51|降臨コーリング

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***  雷奈達が宿坊についたときには、すでに茶を入れる準備が整っていた。ローテーブルの上には、雷志がぜひ手土産にと持ってきたフレーバーティーの缶と、湯の入ったポット。帰ったら雷奈が茶の支度をしているものと思っていた雷華は、彼女らの道草を知って、案の定呆れ、舌鋒鋭く端的な説教を見舞った。  美雷と霞冴がやってきたのは、雷華が溜飲を下げた十分後、四時きっかりである。  よくシャンプーした後の霞冴の髪が乾いたな、と氷架璃と芽華実は驚いたが、霞冴の髪は細いので乾きやすいのでは、とは雷奈の談だ。  美雷が和室に上がってくると、雷志は正座で座っていた姿勢から、品のあるしなやかな動きで立ち上がった。 「あなたが美雷さんね」 「ええ、そうです」  ふわり、美雷が微笑んだ。 「希兵隊総司令部・最高司令官、時尼美雷です。お初にお目にかかりますわ、雷志さん。先日は度重なる失礼をいたしまして、大変申し訳ございませんでした。体調管理の甘さゆえにご迷惑をおかけいたしましたこと、お恥ずかしい限りです」  一礼する彼女も、雷志に負けず劣らず淑やかな所作だ。十を超える歳の差が、どうしてか、向かい合った二人の間で溶けて消えた。 「いいえ、お気になさらないで。季節の変わり目は何かと体調を崩すものよ。それに、漢方の世界では、二月や三月――旧暦の春はのびのびと過ごすのが養生法。ちょうどその時期に休めなかったんですもの、無理もないわ」 「『春の三月、此れを発陳(はっちん)()う。天地(とも)に生じ、万物(もっ)て栄ゆ。夜に臥し早く起き、広く庭を歩み、髪を(ひら)き形を緩うし、以て志をして生ぜしむ』。『素問』ですね。雷志さんは看護師さんでいらっしゃるとうかがいました。ご助言、どうも痛み入ります」 「まあ、お詳しいのね! さすが、博識でいらっしゃるわ。お見それいたしました」 「陰陽五行思想はフィライン・エデンにおける重要概念。最高司令官として恥ずかしくない程度には手習いをと思いまして。こちらこそ、出過ぎた真似をいたしました」  まるで井戸端会議を始めた主婦達のよう……に見えて、会話の内容はいやに高度。一部は理解できなかったうえ、「そんな上品な日本語使ったことないわ」と所在なくなってきた雷奈達は、着席とお茶を勧めてこれ以上の会話の昇華を阻止した。  その後、「フィライン・エデンの住人に再会するのは、アワ君とフーちゃん以来ですか?」「いいえ、バブルとウィンディにも会わせてもらいました」「希兵隊とは関わりが?」「最高司令官とお会いしたことはありますが、そう親しくなった方はいなくて」と前菜のような会話を挟み、ゆっくりと本題へ移行した。 「この度は……その、主人がご迷惑をおかけしてしまってごめんなさい。希兵隊の隊員さんにも重傷を負わせたと聞いていて……」  雷志の口切りに、美雷は笑顔にほんのわずか、痛みをにじませた。ルシル、コウ、霞冴。大切な部下が傷つけられたことを思い出すと、まだ胸が痛むのだろう。  美雷は瞳に浮かんだ陰りを、まばたき一つで奥に隠すと、ゆるゆると首を振った。 「こちらこそ、ご子女にお怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした。希兵隊がついていながらこの失態、忸怩たる思いです」 「いいえ、そんな……。……私が生前、彼を止められればよかったのだけど」  そう言ってうつむく雷志に、雷奈は今日の議題の一つに切り込んだ。 「母さん、私達、日記読んだっちゃけど……母さんは親父がフィライン・エデンの猫って分かってて結婚したとよね?」 「ええ」  雷志は、まだ雷奈がガオンを「親父」呼ばわりすることに慣れない様子で、苦笑しながらうなずいた。  けれど、母を殺した男を「父さん」と呼び慕う気などない雷奈は、構わずその呼び名で続ける。 「その……殺される前には、親父の様子がおかしかったことも、気づいとったと?」 「……まあね」  苦笑に、せつなげな陰が落ちる。その様子をじっと見つめていた美雷は、ささやくように静かな声で言った。 「雷志さん。ご主人が関わる出来事は、いずれも今となってはおつらい記憶と存じます。けれど、私達は彼がどのような経緯をたどったのかを知り、この度の事象が何であったのかを理解しなければなりません。……失礼を承知の上で、どうか、あなたの知る三日月ガオンさんをお聞かせ願えませんか」  フィライン・エデンの住人が知るガオンは、ただの巨大なチエアリだ。そして、雷奈が知る彼は、不愛想ながら怜悧な雅音という父親だ。これらの同一人物である男が、未来で世界を壊してから三日月家の亭主となるまでの空白が、どうしても埋まらなかった。  もっとも、一番肝要なのは、三日月ガオンという猫がチエアリになったいきさつであろう。だが、それを知る者は、少なくともこの時代の住人にはいない。それでも、わずかでも手がかりがあれば。 「ええ……元より、話すつもりで来ました」  雷志が重くうなずく。たとえ忌まわしき記憶でも、今日の本題の片方は、彼女が口を開かなければ始まらない。  死人に口なし。その(ことわり)が破られ、今、誰も知らない三日月ガオンが語られる。 「と言っても、お話しできるのはほぼ日記に書いたことの詳細くらいです。これがどこまで役に立つかはわからないけれど、私が出会った頃の主人は……ガオンさんは、虫も殺せそうにないほどの、脆く儚いひとだったんです」
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