51|降臨コーリング

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***  何がどうなっているのか、さっぱりわからなかった。  ただ、彼女は突如として、そこにいた。何の変哲もない空間に、ぽんと意識が現れたかのようだった。  きょろきょろと辺りを見回した彼女は、そこが家の庭だと気づく。テニスコートさえ作れるほどの広さの、芝が敷き詰められた見慣れた庭。といっても、芝は長年手入れがされていないようで、好き勝手に伸び放題の有様だ。  肌寒さを感じて、季節は晩秋のころだろうかと気づいて――首をかしげる。  なぜ、自分はここにいるのだろう。あの時、雅音に――ガオンに動脈を切り裂かれてから、何があったのだろう。  振り返ると、いつものように我が家が立っていた。小さなマンションのようななりをした、三階建ての三日月邸。けれど、その姿は、大変な苦労でもしたかのようにやつれていた。白亜の壁はくすみ、窓ガラスは曇り、玉手箱でも開けたのではないかというほどの始末。記憶の中の我が家は、あんなにも初々しかったのに。  芝の伸びよう、家の廃れよう、記憶の空白。  天真爛漫ながらも、冷静にものを考えられる(たち)である三日月雷志は、一つの可能性に至っていた。その仮説を現実のものにすることができるとすれば、人智を超えた力だ。  そんなものがあるだろうか。  ある。雷志は、それを知っている。  燐光を放つ円い扉。小さくしなやかな住人達。はじける水、舞う風。それが、雷志の青春。  大人になるまでの泡沫(うたかた)の、短くも鮮やかな秘密の三年間を送った、摩訶不思議な非日常の名をつぶやく。 「……フィライン・エデン……」  直後だった。  不意に気配を感じて、雷志は庭のほうを振り返った。そして、荒れた庭の真ん中に倒れた人影を見てぎょっとした。  自分と同じ、日本人離れした明るい髪に、他人ではないと確信した。とっさに駆け寄る途中、足元で布が翻って、今着ているのが、少し幼いデザインと言われながらもお気に入りだったワンピースであることに気付いたが、それは脇に置いておく。  うつぶせに倒れているそばに膝をつき、その体を抱き起した。一見して、中学生になりたての少女に見える。小学六年生の雷夢が最も近いが、母が子を見間違えるはずがなかった。  これは、雷奈だ。体型も顔立ちも子供っぽい雷奈が、高校に上がるかどうかという年頃に成長した姿だ。  雷志の知る雷奈は小学四年生だ。いつの間にか成長しているという不自然さから導き出されるは、雷奈が成長したらそうなるであろう姿によく似た、他人の空似。だが、そんな現実的で理性的な可能性よりも、雷志は己の勘と青春時代の超常体験をとった。それに、知らない間に時が経っているなど非現実的とはいえ、そう考えると、年をとった三日月邸もつじつまが合うのだ。  とかく、雷奈が傷だらけのうえ意識を失った状態で倒れている。この状況で、母が何もしないわけがない。  雷志は看護師だ。すぐにバイタルを確認し、低体温症と判断した。  周りを見回すが、人通りがない。着ているワンピースにポケットはない以上、自分は携帯電話の(たぐい)を持っていない。  ならば、と雷奈のプリーツスカートのポケットに手を突っ込む。硬い感触を引っ張り出して、それがスマートフォンだと確認すると、緊張でこわばった頬がわずかに緩んだ。そして、スリープを起こして表示された画面上の日付を見て、自らの推測の正しさを知る。  だが、すぐにロックが開いたのは意外だった。パスワードがかかっていなかったのだ。とはいえ、これは僥倖だ。  ロック状態でも救急車は呼べるが、今の自分の置かれている状況が曖昧な以上、公的機関を利用することは憚れる。けれど、連絡先一覧から見つけたこの名前に電話をかければ――きっと、彼女はかわいい妹を助けてくれる。  雷志は迷わず愛娘の一人、雷夢に電話をかけた。驚きを隠せずにいながらも、ホテルを指定し、タクシーを手配し、「先に入ってて、後で払う!」と断言してくれたことのなんと頼もしいことか。  雷夢に敷かれたレールをたどり、雷奈を背負って「眠ってしまったみたいで」と愛想笑いでフロントを突破し、部屋でできる限りの応急処置を施した雷志は、しばらくして、息を切らせて訪ねてきた長女と末女と再会した。  その後、容態の安定した雷奈のベッドの脇で、泣きじゃくりながら抱きついてくる雷帆と、手をぎゅっと握ってくる雷夢から、全てを聞いた。  自分はあの夜、死んだこと。雷夢と雷帆は宮崎に、雷奈は東京に散ったこと。雷奈がフィライン・エデンに関わったこと。雷志の過去を、雅音ことガオンの正体を知ったこと。鳴りを潜めたそのガオンが、再び動き出したこと。  そして、彼は現在、行方も生死も不明であることは――意識を取り戻し、今際の願いを叶えた雷奈の口から聞いたのだった。
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