旅立ち、あるいは序章

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「おまえたちのうちの、どちらか。一人は世界を裏側から支える者の後継者となる。一人は、もとの場所へ戻る」  老人の言葉を、まゆは頭の中で反芻(はんすう)した。  戻ることができるのは、まゆとみことちゃんの、どちらか一人。  まゆは横目でそっとみことちゃんを盗み見た。みことちゃんは伏せた目を、テーブルの表面へと向けたままじっとしていた。そういえば、さっきから老人に質問しているのはまゆだけであって、みことちゃんはひとこともしゃべっていなかった。  どちらか、一人。  まゆか。みことちゃんか。  どちらか一人を、誰が選ぶのだろう。目の前の老人だろうか。それとももうすでに、どちらかは決まっているのだろうか。  そのとき、ずっと黙っていたみことちゃんがふいに顔を上げ、老人に問いかけた。 「世界を裏側から支えるって、何をするの?」 「それはまだ、後継者の知るところではない」 「……後継者って、何をするの?」 「己が裏側から支える世界を、長い時間をかけ、その足で巡り、その眼で見て、その耳で聞く。そして留め置く。その胸に」  ただし、と言って老人は、ちらりとみことちゃんを見た。 「その世界は、おまえたちの知る世界ではない。後継者は必ず違う世界から選ばれる。見たことのない初めての世界を、一から知ってゆくのだ」  みことちゃんはまた、目を伏せ、今度は睨むように、テーブルの表面を見つめた。それを横目に見ながら、まゆはますます困惑していた。みことちゃんの胸中がまるで読み取れなかった。  まだ現実を受け入れられないまゆと違って、みことちゃんは先の話をしている。  がまんできずに、まゆは老人に訊ねた。 「あのう、どちらか一人って、どうやって決めるの?」 「それは、わたしにもわからない。何しろ、わたしがこの役目を仰せつかったのは初めてのことだし、この、世界を裏側から支える者の後継者を迎える部屋に来たのも初めてのことなのだ。まさか二人来るとは思ってもいなかった」 「仰せつかったって、誰から?」  なんとか、二人でもとの世界に帰れないものだろうか。この老人に言ってもきいてくれそうもないので、まゆは他の誰かに頼めないかと思った。しかし、老人はにべもなかった。 「それは、まだおまえたちの知るところではない」  訊いても答えてくれることはわずかで、残りのほとんどは後継者とやらにならなくては教えてもらえないのだろう。老人は一人、のんびりとしている。 「わたしはただ待つのみだ。結果はおのずと現れるだろう」  呆然とするまゆの隣で、一心にテーブルの上のどこかを見つめていたみことちゃんが、ゆっくりと長く息をはいた。そしておもむろに、まゆを振り返る。 「まゆちゃん。わたし、後継者になる」 「みことちゃん?」 「ねえ、おじいさん。わたしが後継者になってもいい?」 「もちろんだ。わたしの関与しない結果をわたしは受け入れる」 「ね、だからまゆちゃん、まゆちゃんは、帰って」 「みことちゃん、何言ってるの?」  後継者が自分でなければいい。ついさっきまでそう思っていたはずなのに、まゆはみことちゃんの言葉にあわてた。 「だめだよ。後継者になると、もう家には帰れないんだよ。ママにも会えないんだよ。みことちゃんのママだって、すごく心配するよ」  口にして、まゆはそうだと思った。  まゆがいなくても、お母さんにはお父さんも、反抗的だけれどお兄ちゃんだっている。しかしみことちゃんのママには、みことちゃんしかいないのである。家に帰らなくてはならないのは、みことちゃんのほうだ。  でもだからといって、じゃあ自分が行く、ともまゆは言えない。自分は行きたくないし、みことちゃんを行かせるわけにもいかない。  どうしていいかわからずまごついていると、みことちゃんがひどく冷めた目で、まゆを見た。 「ママは、心配しない」  みことちゃんの声は、ぞっとするほど冷たかった。 「ママは、わたしがいなくてもいいの。いないほうが、きっといいの。今までだって、二三日帰ってこないときはあった。でももう、十日以上帰ってこないの。家にはもう、食べるものもお金もない。公衆電話から何度もママに電話をかけたけど、ママは出ない。ママは、わたしがいらないの。だからわたしは、帰ったってしょうがないの」  まゆは、頭が真っ白になった。まさか、と思うし、でも、とも思う。 「で、でも、そんなこと、もう帰れなくなるのに、簡単に決めちゃ」 「まゆちゃん」  まゆの弱々しい言葉は、みことちゃんの力強い声に簡単に遮られる。 「わたしもう、帰りたくない。誰もいない、散らかったままの、汚れ物ばかりの、何も食べるものがないあの部屋には。もう何もいらない。ママも、家も、何もかも。これが宿命なら、わたしはこっちのほうが、いい」  そう言ってまっすぐに顔を上げたみことちゃんは、いつものぼんやりとした内気で大人しいみことちゃんではなかった。まったく別人のような、晴れやかな顔をしていた。 「まゆちゃん、さっき、公園に誘ってくれてありがとう。すごく嬉しかった」 「……そんな」 「飴をくれてありがとう。わたし、本当にすごくお腹が空いてたの」 「みことちゃん」 「仲良くしてくれてありがとう。わたし、まゆちゃんのことを絶対に忘れない。まゆちゃんもわたしのこと、忘れないで」 「嫌だ、みことちゃん行かないで」  思いあまって、まゆは言った。言ったところで、どうにもならないことはさすがにもう、まゆにもわかっていた。みことちゃんはすっかり覚悟を決めているのだ。 「では問うぞ」  みことちゃんに向かって、老人は訊いた。 「おまえは、いきたいか」  はっきりと強く、みことちゃんは答えた。 「いきたい」  まゆはそれ以上、何も言えなかった。  いったい何が言えるというだろう。老人の問いはまゆの頭の中に直接響き、みことちゃんの答えもまた、今や耳に届くのではなく、まゆの頭の中に直接響いてくる。  みことちゃんの言葉は文字になって、まゆの頭の中にくっきりと浮かび上がった。  生きたい、と。
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