旅立ち、あるいは序章

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 正午を過ぎたばかりだというのに、外は薄暗かった。  どんよりとした雲が一面に広がっていて、雨模様なのはあきらかだったけれど、かまわずにまゆは家を出た。台所のほうからお母さんの声が追いかけてくる。まゆはドアを閉め、早足で歩き出す。  夏休みも半分を過ぎた。今のところ、小学校最後の夏休みはさんざんだ。  理由ははっきりしている。お兄ちゃんのせいだ。  中学三年のお兄ちゃんは高校受験を控えていて、遊んでいる場合ではないのに近ごろ塾をさぼってばかりで、しょっちゅうお母さんと言い争いをしていた。それでついに、夏休みに入ってからほとんど家に帰ってこなくなった。  たまに帰ってきてもケンカばかりで、お母さんの金切声を聞くたび、まゆは気が重くなる。お父さんは全部お母さんに任せきりで、仕事で遅く帰ってきて疲れているからか、たびたびお母さんと口論になる。おかげで家の中の空気は始終ぴりぴりとして、みんながいらいらしていた。  お母さんとまゆもささいなことでケンカになる。今日も、ちょっとしたことで言い合いになった。何が原因だったか思い出せないほどささいなことだ。  通りには湿気を含んだぬるい風が吹いていて、まゆの気分はいっそうふさぎこんだ。人や車の多い商店街のほうへ出る気になれず、まゆは神社のある山手に向かった。  川向こうの山腹の神社へ上がる石段の下に、小さな公園がある。遊具がほとんど無く日当たりも悪いので、あまり子どもがよりつかないところだった。気が晴れないとき、まゆはよくそこで時間をつぶした。  町の中には川へと続く細い流れが幾つもあり、水深も浅く底が透けて見えるほど水がきれいで、まゆはいつもその流れ沿いの裏路地を好んで歩いた。頭上へ視線を転ずると、左右にある家の軒や裏庭から張り出した枝葉の間に、濃い灰色の雲が流れてゆくのが見えた。  つかのま、まゆは過ぎ去ってゆく雲をうらやましく見た。まゆもあの雲のように、どこかへ流れてゆきたかった。そうすればもう、あの気づまりな家に帰らなくてすむ。  ふと、まゆは傍らのアパートの一階のベランダで、洗濯物を干す人影に気づいた。空模様は怪しく、しかももう午後だ。  乾くのかな。  そう思ってつい目を向けただけだったが、驚いたことに、その人影は同級生のみことちゃんだった。  みことちゃんの家が、この裏路地沿いにあるとは知らなかった。  この春に転校してきたみことちゃんは、背が低く線が細くて、内気で大人しい。まゆは普段から一緒に遊ぶような間柄ではないけれど、休み時間におしゃべりをして過ごすことは時々あった。  伏し目がちに黙々と洗濯物を干すみことちゃんは、近づいてゆくまゆになかなか気づかなかった。 「みことちゃん」  まゆの呼びかけに、みことちゃんははっと顔を上げ、まるで夢から覚めたように幾度か瞬きをした。視線をめぐらせ、ようやく焦点が定まると、まゆちゃん、と小さくつぶやいた。 「雨、降ってきそうだよ」  まゆが言うと、みことちゃんはゆっくりと空を見上げ、本当だ、と言って靴下を持っていた手を力なく落とした。  みことちゃんがぼうっとしているのは普段からめずらしいことではなかったけれど、今日のみことちゃんはいっそうぼんやりしているように見える。 「そうだ」  まゆはスカートのポケットを探り、飴をひとつ取り出して差し出した。 「あげる」 「……いいの?」  みことちゃんはまゆの手から飴を受け取ると、もどかしそうな手つきで小袋を破り、ピンク色の飴をそっと口に入れた。 「おいしい」  みことちゃんの笑い顔は、泣き顔のようにくしゃっとなるのが特徴だ。  まゆもポケットから出した飴を口に含む。普通のフルーツ味である。みことちゃんがくしゃっとなって笑うほどのおいしさでもないと思ったけれど、みことちゃんが嬉しそうなのでまゆも嬉しくなった。 「まゆちゃん、どこへ行くの?」 「神社の下の公園。みことちゃんも行く?」  一人になりたいから行くのだったが、まゆはつい、誘っていた。 「行く。ちょっと待ってて」  みことちゃんは持っていた靴下を洗濯カゴに放りこむと、いつものみことちゃんからは思いもよらない素早さで部屋の中へ姿を消した。表から回ってくるとずいぶん遠回りになる。そう思っていたら、みことちゃんは靴を持って戻ってきた。てぎわよく、ベランダの柵を乗りこえてくる。 「洗濯物、いいの?」  まゆが訊くと、さして高さのないベランダから飛び降りたみことちゃんは、そっけなく答えた。 「いいの。別に」  中途半端に干された洗濯物が、強くなってきた風に揺れていた。かすかに水の匂いがする。まゆはみことちゃんと連れ立って、神社のほうへ向かった。
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