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次にやってきたのは運動場だ。希兵隊本部の運動場は、一周百メートルほどのやや小さめの規模。町の通りと同じく、もちろんコンクリート舗装などされておらず、皇学園のグラウンドのように人工芝が生えているわけでもない。公立の小中学校のような、砂の地面だ。
霞冴は、本腰を入れて鍛錬したい時、希兵隊の道場では剣を振らない。美雷によると、その理由は単純で、霞冴よりも腕の立つ剣士がいないため、彼女自身の成長にはつながらないからだ。そのため、霞冴が己を鍛える時には、出身の道場へ行くか、もしくは体づくりをしているらしい。筋力や体力のなさがネックであることを自覚しているためである。
今日はこの後、美雷の護衛官として神社に来るため、道場へは赴いていない。本部でも奥の方に位置する運動場で、ひたすら走り込みをしていた。
やはりこちらも必死のあまり雷奈達には気づいていないようで、霞冴はポニーテールに結えたアリスブルーの長い髪を躍らせながら、シャツと短パンの裾から伸びる細い腕と足を懸命に動かしていた。グラウンドの入り口付近の壁際には、タオルと魔法瓶が置いてある。後者はよほど愛用しているのか、柄が少しかすれかけたものだ。
あからさまに出ていくのも気まずくて、建物の陰から覗くようにしていると、背後から柔らかなソプラノが聞こえた。
「こんにちは」
突然の声に、彼女らは少なからず驚いたが、あまりにも柔和な響きだったので、飛び上がらずにすんだ。
琥珀色のまっすぐな髪に同じ色の瞳、オレンジと白を基調としたセーラー服、気品漂う佇まい。フィライン・エデンの警察・消防組織の頭、時尼美雷だ。
「びっくりしたったい。こんにちは、美雷」
「三人とも、様子を見にきてくれたの?」
「まあ、そんなとこったい」
「そう。ありがとうね」
美雷はふんわりと微笑むと、ちょうど運動場の一番向こうを走っている霞冴を目を細めて眺めた。
「あの子達、ガオンに負けたのがよっぽど許せなかったみたいね。仕事の合間を縫っては、ああやって鍛錬を積んでいるのよ」
美雷の眼差しは、まるで我が子を見守るようなものだ。雷奈達より三つしか違わないはずなのに、人生をひと回り多く経験してきたかのような霊妙ささえ感じられる。
「……まあ、でも」
美雷が苦笑した。視線の先、規則正しく走っていた霞冴が、右に体を傾けるようにして、よたよたとした足取りになっている。どうやら、脇腹が痛くなってしまったようだ。雷奈達も体育の持久走で一度は経験したことがある現象である。
こういう時、雷奈達なら、教師の目を盗んでこっそり手を抜くところだ。動かしているのは足だが。
ところが、霞冴はそのまま走り続けようとしていた。痛みに顔をしかめながら、足を引きずるようにして前へ進む。悲鳴をあげる体に鞭を打つように。
「向上心があるのはいいことだけれど、無理して体を壊したら本末転倒だものね。この辺で止めておきましょう」
言って、美雷はすっと雷奈達の後ろから運動場の方へと抜けた。雷奈達も、隠れているような状態がきまり悪くて、表に出る。
「霞冴ちゃん」
ちょうど一周回ってこちらへ戻ってくるところだった霞冴は、美雷と、後ろからついてくる雷奈達に気がついたようで、息を荒らげながら目をぱちぱちさせている。
「美雷さん、雷奈達も……はぁっ、見られてたなんて、はぁ、なんか恥ずかしいね」
顔が紅潮しているのは、羞恥心のせいではない。真っ赤な頬を、滝のような汗が流れ落ちていた。右の脇腹を押さえながら、やはりよたよたと歩み寄ってくる。
「霞冴ちゃんたら、今から護衛官のお仕事なのに、そんなふらふらになるまで走っちゃダメじゃない」
「あ、す、すみません……」
「この前だって、ご飯も食べられないくらい無理してたでしょう。ダメよ、霞冴ちゃん。めっ」
「はい……」
きょうび聞かないような叱り方をされた霞冴は、しゅうんと肩を落としてしまった。だが、厳しい顔でもない美雷に「シャワーを浴びていらっしゃい」と微笑みかけられると、気まずそうにしながらも照れ笑って、もう一度「はいっ」と返事をした。
「それじゃ、雷奈達も、また後でねー」
「うん! しっかり水分補給するとよー!」
タオルと魔法瓶を取りに早歩きで移動する霞冴を見送ると、美雷はくるりと踵を返した。
「さて、私もそろそろ行く準備をしなくちゃ。雷奈ちゃん達はどうする? よければ寄合室を貸すけれど」
「あ、私もお茶の準備するけん、戻るったい」
「じゃあ私らも神社かな」
「そうね」
美雷を迎えにきた名目にしようなどと話してはいたが、その美雷が朗らかに「様子を見にきた」ことを歓迎してくれたので、彼女の出発に先立って神社に戻ることにした。
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