旅立ち、あるいは序章

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 もうどのくらい上っているのか、まゆには見当もつかなかった。  十分くらいかもしれないし、何時間かもしれなかった。  岩肌に体を寄せ、一歩ずつ慎重に上ってゆく。足音は闇の中に吸いこまれ、下を見るのが怖くて振り返ることができず、前を向いたままときおり後ろをついてきているはずのみことちゃんに声をかけた。答えが返ってくるとほっとして、また一歩踏み出す。  やがて階段は、壁に行きあたった。また、四角い穴が開いている。その光景はもう、慣れたものだった。穴の向こうに、仄かな明かりのともる石だたみの通路が続いている。まゆが先にそこに入り、みことちゃんに手を差し出した。 「みことちゃん」 「うん」  二人は手をつなぎ、迷わず通路へと入ってゆく。  今度の通路は、まっすぐだった。ある程度覚悟はしていたけれど、どんなに進んでも明かりは消えなかった。  六年生にもなって、友だちと手をつなぐ機会なんてそうそうあるものではなかった。手のひらから伝わってくるみことちゃんの温かさに、まゆはどんなに安心するかしれなかった。  一人じゃなくて本当によかった、と心底思う。みことちゃんがいなければ、まゆはこれほど堂々と先へ進めなかったに違いない。  通路はそのうち階段となり、やがて天井に行きあたった。左右の壁からの明かりに照らされて、頭上に木製の扉が浮かび上がっている。正方形の小さな扉で、まゆが片手でそっと押すと、難なく持ち上がる。  まゆとみことちゃんは声を出さずにうなずき合い、二人で扉を押し上げた。  まず、木製の梁をめぐらせた天井が見えた。今までのような石積みの壁の通路や岩肌の空間ではなさそうだった。ここでひるんでもしかたがないので、まゆは思いきって顔を、それから上半身を出した。  そこには、石造りの床があり、漆喰の壁があり、木製のテーブルやイスや、そのほかの家財道具があった。吊り下がるランプには明かりがともっていた。みことちゃんも、まゆのわきから顔を出した。どこかの部屋の床に空いた穴から、二人は出てきていたのだった。 「いい匂いがする」  みことちゃんがつぶやいた。確かにいい匂いがしていた。何かを煮こむ、温かい匂いだ。 「めずらしいところから来たな」  突然、背後から声がした。まゆは思わず隠れようとしたが、隣に立つみことちゃんがジャマでしゃがめなかった。もたもたしているうちに、声の主が二人の正面に立った。  白髪で、白い髭を胸のあたりまで長く伸ばした老人だった。着ているものは足もとまで丈のあるひと続きの服で、もとは白かったが薄汚れてそのような色になったのだろうと思われる灰色をしていた。  老人は、ミトンをはめた両手で鉄の鍋を持っている。 「早く上がってきなさい。ちょうど、シチューができたところだ」  それに答えるみたいに、ぐうう、と、みことちゃんのおなかが鳴った。みことちゃんはおなかを押さえてうつむいた。老人は動じなかった。 「そうだ。ここへたどり着くものは皆、たいてい空腹だ。上がって、そこの壺の水で手を洗い、イスに座りなさい」  まゆはみことちゃんと顔を見合わせた。  老人からすれば、まゆとみことちゃんは床下から突然現れた訪問者だ。なのに、まるで二人が来ることを承知していたような口ぶりだ。  ただ、その老人の動じなさはまゆを安心させもした。もしかしたら、まゆたちがここへ来た理由も、老人は知っているのかもしれない。  まゆとみことちゃんは老人に言われたとおり、壁ぎわの台の上の壺にたまった水で手を洗い、長方形のテーブルの席に並んで腰かけた。  室内に窓はなく、片隅に台所があった。電気やガスが通っている気配はなく、石造りの流しとかまどのようなものがある。流しのわきには、先ほどまゆたちが手を洗ったのとは比べものにならないほどの大きな壺があった。その隣に、古びた蝶番と取っ手のついた、頑丈そうな木製の扉がある。テーブルセットは部屋の中心にあり、反対の隅には木製の引き出しのついた棚や書き物をする机といすなどが漆喰の壁に沿って配置され、その横に隣の部屋へと続く扉のない出入り口があった。  ふと気づくと、まゆとみことちゃんが出てきたはずの床の扉は、もうどこにも見当たらなかった。  老人はテーブルの上で鍋からシチューをよそい、二人に差し出した。平たい椀によそわれたシチューはふわりと湯気がたち、とてもおいしそうに見えたけれど、まゆは逡巡した。  とてもおいしそうに見えるけれど、もしこれが、罠のようなものだとしたら。ここまで来るのに、まゆとみことちゃんはけっこうな苦労をした。追われるように通路を走り、出っ張りに放り出された。これもまた、二人を追いつめる何かでないという保証はない。  しかし、まゆの思案をよそに、みことちゃんはシチューのとろりとした表面をじっと見つめると、やがて意を決したようにスプーンをとった。  一匙すくい、口に入れる。そこからはためらいがなかった。  まるで急がないとシチューが消えてしまうかのように、せわしなくみことちゃんはスプーンを口へ運んだ。それを見ていると、まゆも唐突におなかが空いてきて、がまんできずに食べ始めた。予想どおり、シチューはとてもおいしかった。温かさが体中にしみわたって、これまでの疲れがいっぺんにふきとぶような心地だった。  二人が食べ終わるのを、向かいの席でじっと見守っていた老人は、空になった椀をみことちゃんが流しへ運ぼうとするのを制した。 「かまわない。今はまだ、これはわたしの仕事だ」  そう言って、洗い物を持って台所へゆく。  その間に、まゆはみことちゃんに耳打ちした。 「ねえみことちゃん、あの人の声、なんだか変じゃない?」 「うん。なんだか変」 「やっぱり、そうだよね」  この部屋へ入ってからずっと気になっていたことだった。  老人の声は、耳から入ってくるというよりも、頭の中に直接響いてくるようなのだった。  
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