前にホテルへ行くなり家へ行くなりするならそれに合わせようと思っていたのに――選択を私に委ねるとは。 「…………どこがありますか?」 「京都のどういうところが好き?」 「うーん、小さい頃清水寺見に行って面白かったのは覚えてます」 「なるほどね。そういう系か」  信号が青に変わる。鞍馬が灰入れに煙草の灰を落とし、走り始めた。どこへ行くつもりだろうと思うと急に緊張してきてぎゅっとシートベルトを握ると、横でふっと笑う気配がした。 「そんな緊張しなくても。裸見合った仲じゃん」 「……、」 「年上のくせに。カワイイですね」  からかうように敬語を使われ、思わずチッと舌打ちが出る。 「別に私は脱ぐ気なかったけど、あんたが脱がせたんでしょ」  あまり仲良くない人間相手には作ってるけど、地声は低い方だ。可愛い声の出し方をやめると、満足そうに鞍馬の口元が弧を描く。  『目的地は左側です』――Googleマップのナビの声がした。三十三間堂と書かれている。初めて聞く名前だった。 「さんじゅうさんかんどう……」 「げんどう、ね。京都らしい意地悪な読み方でしょ」  車を止めた鞍馬がくすくすと笑い、また私にキスを落とした。今度は舌が入ってきてびくりと身体が揺れる。煙草の味が少しだけするけれど不快なほどではなかった。普段喫煙者とはしないから、煙草の味のするキスは初めてだ。 「……鞍は飲み物何が好きなの」  唇が離れていった後で冷静な顔をしてそう聞くと、鞍馬は少し考える素振りを見せた後言った。 「コーヒー系かな。どうして?」 「いや。一応運転してもらう身だから、飲み物買ってきた。水だけど」  後部座席に置いていた荷物の中から迷った末に買ったミネラルウォーターを渡す。鞍馬が何を好むのか全く想像がつかなかったから、万人受けする水を購入したのだ。  すると鞍馬はにやりとしながらそれを受け取り、「カフェオレの方が良かったなあ」と意地悪なことを言う。 「じゃあ返して」 「うそうそ。ありがとうね。嬉しい」  ペットボトルを奪おうと手を伸ばした私から、ペットボトルが離れていく。  先に車から出た鞍馬に付いていくと、受付でパンフレットのようなものをもらった。拝観料を一緒に払おうとするので自分の分のお金を押し付けておいた。彼氏でもない男に奢られるのは好きではないから。  靴を脱いで中へ入り、鞍馬の持っているパンフレットを受け取ろうとすると「俺が持っとくよ」と言われ、思わず首を傾げた。 「折ればポケットに入るけど」 「パンフレット見られたらネタバレになるもん。帰るまで没収しとく」  三十三間堂は初めて来る場所だ。雰囲気的にお寺だけれど、事前情報は何もない。一体何があるんだ……と不審に思いながら付いていくと、途中で引っ張られ手で目を覆われた。何も見えぬまま歩かされ、あるところで鞍馬の足が止まる。 「え、何……」 「いくよ?はい」  鞍馬の手が退いたかと思えば、等身大の千手観音立像がずらりと目の前に並んでいた。びっくりして思わず転けかけたのを鞍馬が支えてくれた。そんな並べる? ってくらいずっと向こうの方まで、等身大の千手観音立像が並んでいる。 「うわ、すご……」 「ここびっくりするよね~お寺好きなら一回くらい見といてほしいなって思って」 「いや、これはすごい。こんなの初めて見た」 「でしょでしょ」  ニコニコしながら私の手を取った鞍馬は、ずっと続く像の前を私に合わせて歩いていく。 「俺は初めてじゃないから、瑚都ちゃんの好きなところゆっくり見ていいからね」  正直神社仏閣は好きな方なので興味津々で説明文を読んでしまう。頻繁に立ち止まる私に、鞍馬は文句を言わず付き合ってくれた。  お互い身体目的なのに、まるで本当にデートみたいだな。  鞍馬が複数の女を同時進行でセフレにできる理由が分かった気がする。女を沼らせる男は恋人ごっこがうまいから。どのセフレにも最初はこういうことをしているとしたら、なかなかのやり手だ。  そんなことを考えながら歩いていると、綺麗な若い女の人たちが弓を引いている写真があった。1月にはここで新成人が弓を引く大会があるらしい。 「いいなあ、京都。イベントが多くて」 「これからしばらく居るでしょ。いっぱい色んなところ連れてってあげる」  私の手を握っている鞍馬の親指が、擽るように私の手の甲をなぞる。  鞍馬はこんなことを言っているが、果たして私たちに“次”があるのかは甚だ疑問である。
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