旅立ち、あるいは序章

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 あれは、本当にあったできごとなのだろうか。  なにもかもすべて、白昼夢のようなものだったのだろうか。  まゆは混乱していた。  だって、まゆが家を出ようとしたあの瞬間から、時間はまったく経っていなかった。まゆは、家から一歩も出てはいなかったのだ。   でも、まゆの記憶の中には怖いくらいにはっきりと、追われるように走った石だたみの通路や闇に包まれた出っ張りの岩場、長い階段を上った先の暖かい部屋と湯気のたつシチューの味、そして老人とみことちゃんとの会話が、鮮明に残っている。  まゆが突然泣き出した理由は、お母さんにしつこく訊かれたけれど言わなかった。というより、言えなかった。本当のことをくまなく言ったところで、絶対に信じてもらえないだろうと思ったからだ。なんでもない、とはぐらかしているうちに、お母さんもあきらめてそっとしておいてくれた。  眠れぬ夜を過ごした翌日、朝ごはんを食べるとすぐに、まゆはみことちゃんの家に行ってみた。今度はちゃんと表からだ。行ったことはなかったけれど、裏路地からのだいたいの見当をつけて、それらしきアパートの部屋のチャイムを鳴らした。きっと、みことちゃんは普通の顔をして、現れるはず。突然訪ねてきたまゆに驚いた顔をして、どうしたのまゆちゃん、なんて言うはず。そう、期待したけれど。  みことちゃんはおろか、ドアの向こうは物音一つしなかった。まゆの鳴らしたチャイムの音がかすかに響くばかりで、それも突然始まった騒々しいセミの大合唱にかき消されてしまった。  まゆはアパートの裏側に回り、水路沿いの路地に入った。昨日みことちゃんに会った場所だ。ベランダには、干しかけの洗濯物が風に揺れていた。ベランダの格子の間から覗き見た洗濯カゴに、みことちゃんが放りこんだ靴下の片方がひっかかったままだった。  まゆは、あの橋の下へも行ってみた。ただあいにく、昨日とは時間が違っているせいか、まゆたちが降りたコンクリートの足場はまだ川面の下に沈んでいて降りることはできなかった。後から干潮になるのに合わせてもう一度行ってみたけれど、だいたい予想していたとおり、あの入り口は影もかたちもなかった。夏の盛りの午後だというのに、橋の下の陰になった護岸壁の表面はひんやりとしていて、しばらくそこにたたずんでいたまゆは、肩を落として家に帰るほかなかった。  まゆのお兄ちゃんは、夏休みが終わる前にちゃんと家に戻ってきた。大学生で一人暮らしをしている従兄(いとこ)のところに転がりこんで、勉強を教えてもらっていたらしかった。塾は講師とそりが合わないから辞めたいとお母さんに話していたのを聞いて、まゆはなんだか少し、ほっとした。  新学期が始まった日、まゆは朝早くに学校に行って今か今かと待ったけれど、みことちゃんが教室に現れることはなかった。先生は、突然ですが、と前置きをして、みことちゃんが転校したと告げた。  唐突なそのお知らせにクラスはざわめいたけれど、みことちゃんは春に転校してきたばかりだから、意外とすんなり受け入れられた。親の都合で短期間しかいない生徒は、割合としては少ないけれどさほど珍しいことでもない。  ただ大人の間では、判明したいくつかの事情が噂となって回っていた。  ひとつは、みことちゃんの家の家賃がずいぶん前から滞納されていたこと。管理会社がみことちゃんのママに何度連絡をしても、つながらなかったこと。ふたつめは、近所の人によると、最近は子どもの姿しか見かけなかったらしいこと。そしていつからか、誰も住む気配のなくなったこと。それで、親が子どもを迎えに来て夜逃げしたのだろう、というような結論に至っていた。  そんな噂はまだ、子どもたちのところまでは届いていない。 「みことちゃん、どこに引っ越したんだろうね」 「仲良くなったばっかりだったのになあ」 「お別れ会、したかったよね」 「今ごろどこにいるのかなあ」  そんなふうにクラスメイトが話すのを、まゆは教室の窓ぎわの席で聞いていた。よく晴れた青空に、白い雲がゆっくりと流れている。  みことちゃんのママの所在などまゆにとってはどうでもいいことだけれど、みことちゃんが今どこにいるのか、まゆだけは知っている。  みことちゃんはよその学校に移ったのでも、夜逃げをしたのでもない。  みことちゃんは、世界を裏側から支える者の後継者となって、今もどこと知れない世界を旅しているのである。                        ー おわり ー
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