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その夜、日中全力で遊んだため、マロンの電池がきれるのがはやかった。平太が食器を洗っていると、マロンを部屋で寝かせて戻ったモカが、テーブルを片づけはじめる。「休んでください」といっても、首を振る。
「じゃあ、一緒にちゃちゃっとやっちゃいますか」
平太はマロンが今日一日何をしてどんな風だったか話をしながら、手を動かす。
どろんこ遊びの流れで、初めて平太と風呂に入ってくれた。
湯舟で気持ちよく「ぞうさん」を歌ったら、何度も何度も「もっかい」とせがまれてリピートした話をすると、モカは「ぜんぶ聞こえてました」とテーブルを拭きながら笑った。
マロンは風呂に入る前、モカに、「ここ! ここ!」と浴室の扉の前にずっといることを強要した。モカはマロンから「ママ!」と呼ばれると、すぐに「はーい」と返事をし続けた。
ぞうさん、ママ、はーい、ぞうさん、ママ、はーい。
平太もやりとりを思い出してふふふと笑った。
大人だけのキッチンで、マロンのかわいい話で盛りあがっている。ほんわか仲良しな空気感がくすぐったい。平太に心を許しているとしか思えない感じでふわふわ笑うモカに、平太もフワフワしてしまう。ちらりと盗み見したテーブルを拭いている背中がセクシーだ。
「……平太さんは大学生ですよね。学校はいいんですか」
そういえばこの家で共同生活を初めて十日ほどになる。当初、祖父に頼まれた用事をすませがてら、山で遊んでぱっと帰る予定が、大幅に延長している。
テーブルが終わるとモカは床にはいつくばって、雑巾がけをする。朝食のジャムのべとべとを拭き、パンのかけらを拾う。平太も椅子をどかしてテーブルの下に転がっているおもちゃを片づけようと、かがみこんだ。
「いつ学校に戻るんですか」
「えーっと、まあ、はい」
おそるおそる顔をあげると、案の定モカの表情は険しかった。
「……どうしてそんなに優しいんですか? なぜ私たちのことについて何も聞かないんですか。不審に思わないんですか」
「……えっと」
事情を詮索したり、無理強いして聞いたりしたくない。
ダイニングテーブルの下で、モカは平太の手をとった。唐突に平太のシャツの袖をめくる。腕には、わんこの歯形がまだくっきり残っている。
「あっこれは」
説明しようとした。あれから何度か二匹のことについて調べたが、何もわからずじまいだった。
あ、と思った瞬間には、柔らかくあたたかい、湿ったものを感じた。モカは傷を癒すように唇をあてていた。舌を感じた。
平太がフリーズしていると、モカははっとし、平太の手を離した。
「……っ、ごめ、……ごめんなさい。マロンがケガするといつもこうして、だから」
「モカ、さん」
たまらなくなって、平太はモカの手を捕まえる。モカは平太に引き寄せられるかたちになり、体勢をくずした。鼓動も吐息も濡れたような黒目も、たった数センチ先だった。テーブルの下、吸いこまれるように互いを見つめ、しかしそれからどうしていいかわからず、平太は口をぱくぱくさせた。
こめかみがどくどくする。
「あのっ……」
何か言わないと、と思い、言いかけるが言葉がみつからない。
モカは困ったように視線をふらふらとさせ、決意したようにまぶたを閉じ、心持ち顔をあげた。
平太はそれが何を意味するのか、わからなかった。きれいでかわいい顔を至近距離で眺めているうちに、徐々にじわじわきて、わっ、となった。
これは、まさかキス、的なやつをしてもいい……キス待ちOK顔、そういうやつでは……、
「あっーっ、ええと、あの!!」
平太の声がでかすぎて、モカはびくっとした。平太はモカの手をつかんだ手に、力がはいる。
「痛っ」
「っと、うわうわうわうわごめんなさいごめんなさい」
言いながらも手は離さない。テーブルの下、でモカの手をぎゅうううううっと握りしめ続ける。
「平太さん……少しゆるめて」
自分が何をしようとしているのかわからない。あわてて手をはなした。
「あのっ、あのっ、すみません、俺は本当に無害で、だからっこれはその、でも、とにかく、そうだ、明日ゴミの日だゴミまとめなきゃ」
「平太さん……」
モカが吐息まじりに、切なそうに、平太の名を呼ぶ。もう、その感じがたまらなくて、平太の中でパンパンに膨らんでいた何かが爆発した。
「モカさ……――!」
ゴッと、ものすごい音がした。平太はテーブルに思いっきり頭をぶつけた。テーブルの下だったことをすっかり忘れていた。
「づ、おっぅ!」
「大丈夫ですか?!」
その時、びゃあああああん、と泣き声がする。騒ぎのせいでマロンが起きてしまった。
二人はあわててテーブルの下から出た。モカは急いで手を洗う。お互い、顔を見れなかった。
「もう一度寝かしつけてきます。あの、お願いがあります……マロンが寝るまで起きていてくれますか」
目を合わせないまま、やや突き放すような言い方だった。ノーと言わせないシリアスさがあった。
平太の返事も聞かず、モカは泣いているマロンの元に行ってしまった。まもなくマロンを抱っこして落ち着かせようとしている声が聞こえてくる。
マロンの泣き方は聞いているこちらが心配になるほど激しく、ひきつけを起こしているような泣き方で、何か手伝えることはないかとやきもきさせられる。しかし今行っても逆に刺激して余計に泣かせてしまうかもしれず、平太はその場にとどまる。
泣きやむまで、とても長い時間に感じたが、やがて泣き声はとぎれとぎれになり、静かになった。
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