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「……悪いな、うとめ」
迷った末に、イヅナは彼女にそう返した。
「お前の方が先に正規で働いてたんだから、あのままいけばお前が室長だったのにさ」
うとめは、その言葉にむしろ心外という風な顔をしてから、柔らかく微笑んだ。
「いいんです。あの子は優秀ですから。鳴上さんも、あの子の才能に惚れたんでしょう?」
「数学に加えて情報工学までモノにして帰ってきたからな。控えめに言って虜だな」
その言い方に、うとめはくすっと笑う。その笑顔の下には、誇らしさと、少しのせつなさが薄く層をなしていた。
「あの子はいつもそうです。私より後に生まれてきたくせに、いつの間にか追いついてきて、私の前を歩いていく。私が進んでも、その分あの子も先に進んで……いつも、先に行くのはあの子なんです。きっと、これからもそう。この先の人生、ずっと……最後まで……」
声は、曖昧に透き通って、一度消えた。
ややあって、うつむいたうとめの口から、残されたひとしずくが、ぽつりとこぼれる。
「……先に、いってしまうんです」
声の余韻が、静かな廊下に波紋を広げる。その形は、水面にこぼした涙が作り出すものに似ていた。
イヅナは、唇を噛みしめるうとめをそっと見守っていたが、やがてその頭にぽんと手を置いて歩き出した。
「戻ろうぜ。お前もやることあるだろ」
うとめは小さく息を吐き出すと、うなずいて足を踏み出した。
目的地はほんの数歩先だ。宮希の部屋の実にすぐ隣、「調査室 室長補佐 宇奈川羽留」のネームプレートがかかった扉に、鍵を差し込んだ。
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