陰口提供屋

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 アナザーワールドは非常に良くできている。  目の前に映る机や椅子はおろか、窓から見える建築物、自然物もリアルワールドさながらに創られている。  この世界にログインする目的は俺には一つしかない。それは『通学』だ。  仮想世界の構築によって、日常生活の多くのことがデジタルへと移行した。学校教育もまたその一つである。  普段はアナザーワールドを外側から見ているが、唯一学校だけはアナザーワールドの中に入っている。友達も趣味もない俺にとっては、アナザーワールド内の世界は退屈そのものだった。  人生における唯一の楽しみはアナザーワールドを外から見渡すことだ。  世界中の人々が何に熱中しているのか、どんな会話をしているのか、手に取るように全て分かる。その瞬間、自分はまるで神様になったような気分になる。  その瞬間が心地よかった。  現実世界は多勢に無勢が絶対的でつまらない世界だから。 「そういえば杏里、さっきの男子生徒って誰だったの?」  窓から見える街並みに目を凝らしていると、覚えのある名前が聞こえた。俺は反射的に声のした方へと顔を向けていた。教室は生徒たちによる雑談でうるさかったが、その声だけはなぜか鮮明に聴くことができた。  見ると三人の女子生徒が一人の机の周辺に屯している。 「ああ、あれ。一個下の後輩。この前、目の前で筆箱落としたからとってあげたんだ。そしたら、一目惚れしちゃったらしくてアプローチかけられたの」  椅子に座った彼女が自慢げな様子で答える。偉そうに肘を机につけながら浮世話に花を咲かせていた。髪は茶色に染められ、スカートを短くしている。夏服の第二ボタンまで外しており、おそらくしゃがめば豊満な胸が垣間見えることだろう。  高橋 杏里。昨日の陰口提供のターゲットとなった人物だ。  容顔、容貌は整えられており、美しく魅力的な姿に多くの男たちが一目惚れするのは無理もない。しかし、あの横暴な態度を見ると俺には合いそうもない。 「羨ましいなー、杏里は。そうやって、すぐ男子に惚れられて」 「まあ、日頃の行いがいいからかな」  高橋の発言に対して、三人の女子生徒は吹き出すように笑う。  こうして見る限りは四人の女子生徒は楽しく団欒しているように思える。  やはり人というのは末恐ろしい生物だな。全くもって心を読み取らせてくれない。  机の周りを囲む彼女たちは昨日、高橋の陰口を言っていた生徒たちだ。 『杏里は傲慢で嫌なやつだ』とか『生まれ持った遺伝子が良かっただけで努力なんてしていないのになんであんな偉そうなの』とか『変な男に連れられて人生めちゃくちゃになればいい』など、高橋に対して大層ひどい陰口を言っていた。  それでいて、当の本人の前では、その様子を一切見せず団欒を楽しんでいるのだ。見る限り仲良く見える様から彼女たちの演技力の高さが窺える。世渡り上手とはまさにこのことを言うのだろう。  にしても、クラスメイトの陰口を知ると生きづらくなるものだな。  今までは普通に見れた光景もその裏で何が行われるか知るとなんだかヒヤヒヤする。まあ、俺には一切関係のないことだから怯えたところでなんの意味もない。  ひとりでに小さくため息をつくと、椅子から立ち上がる。  嫌なことを考えて、蝕まれた心を清めようと風に当たることにした。校舎と校舎をつなぐ渡り廊下がそれを行うための最適なスポットだ。  他人であろうが陰口を知ると心が蝕まれる。  これからも多くの陰口に触れていくために心のケアは絶やさずに行う必要がある。  自分の心のケアはいずれ世界の心のケアにつながる。塵が積もれば山となるのだ。  この時はまだ、自分の行っていることが正義であると心から思っていた。  それを疑うなんて微塵も思うことはなかった。潔白な世界が一番綺麗であり、邪悪が漂う混沌とした世界は汚らわしいものだと本気で思っていた。  一ヶ月後、高橋 杏里が自殺したことを聞かされるまでは。
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