51|降臨コーリング

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***  次の日、ホームルームが終わると、雷志は部活動に向かう耀と、フィライン・エデンに帰る仮り初めのクラスメイト、バブルとウィンディに挨拶して、学校を飛び出した。目指すはあの歩道橋だ。  基本的に、放課後は四人はバラバラに行動する。コンピュータ研究部の耀と帰宅部の雷志はもちろん別行動であったし、手隙の雷志と正統後継者の二人で話そうにも、住んでいる生徒寮は来客のたびに面倒な手続きを要するので二の足を踏む。まして、猫を連れ込むなどご法度だ。かといって毎回カフェを利用するのはお財布に厳しい。よって、四人の秘密の交流は、主に休み時間や休日に限られていた。  耀にも、そしてバブルやウィンディにも、前日の邂逅については伝えていない。何となく、事情が把握できてからにした方がよい気がしていたからだ。  その事情はこれから聞いていけると踏んでいたが、思えば一方的に取り付けた約束だ。守られる保証などどこにもなかった。  それでも、角を曲がって歩道橋が目に入った時から、通路の上にひっそりと立つ黒い人影を見つけて、雷志はほっとして顔をほころばせた。階段を駆け上がる足が、羽が生えたように軽かった。  雷志が近づいても、顔も合わせようとせず、昨晩と同じように車の往来を見つめる彼と最初に交わした会話は、雲一つないその日の晴天についてだった。厳密には、会話を交わす、というレベルにも至らなかった。何の反応も示さない彼に、一応の返答の余地を挟みながら、同じように歩道橋の外へ目をやる雷志が、ただ話しかけるだけの時間。  真っ青な空は気持ちがいいですね。  白い雲のいろんな形も、見ていて楽しいけれど。  晴れの日に空がきれいなのは、朝や昼間だけじゃないんですよ。  通りすがりの何人かの、二人を不思議そうに眺めていく視線も気にすることなく、雷志はゆっくりと流れる時間を惜しみなく使って、人間でないこと以外は何も知らない男の隣にいる、ただそれだけのことに心を傾けていた。  なぜ、初対面の赤の他人にそこまでしてやるのか。雷志を知らない人々は、そう口をそろえるだろう。  答えは単純明快だ。困っている人、傷ついている人、迷っている人。そんな人が、目の前にいるから。ただ、それだけだ。それが、九頭竜雷志だった。  ふと、昨夜の空を思い出して、何の気なしに口を開いた時だった。 「三日月が……」  その瞬間、男が初めて雷志を振り返った。深紅の目を見張っている様子だったが、驚いたのは雷志のほうだ。 「どうしましたか?」 「……いや」  その日、初めて彼の声を聞いたのは、会ってから時計の長針が半周した頃だった。  もしかして、彼も夜空を見上げるのが好きなのだろうか。昨夜の三日月を眺めていたのだろうか。  ひそかに期待を胸にする雷志に対し、男はきまり悪そうに、再び眼下に視線を戻した。 「……呼ばれたかと」  ぱちり、雷志は明るい茶色の瞳をしばたたかせた。すぐには言葉の意味を図りかねたが、直前の自分の発言を思い出し、気づいた。が彼にとっては呼びかけに聞こえるのだということ。  そして、彼にもっと近づくための一歩の踏み出し方にも。  雷志はにっこりと笑って、つかんでいた柵から手を離すと、踵を九十度返し、男に正対した。  彼は、横目で雷志を見ながら、やはり気まずそうな面持ちを浮かべていた。雷志の次なる言葉を見透かしたようだった。  雷志は、正解、というように一層無邪気な笑顔になって、二人を分かつ境界を超える、大きな一歩を踏み出した。 「あなたのお名前は?」 「…………」  男は口を閉ざしたままだった。  けれど、数分前までとは違う。沈黙が、揺らいでいた。  今にこの世界から消えようとしている最中(さなか)、誰かに名前を残す。それは、奈落へ落ちる自分と今世の間に、一本のつながりを結ぶ行為だ。きっと、それだけでは無へと落ち行く体を支えきれない。せいぜい、終焉に至るまでに糸一本分だけの抵抗が生まれるだけだ。  そのたった一本は、無意味か。あるいは、希望の片鱗か。  所詮、一本の糸は、それ以上にはなりえない。けれど、一ついえるとすれば――幾本ものつながりをより合わせて生まれる絆は、この世に留まるには十分に強固だ。  だから、揺らぐ水面に一度だけ波紋を広げるようにつぶやいた言葉から、雷志は見出した。 「……三日月、ガオン」  その一本が、彼の目には一縷の希望に映ったことを。  そして、もう一つ。 「よろしくお願いしますね、ガオンさん」  ――つながりを結びたいと思う程度には、この世に未練があることも。
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